国衆当主はつらいよ~毛利元就と徳川家康の共通点とは

 前々回と前回と続いて公開させて頂いた記事では、日本戦国期の主人公・戦国大名に匹敵する勢力『国衆(地元の殿様)』について記述しました。
 国衆は、自身の家中(家臣団・軍事力)を有し、複数の領地(農地農村や町)あるいは一郡を排他的(一円的)に支配する戦国大名ならぬ『戦国小名』的存在であり、家中と領地を護るために地方の有力戦国大名(各地方の武家の棟梁的存在)に臣従する勢力であった、という事は前回にも触れさせて頂きました。
 国衆は戦国大名に臣従することにより、自身の家中と領地の安堵(保護)を大名家から受けられる代わりに、大名家が命じる出陣要請(軍役)や築城普請などの国役に応じる義務があり、また大名家への忠誠の証として、国衆の眷属から人質を出すことも求められました。
 戦国大名からの出陣要請・人質要請に応じることが、大名家の保護を受ける国衆が遂行する義務でしたが、これらを果たせば、国衆は強者である大名家から家中と領地を安堵され、それ以外の領国統治については、掣肘を大名家から原則的に受けることがなく、国衆は変わらず「地元の殿様」として、本領内に屋敷と城砦を構えて、領内の民百姓を支配下に置いていました。
 国衆の保護者的存在(その役目を義務とする「武家の棟梁」)である戦国大名も、傘下国衆の存続・既得権益を安堵することにより、大名家の動員兵力数や支配圏拡大に繋がる上、広大な領国を統治するための面倒な手間が省ける利点がありました。しかし、武家の棟梁たる戦国大名が、敵方勢力との合戦に敗退し、傘下国衆の領地が侵食されるなど、大名家の武威を後退させる失態を招くと、傘下国衆は忽ち大名家から離反し、より強勢の他の大名家へ鞍替えしました。
 武家の棟梁として、配下の武士団(国衆)の領地や御家を護るのが、戦国大名の第一義務であるにも関わらず、敵勢力に傘下国衆の領地を侵されることを許してしまうのは、大名家側の約定違反であり、この悪状況を挽回できないと国衆は容赦なく大名家から離反したのです。
 戦国大名と傘下国衆は、両者が抱える「双務関係」によって各戦国大名家の支配圏が成り立っていたのですが、特に大名家に比べ、戦国小名というべき存在である国衆は、混沌とした戦乱を生き残るために、どの大名家に従属することが国衆とって良き道なのかを見定める政治的洞察力と生き残り術、即ち『サバイバル戦略』が必要不可欠でした。
 特に、A大勢力とB大勢力がぶつかり合うような国境付近、即ち「境目」の土地や郡を所領とする国衆はAとBからの両勢力から圧迫を直に受ける地理的環境にあるので、特に過酷なサバイバル戦略を採ることを余儀なくされました。





