日本戦国期を彩った「国衆」という草莽勢力とは【どうする家康】

 2023年(令和5年)のNHK大河ドラマ『どうする家康』にて、松本潤さんが小心にして優柔不断な性格でありながら、幾多の至難を乗り越えて成長してゆくという新たな徳川家康を好演され話題となっています。
 この記事を書いているのが4月下旬でありますから、ドラマ内の徳川家康は、本貫地である三河国統一を果たし、甲斐国の武田信玄(演じる阿部寛さんの存在感が圧倒的です)と共謀して、かつての家康の旧主筋に当たる駿河今川氏の勢力圏である隣国・遠江国へ侵攻を開始。家康は苦戦の末、駿河今川氏の当主・今川氏真を屈服させ遠江国の統一をも果たします。
 今後の大河ドラマの展開は、盟友・織田信長(岡田准一さんの怪演が素敵ですが)の要請により、徳川家康は信長軍と共に、越前朝倉氏攻め(金ヶ崎退却戦)・近江の姉川合戦での転戦を経て、遂に「戦国最強レジェンド」(大河ドラマ内での紹介文)である武田信玄との直接対決となる三方ヶ原合戦に突入してゆくことになります。
 徳川家康最大の敗北戦と言われるこの三方ヶ原合戦が、大河ドラマ中盤におけるハイライトとなるものと筆者は勝手に思っており、戦国最強の武田信玄が徳川家康を鎧袖一触の勢いで撃破し、多くの将兵を喪うことを余儀なくされた家康の成長ぶりが、どのように描かれていくか楽しみであります。





 筆者が改めて申すまでもなく、16世紀の日本は戦国期(中世末期~近世初期)であり、徳川家康が全生を賭して、天下を統一するまでは、家康以上の存在感がある戦国武将たちが当時の歴史を彩っていました。
 徳川家康が畏敬した「武田信玄」、その参謀格の家柄にして信州の豪族「真田昌幸真田信繁父子」、信玄の宿敵とされる越後国の「上杉謙信」、家康を取り立ててゆく盟友・織田信長、その事実上の権力後継者となった豊臣秀吉、西国には、家康本人、ひいてはその子孫たち(徳川幕府の末期)の大敵となる大勢力毛利氏を築いた「毛利元就」、九州の最強武闘派・薩摩島津氏の「島津義久島津義弘兄弟」というように、日本各地に割拠していました。
 現代でも有名なこれらの戦国武将たちの足跡などを追ってゆき、記事を執筆することも愉快この上ないものでありますが、今回は徳川家康ら戦国オールスターと言うべき有名戦国武将(戦国期の主演者)たちに焦点を当てるのではなく、彼らと共に同じ時を生きた数多存在した中小領主武士団、格好良く言えば草莽勢力である『国衆』(戦国期のもう1人の主演者)について、敢えて追ってゆきたいと思います。

◎『国衆(くにしゅう、別名:「在国衆」または「国人」とも)』とは?

(1)律令体制が主流であった古代日本では、各地の国衙領(朝廷支配の領域)に住まう住人・国民を呼称され、平安末期になり朝廷・社寺の私有地である荘園制が登場すると、荘園を直接支配する荘官/在地領主や有力豪族(下司)たちの呼称にも国衆という言葉が使われるようになりました。在地領主から武装開拓農場主、即ち『武士』と呼称されるようになります。

(2)武士の時代の勃興期および円熟期と言うべき、13世紀~15世紀(鎌倉期~室町期)にかけて、全国各地の農地農村(或いは商業地域)を直接支配するリーダーである地方武士たちは、鎌倉幕府滅亡(1333年)、南北朝期争乱期などの時代の混沌期に乗じて、先祖代々の本領の領有権をより強固なものとした上、小豪族が支配する土地や隣村の支配も推し進めてゆくことにより、一郡あるいは複数郡の領有権を保持する『有力国衆』へと成長とするようになる。

*その有力国衆の筆頭的好例なのは、戦国期、中国地方の覇者となる前掲の毛利元就の「安芸毛利氏(先祖は、源頼朝の行政長官と言うべき大江広元)」であり、同氏は当初、安芸国の山間である高田郡吉田荘の地頭職(荘官)として土着。同地を本拠地にして徐々に勢力を蓄え、元就が毛利氏当主となった時期(1520年代頃)は、高田郡全域を支配する有力国衆でした。