 
 2大勢力、或いは複数の強勢力(戦国大名)の狭間で、生き残った国衆を思い起こしてみるとき、真っ先に筆者の脳裏に思い浮かぶのは、15世紀末~16世紀中期頃の安芸国の一国衆であった『安芸毛利氏(大江姓)』であります。ご存知、戦国期随一の智将(謀神)として名高い毛利元就が誕生した家柄です。
 毛利元就、その父・毛利弘元、元就の兄・毛利興元らが安芸毛利氏の当主であった16世紀初期の中国地方は、周防・長門の2ヶ国を中心に北九州や山陽地方に勢力を伸張していた名門戦国大名(元・守護大名の家柄)の「周防大内氏(当主:大内義興大内義隆父子)」と、出雲国を中心に石見や伯耆・備中など山陰地方に勢力を張っていた戦国大名(元・守護代の家柄)の「出雲尼子氏(当主:尼子経久尼子晴久)」の2大勢力が割拠し、大内と尼子は中国地方の覇権を争っていました。
 山陽の大内氏と山陰の尼子氏と強豪に挟まれていたのが、毛利氏が本拠とした安芸国と備後国の2ヶ国でした。安芸備後は、ご存知の通り、現在の広島県全域に相当し、中国地方最大の都市圏を形成する県でありますが、毛利元就が在世時の安芸・備後は、大小の国衆が各地の郡や村々に城砦を築いて、蟠踞している分裂状態でした。
 毛利元就が活動した時期(16世紀初期~同中期)の安芸国には、毛利氏(大江氏)をはじめ「高橋氏」「宍戸氏」「厳島神主家/佐伯氏」「吉川氏」「天野氏」「熊谷氏」「平賀氏」「沼田小早川氏」「竹原小早川氏」「安芸武田氏」等々、安芸国衆の多くは中世初期に興った東国武士団の末裔たちが安芸国内の各郡に濫立している情勢でありました。
 安芸武田氏は、ご存知甲斐武田氏(甲斐源氏)から分脈した名門武家であり、本来は安芸国の守護大名、同国の武家の棟梁とされた家柄でしたが、戦国期になると国内に台頭する国衆を統制する力は無くなっており、安芸武田氏(当主:武田元繁)でさえ、大内氏と尼子氏の2大勢力の狭間で翻弄される立場でした。
 鎌倉幕府初代政所別当・大江広元を祖先に持つ安芸毛利氏は戦国期、上掲の安芸武田氏よりも弱小勢力であり、安芸国北東に位置する吉田荘(居城:吉田郡山城、現:安芸高田市)を本拠として高田郡を領有する山間の国衆でした。
 一般的に、安芸毛利氏の初期所領は貫高制で「吉田3000貫」と称されますが、それを馴染みのある後年の「石高制」に換算(江戸期の1貫=2石)すると、「約6000石」であります。これは江戸幕府の直臣大身旗本に匹敵するほどの身分、即ち6000石の収穫高がある村落領主に過ぎず、戦国期に生きる領主にしては、『1万石付き=約250人~300人』という後の太閤検地で規定された石高制にすれば、吉田3000貫期の国衆も過ぎなかった安芸毛利氏の動員できる兵力と経済基盤は、脆弱そのものであります。
 尤も、安芸毛利氏の国衆本家が直轄する吉田荘(吉田村)が3000貫(約6000石)の領地規模を示した数値であり、戦国小名(地元の殿様)である毛利氏本家は、多治比・相合・北・福原・坂・桂・志路(志道)・国司・粟屋・竹原など村々を支配する庶家(一門)や譜代・地侍を糾合し『毛利家中/独自の軍事力』を構成していたので、「500人~1000人未満」の兵力を動員できたと思われます。





 1517年(永正14年)2月当時、未だ毛利氏庶家身分であった毛利元就(当時、多治比元就。20歳)が率いる安芸毛利軍(その援軍として吉川軍も含む)が、安芸国内の有力勢力であった安芸武田氏の当主・武田元繫、それに従軍していた国衆・安芸熊谷氏の当主・熊谷元直らを討ち取った『有田中井手の戦い(有田城の戦い)は、戦国武将・毛利元就の初陣として有名であります。
 この戦いで、毛利軍に対峙した武田元繫を総大将とする安芸武田軍(熊谷・香川など安芸国衆の軍勢も含む)の総兵力は5000~5500の大軍とされる一方、毛利元就が率いる毛利軍・その援軍の吉川軍を含める兵力数については、「1000騎」(陰徳太平記)や「800」「1500」「2000」と諸説ありますが、この当時の安芸毛利氏は、傘下の福原氏や坂氏など毛利家中の軍事力を総ざらいしても500人~1000人の兵力しか動員できない国衆でした。
 敵方であった安芸武田軍5000に比べ、遥かに劣勢であった安芸毛利軍(しかもこの昨年に毛利氏当主・毛利興元(毛利元就の長兄)が病没している混乱期)であるにも関わらず、当時20歳の青年武将、しかも初陣であった毛利元就が見事な逆転勝利を収めています。
 この華々しい勝利デビューを飾った毛利元就/多治比元就は、庶家の身分でありながら毛利家中において存在感が増すようになり、1523年(大永3年)、毛利氏本家の当主であった亡兄・毛利興元の嫡子・毛利幸鶴丸が夭折した際、元就は「福原広俊(元就の母方祖父)」「志道広良」といった毛利氏重鎮の後押しを受けて、毛利氏本家の当主と就任することになります。尤も元就が毛利宗家を相続した直後、それを快く思わない元就異母弟の相合元網、毛利氏の有力庶家の坂広秀や桂広澄、譜代の渡辺勝らが元就に対して謀反未遂事件が起こっています。

 因みに、後に天下に勇名を馳せる戦国大名・大毛利氏を一代で築き上げる毛利元就ですが、毛利氏が覇者的地位に急成長するのは、1560年前後(永禄年間)、元就が50代後半の高齢期になってからであり、それ以前までの元就は安芸国の中小国衆として、常に乏しい国力と兵力で大勢力の敵と戦うことを余儀なくされました。
 毛利元就の初陣であった「有田中井手の戦い」(1517年)も、元就が圧倒的な不利の戦況を覆して勝利を収めた好例ですが、その他にも「吉田郡山城籠城戦」(1540年/天文9年、元就43歳)、そして有名な厳島の戦い(1555年/弘治元年)があり、毛利元就は生涯で3回も圧倒的な劣勢を覆して、強力であった敵勢力を撃破する『寡を以って衆を砕く』という日本人好みの大勝を複数回も達成しています。
 毛利元就は「智将・謀神」と謳われるほど頭脳プレーが強調されていますが、元就が武将としての本当の凄さは、自身の不利な戦況の中、上掲の3大合戦に勝利しているという神懸かり的な戦上手であります。
 東海の織田信長桶狭間の戦い(1560年/永禄3年)、関東の北条氏康河越夜戦(1546年/天文15年)も、自身の圧倒的不利な戦況を覆して勝利した戦史(「日本三大奇襲戦」)として有名ですが、信長・氏康らはこれ以降、味方不利の兵力で戦うという冒険的な合戦は行っていません。戦況不利な戦いに快勝する、しかも複数回も達成しているという戦歴を持っているのは、毛利元就だけであります。
 先述のように、その大快挙を成せるほどの軍事的才能が毛利元就に備わっていた、ということは当然の理なのですが、元就が他の戦国大名に比べて、大小の合戦に参戦している上、戦歴が異常に長く軍事経験が豊富なベテラン戦士であったという点も、元就が戦国期随一の戦上手になった理由の1つでしょう。
 毛利元就が最後の総大将/最高現場指揮官として、戦場に挑んだのは、1567年(永禄10年)に、毛利氏の宿敵・出雲尼子氏を滅ぼした「第2次月山富田城の戦い」であり、この時、元就は70歳という高齢でしたが、初陣から約50年間、戦場に立ち続けたのであります。
 先述のように、毛利元就の初陣は20歳(有田中井手の戦い)であり、武士は元服直後(15歳前後、早い例だと13歳)に初陣を済ませるという点からすると、元就の初陣は相当遅いのですが、その後の元就の生涯は、(他の戦国大名や国衆と同様)、合戦に次ぐ合戦の生涯でした。
 約50年という軍歴の長さを持つ毛利元就に匹敵するのが、後に天下人となる徳川家康(旧名:松平元康。最後の出陣が大阪夏の陣。家康74歳)であります。元就と家康、直接的には関係が無いこの戦国期の2英傑ではありますが、彼らの生涯を比較していると、軍歴の長さ以外にも共通点が多いのです。