 『国衆(或いは国人)』とは本来、国々の住人たちの呼称でしたが、中世期に武士(在地領主)が台頭すると、京都朝廷の支配する「国衙領」、公卿や大社寺が私有する「荘園領」を直接管理する武士(荘官・地頭)たちの一部が、鎌倉・室町・戦国期を経て、一村のみではなく郡規模までに支配圏の拡大する武家勢力も現れるようになり、これらの勢力が『国衆』と一般的に言われるようになりました。

 以上までは、筆者の拙い国衆について知っている限り事を徒然に記述させて頂いた次第なのですが、以下からは学術的に則るように追ってゆきます。

 昨今の国衆についての学術研究で高名なのは、『黒田基樹先生(駿河台大学教授)』歴史家『平山優先生(甲斐武田氏研究の第一人者)』歴史家『柴裕之先生(東洋大学非常勤講師)』歴史研究家『大石泰史先生』の方々であると思いますが、特に黒田先生は信州真田氏・上野横瀬氏など在地有力領主(国人領主)といった勢力を「国衆」という学術概念を構築されたほど国衆研究に多大な業績を挙げておられていることは著名です。
 黒田基樹先生ら上記の諸先生方が提唱されている国衆の学術定義を、僭越ながら筆者なりに包括かつ箇条書きにさせて頂くと以下の通りであります。

 ⓵『国衆は、戦国時代において、およそ一郡ないしそれ以上の規模で、一円的・排他的な領国を形成。国衆は独自の「家中(一門・被官・地域小領主らを従える家臣団)」、即ち軍事力を構成して、独立した領国支配を維持している。』
 
『独自の家中(軍事力)を有する国衆たちは、その地域の大勢力(即ち戦国大名と呼ばれる武家勢力)に臣従を誓い、自分たちの領国支配を安堵してもらう代償として、戦国大名が命じる「軍役(合戦に参陣)」や「夫役(城修築などの課役)」の負担を担う。

『上記の附随になるが、戦国大名などの大勢力に臣従した国衆は、忠誠の証のために、大名の本拠地(本城)に居館を構え、定期的な出仕誓紙と人質を差し出す義務があった。』 
 『国衆からの人質差出の有名な例として、甲斐の武田信玄に臣従した信州の国衆である真田幸綱(以前は真田幸隆と呼ばれた)が、三男・源五郎(真田昌幸)を信玄の人質(名目は奥近習としての出仕)として差し出している。また安芸の国衆の毛利元就も、従属先である周防の大内義隆に、嫡男・太郎(毛利隆元)を人質として差し出している。近江蒲生郡を領する国衆・蒲生賢秀が、三男・鶴千代(蒲生氏郷)を盟主となった織田信長に人質として差し出した例もあり。』

⓸『国衆が戦国大名に臣従したとは言え、両者の関係は飽くまでも「双務的関係」であり、国衆が独自に有する家中と領国支配の独立性は保たれており、彼を従属させている戦国大名でも、基本的に国衆の領国支配に対する介入は許されない。』

⓹『双務的関係であるから、戦国大名にも従属させている国衆の存続を保証(安堵)するために、国衆同士の諍いの調停役を担い、味方国衆が敵方の大名や国衆に軍事的圧力を受けた際には、援軍派兵などの軍事力提供する「武家の棟梁」として責務を担っていた。』

(以上の参照文献 黒田基樹『国衆 戦国時代のもう一つの主役』(平凡社新書)、平山優『戦国大名と国衆』(角川選書))





 独自の家中(家臣団/軍事力)を構成し、石高にすると数万石以上の生産量を有する農村や商業地(即ち領国)を排他的に支配する国衆は、(規模の相違がありながらも)、戦国大名と同様である正真正銘の『殿様(領域権力者)』であり、中世期の西洋諸国で言うところの「地主貴族たち(ユンカー)(ジェントリー)」と酷似しています。しかしながら一方で、地元の殿様たち(国衆)は、領国・家中を保全する、即ち『一所懸命』のために各地方で強大な勢力を張っている守護大名(守護代)あるいは戦国大名などに臣従することも迫られました。上掲の⓶⓷のように、大名に臣従した国衆は、大名が命じる軍役・課役などの人的・経済的な負担義務があり、更に忠誠の証として、一族の中から人質を大名の居城へ送る義務もありました。
 国衆は、大名から義務付けられる諸役、人質差出などを果たすことにより、大名から領地と家中の保持を「安堵(保証)」してもらい、地元の殿様としての体裁と排他的な支配体制を保っていたのであります。
 