⓵健康には気を付けたので長命である上、晩年に至るまで子福者であること。

⓶実家は2大勢力に挟まれ辛酸を嘗め続けた中小国衆であり、50歳半ばまで大勢力への臣従を余儀なくされ、漸く大飛躍の時を迎えたこと。

⓷一般的イメージでは、織田信長や豊臣秀吉とは違って、地味かつ保守的要素が強い性格であり、大衆を惹きつけるようなカリスマ性が感じられない大将であること。(良く言えば、堅実で慎重にして、自身の成功体験に酩酊することが無い謙虚な性格)

 以上のように毛利元就と徳川家康との共通点が挙げられますが、その中でも⓶に挙げたように両者は国衆出身であり、2大勢力の衝突で翻弄されながらも、勢力を徐々に蓄え、戦国期を見事に生き残った、ということが一番の酷似点と言えるでしょう。





 毛利氏本家の当主となった27歳から厳島合戦の大勝する58歳まで毛利元就は、西の周防大内氏と東の出雲尼子氏の2大勢力間の抗争の中で揉まれ、松平元康こと徳川家康も幼少~壮年期までは、名門・駿河今川氏と強豪・尾張織田氏の間で翻弄され続けた上、今川氏滅亡後は戦国最強と言われた甲斐武田氏(武田信玄・勝頼父子)と長年にわたって対峙することになります。
 毛利元就は主に周防大内氏に従属する安芸の国衆として、安芸・備後の両国、即ち現在の広島県全域を舞台にして、出雲尼子氏やその与党国衆との抗争に明け暮れ、徳川家康は織田信長を棟梁とする尾張織田氏に半ば従属する国衆として、駿河今川氏、次いで甲斐武田氏との苦闘に明け暮れることを余儀なくされました。
 毛利元就にしても徳川家康にしても、大内義興や今川義元のような「名門戦国大名=各地方の武家の棟梁」よりも弱者である国衆当主であったために、大名家の傘下に入り、その御家拡大のために軍役負担(合戦出陣、大名家への「手伝い戦への参戦」)を果たし続けたのですが、この辛苦の経験が却って元就(毛利氏)・家康(徳川氏)が一代で大飛躍することになった要因の1つとなったことは間違いありません。
 「戦いが王者をつくる」という格言が確かあったように思えましたが、そういう意味では、毛利元就・徳川家康という戦国期当時ありふれた国衆出身に過ぎなかった両者は、合戦に次ぐ合戦によって生き残り、王者へと成り上がった好例と言えるでしょう。
 毛利元就は、周防大内氏の傘下国衆として山陰の強敵・出雲尼子氏やその傘下であった出雲・北備後の国衆らを相手にして大小の合戦や外交謀略などで対峙して勝利することにより、毛利氏の保護者的立場である大内氏から信用を得たばかりか、毛利とご同業である熊谷・天野・宍戸・小早川といった安芸国内の国衆から『安芸国衆一揆の棟梁(代表者)』として信頼されるようになり、後の大戦国大名・毛利氏の礎を築いています。
 歴史学者の磯田道史先生に拠ると、毛利元就が安芸国の戦国大名(国衆一揆の棟梁格)として安芸国内の国衆から決定的に信用されるようになった契機は、吉田郡山城籠城戦で出雲尼子氏の大軍を撃退した時であり、国衆たちは『毛利元就に従っていれば合戦に勝てる』と思ったに違いない、と仰っておられます。(NHKBSP『英雄たちの選択』より)