 大名家よりも弱小勢力である国衆が大名に人質を差し出す、という表面上の文面を捉えるのみでは、何やら国衆が大名に強く虐げられている、という負のイメージが先行してしまいます。
 確かに、大名家に臣従した国衆は、大名が催す軍事行動(合戦)に、持ち前の領地の多寡に応じて、軍事力を提供する手伝い戦、即ち『軍役』を供出することが義務付けられる上、差し出した人質の生殺与奪権は大名家に完全掌握されており、万一国衆が、大名から離反した際は、人質は「裏切り者の見せしめ」として公開処刑されるという戦国期ならではの現実の過酷さが、国衆、そこから差し出される人質にはありました。
 しかし、国衆にとっては大名家への臣従というのは負のことばかりではありません。先述のように国衆サイドでも大名家に人質を差し出すことにより、国衆としての体裁(統治権)を保てる上、人質に赴く本人(国衆当主の子弟)たちも、従属先の有力大名家の本拠地で居住することにより、大いなる恩恵も享受することが可能だったのです。以下からは、大名家に人質として赴く国衆の子弟たちが享受した利点を中心に記述させて頂きたいと思います。

 国衆の人質として大名の居城へ差し出されるのは、国衆当主の近親者(主に実子)たちでありますが、差し出される側の本人たちにとっても、必ずしも不利益な事ばかりではなく、「地方の殿様の連枝」として扱われ、文化水準が高い大名居城(城下町)での優位な生活が保証されている待遇でした。
 優遇された生活の下で育った国衆の人質(子息)たちは、大名たちに強い忠誠心を持つことにもなりますし、人質たちを養育する大名も、彼らに優れた生活水準と教育を与え、優秀な武士として鍛えることによって、将来は大名家に仕える忠誠心厚い有力味方衆を育成する計算もありました。また人質に差し出された国衆の子弟で器量に傑出している者があれば、大名家当主は、自身(或いは一門衆)の子女を娶せて、大名家の有力一門衆に組み込む婚姻政策もありました。以下に挙げさせて頂く蒲生氏郷・毛利隆元、そして松平元康(徳川家康)は、その好例というべき存在です。
 上掲⓷内で、少し記述させて頂きました真田昌幸・毛利隆元・蒲生氏郷などは戦国期の名将として分類される各地方に割拠した国衆出身の武士たちですが、彼らは少青年期には有力戦国大名下での人質生活を経験しており、昌幸・氏郷は夫々、当代随一の傑物であった武田信玄・織田信長の下で、彼らの政略や軍略を直に学び、後々の名将として活躍する素地を造っています。
 真田昌幸は、主君・武田信玄をして『我が両眼の如し』と言わしめたほどの才知を開花させ、一方の蒲生氏郷は織田信長にその器量を愛され、信長の次女(相応院)を正室として迎えるなどの優遇ぶりでした。
 真田昌幸と蒲生氏郷に比べると知名度が、些か低い毛利隆元ではありますが、隆元は戦国期当時、「西の都」と謳われていたほど殷賑を極めた周防山口を本拠とし、中国大陸との交易活動によって、中国地方の最有力戦国大名として君臨していた大内義隆の下へ人質として赴くことによって、高雅な教養と経世能力を身に付けた戦国期の名君の1人であります。
 高い教養を身に付けた毛利隆元を、実父・毛利元就は「余興に耽るとは良くない」と書状で苦言を呈していることは有名でありますが、隆元が毛利氏当主として、権謀術数を駆使して国衆・毛利氏を大戦国大名として成長させた父・元就、智勇兼備の名将であった実弟・吉川元春小早川隆景らの活躍を内政面で支えた名君であり、隆元が父と弟に先立って急逝した後、毛利氏の新地領国であった周防からの歳入2000貫(4000貫説もあり)が減少したと言われています。この一事を鑑みても、毛利隆元が優れた武将であったことがわかります。因みに、毛利隆元も主君である大内義隆に寵愛され、義隆養女(尾崎局、大内氏重臣・内藤興盛の娘)を正室として迎えています。養女ながら、大内一門衆の姫君を娶った毛利隆元(安芸毛利氏)は、大内氏の準一門衆として優遇されていたのです。