 毛利元就が西の周防大内氏の傘下国衆として勢力を蓄えたとするならば、徳川家康は西の織田信長という戦国大名を後ろ盾として、東方へと勢力伸長してゆきました。
 有名な桶狭間の戦い以前までの三河松平氏(松平元康)は、西方の駿河今川氏・今川義元の傘下国衆として、尾張織田氏と対峙していましたが、義元が桶狭間で討死し、今川氏が戦国大名(武家の棟梁)としての地位を大きく衰退させると、家康は今川氏傘下から離反し、父祖の代から仇敵であった尾張織田氏(織田信長)と盟約を結びます。即ち有名な「清州同盟」であります。
 国衆・徳川家康こと当時の松平元康は、明主・今川義元をはじめ多くの有力家臣団を喪った駿河今川氏が、三河松平氏の領地や家中を安堵してくれる能力が無いと判断、西方の新興勢力であった尾張の織田信長と盟約を締結し、松平氏の安堵を図ったのです。
 墜ちゆく名門・駿河今川氏と上昇する新興の尾張織田氏の勢力差を冷静に見つめ、「どちらが松平氏を護ってくれるのか」という一点のみを熟慮し、決断した国衆当主・徳川家康こと当時の松平元康の姿勢が分かるものであります。
 それ以降の徳川家康は、三河一向一揆の苦闘、親今川派の三河国衆との大小の合戦を経て三河国を果たし、後には甲斐武田氏と密約を結び、今川氏傘下の国衆が多く割拠する遠江国にも侵攻し、徳川氏の領域を拡大してゆきます。





 1570年代(元亀天正期)には、三河・遠江の2ヶ国にも及ぶ領域を確保した徳川家康は、東海地方における有力者となっていると言っても過言ではないのですが、それまで家康の盟友であった織田信長の尾張織田氏は、本拠地の尾張国をはじめ美濃・伊勢・近江一部・大和など豊穣な領国を広大に支配している天下一級の大勢力であり、一方、東方の武田信玄の甲斐武田氏も、(信長の織田氏に及ばないにしても)、本貫地の甲斐国をはじめ信濃・駿河・上野など広大な支配圏を持つ東国の覇者と言っても過言では無い有力戦国大名でした。
 徳川家康という人物(上掲の毛利元就もそうですが)は、年代を重ねるに連れ勢力を伸張しながらも、50代後半の壮年後期(晩年前期)まで、自分より大勢力の連中に頭を抑えられ続けられる損な役回りをやらされました。その家康の頭を抑え続けたのが、西方の織田信長であり、その後継者である豊臣秀吉であり、東の武田信玄、或いは北条氏政たちでした。
 常に大勢力の間を翻弄され続けたという姿も国衆・徳川家康の姿を如実に顕しているのですが、30代の壮年期であり、三河・遠江に支配圏を持つ家康は、当時東海・畿内まで勢力を急成長させていた盟友・尾張織田氏を戦国大名、武家の棟梁として戴き、最強の甲斐武田氏との激闘を繰り広げることになります。
 元々、小心であり律儀な性格であったと言われる徳川家康ですから、以前より盟友関係にあった暴力的な織田信長との関係を悪化させたくなかったという個人的感情もあったと思いますが、やはりこの当時でも尾張国以西の豊かな領国を多く領有する信長と、最強ながらも生産力が低い山国ばかりを領域とする武田信玄(その後継者・武田勝頼)との勢力の格差を見極めた上で、家康はカリスマ・織田信長が率いる尾張織田氏を武家の棟梁として仰いだのではないでしょうか。
 まさかこの約30年後に、国衆当主として尾張織田・甲斐武田の狭間を右往左往していた徳川家康が、源頼朝足利尊氏に続いて、京都朝廷から公認される「正真正銘の武家の棟梁=征夷大将軍」として大成するとは、家康本人も思っていなかったことでしょう。
 尾張織田氏の傘下に入り、強敵・甲斐武田氏との対峙の政略を採った徳川家康は、織田氏の後押しを得ながら武田氏を滅ぼすことに成功し、難局を乗り越えることができたので、結果的に家康のサバイバル戦略は良とするのですが、その過程において、家康は戦国大名・織田信長の傘下国衆の一員として、信長からの度重なる援軍要請、遂には武田氏との内通を疑われた家康正室・築山御前、嫡男・松平信康の断罪を信長から強請される憂き目にも遭っています。有名な「築山事件」(信康事件)であります。
 築山事件の原因については諸説あり、徳川家康・松平信康父子同士の相剋、家康と正室・築山御前との不仲説などが以前より取り沙汰されていましたが、徳川氏を軍役や対武田戦線に酷使する徳川の盟主・織田信長に対して、不満を抱く反織田派の徳川家臣団が松平信康を戴いての謀反計画の結果などという説もあります。筆者も後者の反織田派の徳川家臣団の不満爆発が築山事件の主因と思います。
 事件についての原因がいずれにあるにしても、徳川家康が甲斐武田氏と対峙中において、正室と嫡男を喪っているお家騒動を経験していることは確実であり、織田・武田の2大勢力の狭間の弱者の悲哀を家康は味わっています。
 国衆の基本戦略は『領地保全』『家中維持』の2つであり、それらを達するため国衆当主は、戦況に応じて臣従する戦国大名を次々と鞍替えする風見鶏的な変節漢も演じ、自身の親類らの犠牲を払うことも敢行しました。
盟主・織田信長からの軍役負担命令への従事、築山事件で正室と嫡男を犠牲にした徳川家康は上掲の国衆の基本戦略(御家存続)を忠実かつ冷徹的な国衆当主として遂行していったのであります。
 徳川家康が大勢力に苛まれる中小規模の国衆クラスを漸く脱却し、一戸の戦国大名として一時的ながらも立つことができたのは、1582年(天正10年)でしょう。この1年は、正しく徳川家康が大きく飛翔した1年でした。
 先ず春には、長年徳川家康を苦しめた強敵・甲斐武田氏が滅亡し、2大勢力の1つがこの世から消え去ります。そして、同年初夏に有名な本能寺の変が勃発し、家康の主筋であった織田信長が急死。残りの1大勢力であった尾張織田氏が急転落します。
1582年の初期内において、国衆・徳川家康の頭を常に抑圧し続けてきた2大勢力が一瞬にして消滅してしまったのです。
 この大事件は、その後の日本史に多大な影響を及ぼすことになるのは皆様ご存知の通りですが、徳川家康の生涯、徳川氏の家運においても大転換点となった一大珍事でした。
 甲斐武田氏の滅亡、本能寺の変による尾張織田氏の衰退で、空白地帯となってしまっていた甲斐・信濃南部、即ち武田氏旧領の大半を徳川家康は占領することに成功し、徳川氏の支配圏は、三河・遠江・駿河の東海3ヶ国と甲信2ヶ国まで及び、家康は僅か1年内で、かつての宿敵・甲斐武田氏を上回る有力戦国大名として急成長を遂げることになったのです。
 また家康は、「旧甲斐武田氏の人材(天下第一級の軍人たち)」を一括的に召し抱え、徳川氏の軍事力の向上にも成功しています。この徳川家康に仕えた旧武田氏家臣団が、家康側近の1人である井伊直政に付与され、徳川最強軍団となる『井伊の赤備』になることは、あまりに有名であります。
 前掲の歴史学者・磯田道史先生の言を拝借させて頂くと、『徳川家康は、旧武田氏家臣を手入れることによって、どんな物(敵)の突き破る強力な槍先を手入れたのです。徳川軍が際立って強くなるのは、これ以降です。』(「英雄たち選択」番組内より)
 周知の通り、後年、徳川家康は織田政権の後継者となった羽柴秀吉(豊臣秀吉)との小牧長久手合戦、その後の秀吉との外交駆け引きを経て、秀吉に臣従。家康は壮年期に味わった国衆身分(家来筋)を再度経験することになるのですが、以前の尾張織田氏臣従期とは違い、秀吉政権下の徳川氏は自他共に認めるナンバー2、大番頭格として君臨、秀吉死後の豊臣五大老筆頭となり、天下分け目の関ヶ原合戦の勝利で、天下の覇者になったのです。

『家康の天下を取る 大坂の陣にあらずして関ケ原合戦にあり、 関ケ原にあらず 小牧にあり』

 という徳川家康が天下人に成り得た理由を記した上記の有名な一文は、江戸幕末期の歴史家・頼山陽著の『日本外史』に記されているものですが、小牧長久手合戦の数年前まで、尾張織田氏・甲斐武田氏の2大勢力間の競合で、幾多の合戦を経験し、生き残った国衆当主・徳川家康が、織田・武田の両氏が没落後に、東海・甲信の5ヶ国、旧武田氏の逸材たちを吸収したからこそ、小牧長久手で強敵・羽柴秀吉の大軍を局地的に撃破する基礎体力があったのです。
 そういう意味では、徳川氏の盟主・尾張織田氏の命令で、天下最強の甲斐武田氏との苦戦を強いられていた国衆・徳川家康も、隣国に武田氏が存在したからこそ、家康と徳川氏家中が鍛えられた上、武田氏滅亡後には、故・武田信玄の軍略を継承する甲州武士団を徳川傘下に迎えることができたのであります。そして、前掲の磯田道史先生と歴史家・頼山陽が評するが如く、この徳川氏戦力大強化(強力な槍先入手)が、小牧長久手での勝利、ひいては家康の天下人への道が拓けることにも繋がるのです。

 筆者は前文にて、国衆が生き残るためには、「戦況に応じて臣従する戦国大名を次々と替えた」ということ記述させて頂きましたが、今回の記事の主人公の1人であった毛利元就も周防大内氏、出雲尼子氏、また戻って大内氏へと臣従する戦国大名を戦況に応じて、鞍替えしていった国衆でした。
 「中小規模の武家勢力=国衆」が生き残るためには、2つ以上の大勢力に対して内股膏薬(両面外交)を掛けるのを生存戦略としていたので、安芸毛利氏の毛利元就は、戦国期国衆の筆頭的例であり、その成功者としても好例中の好例的存在と筆者は思っているのですが、中国地方の元就に匹敵する戦上手・智将にして、元就以上に複数の大勢力間を巧みに渡り合った「小さな大巨人」が存在します。
 即ち、天下人・豊臣秀吉をして『天下比興の者(油断ならぬ切れ者)』と言わしめた、信濃の国衆・真田昌幸であります。
過去のNHK時代劇「真田太平記」では故・丹波哲郎さんが真田昌幸を好演され、2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」では草刈正雄さんの熱演により、真田昌幸が大いに注目されました。(因みに、草刈さんは「真田太平記」では、昌幸次男の真田幸村役を演じられています)
 そして、今年2023年の大河ドラマ「どうする家康」での真田昌幸役は、名優・佐藤浩市さんに決定し、ネット上で話題となりました。佐藤さんは昨年の同ドラマ「鎌倉殿の13人」では、坂東武士の筆頭的存在であった上総広常役の好演ぶりが記憶に新しいですが、2年続いての大河ドラマ出演となります。
どうする家康の一視聴者でもある筆者としては、名優・佐藤浩市さんが、天下比興の者・真田昌幸をどのように演じて下さるのか、心待ちにしている次第ですが、史実での真田昌幸も複数の戦国大名に巧みに仕え続け、生き残った名役者でした。





 今回は、戦乱の世を生き残るために2大勢力間で奮闘した国衆の代表例、その成功例として、毛利元就と徳川家康の2人を紹介させて頂きましたが、次回は、その両者の上を行った信濃の国衆・真田昌幸について追ってゆき、昌幸が展開したサバイバル戦略について追ってゆきたいと思います。歴史学者・黒田基樹先生は自著『国衆』(平凡社新書)内において、真田昌幸が展開した戦略は、戦国期にも珍しい『ウルトラC級』と評されていますので、それを探ってゆくのも楽しみであります。

(寄稿)鶏肋太郎

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