 
 国衆当主が保有している領地・家中を大勢力の大名に安堵してもらうために、当主自身の子息など血縁者を人質として大名の下に差し出したのですが、上記の真田昌幸などは信州真田氏からの人質として武田信玄の下に赴いたために、信玄や甲斐武田氏が有する高い知識や教育を得る機会に恵まれ、名将としての礎を築くことが出来たのですが、昌幸たちと同様、国衆からの人質  身分から最大変身を遂げたのは、外ならぬ松平元信(のち元康)、即ち天下人・徳川家康でしょう。
 周知の通り、徳川家康も西三河の数郡を有する国衆・松平氏(父・松平広忠)の出身であり、自家の領地・家中を保全するために、尾張の新興大名・織田信秀、駿河の有力大名・今川義元の下で人質生活を送っていますが、「東海道の弓取り」と称された今川義元の薫陶を受け、更にその本拠地である学問文化で栄えた駿府の下で育った徳川家康も、戦国期を生き抜く武将としての文武の道を深めています。
 偉大な歴史小説家・山岡荘八先生の代表作『徳川家康』で描かれている駿府人質時代の松平竹千代こと徳川家康は、今川氏の人々から虐げられていることが強調されている箇所がありますが、実際の人質時代の少年・家康は、西三河国衆の御曹司(あるいは若年当主)として優遇されており、今川氏の筆頭一門衆である関口氏の娘・瀬名姫(のちの築山御前)を正室として迎え入れ、将来は、名門戦国大名・駿河今川氏傘下の一門衆兼有力国衆としての働きを期待されていたのです。
 徳川家康が、少年期に駿河今川氏の下で人質生活を過ごしていたから、後に天下人になれた最大理由とはならないですが、家康が戦国期武士には珍しく学問教養に優れており、戦国大名として生き抜く初期知識を少年期に学べる機会に恵まれていたことは確かであります。
 また徳川家康が晩年、天下を取った際に、「馬上にて天下を取り、文をもって天下を治める」「元和偃武」などの太平統治の名言を遺しているように、武断政治よりも文治政治を重視する天下統治を理念とし、江戸城に「富士見亭文庫」、駿府城に「駿河文庫」を設け、銅活字印刷の創始も行い、徳川一門の子弟の学問振興に努めています。
 徳川家康が戦国最後の勝利者となった理由の1つ、彼が創設した江戸幕府、その武家政権が約260年も続く長期政権になった礎は、家康が若年の頃より好学の士であり、学問教養の重要性(文治)を知ってと筆者は思うのですが、その学問好きの家康の性格は、少年期に名門大名・駿河今川氏の下で過ごした人質生活期に培われたのです。
 以上のように、一見「大名家の下での人質生活」という現代感覚からすれば物騒な文面ですが、決して人質本人=国衆の子弟たちにとっても、悪いことばかりではなく、上記の真田昌幸や徳川家康といったような有名戦国武将たちように、大名家によって、優遇された生活(教育水準)を与えられていたのです。

 何度も重複しますが、国衆当主は排他的に領有している「土地」と己の「家中」を大勢力に護って(安堵して)もらうために大名家に臣従し、その忠誠の証として、軍役や普請役などの諸役に勤め、人質を差し出すことにより、自勢力を保全してゆく戦国サバイバル戦略を展開してゆきました。
 大名側にとっても、国衆の存続保全義務(例:他の国衆との利益調停役や国衆の領地が他国に攻略された場合、援軍を出す)を果たしている限り、国衆はお味方衆として臣従してくれ、より多くの国衆が臣従すれば、大名家の領域をより拡大することができ、それにより御家の武威も周辺諸国へ高めることにもなったのです。即ち、前掲箇条書き⓹で紹介の通り、強勢の「大名家(武家の棟梁)」と子分的な「国衆は、『双務的(司馬遼太郎先生の言を拝借すると、『頼み頼まれる』)』関係にあったのです。武家の棟梁となる大名家、その子分的存在になる国衆、両者ともに、各々の責務(約束事)を果たし、お互いに利益を享受することは、正しくWin and Winの商売関係であり、それによって戦国日本の武家社会の根本は成り立っていたと言えるでしょう。甲信地方の武田信玄、中国地方の毛利元就といった当時を代表する戦国大名らが強豪となったのは、支配領域に割拠する傘下の国衆との双務的、商売関係が円滑に成功していたからであります。
 戦国期の大名家と国衆の双務関係は、12世紀末/中世初期、武家社会が勃興した「鎌倉武家政権/鎌倉幕府(鎌倉殿・源頼朝と東国武士団=鎌倉御家人たちの双務関係)」と「御家人制(御恩と奉公)」が嚆矢となっており、そういう意味では戦国期の大名家が鎌倉殿的(武家の棟梁)役割を果たし、傘下の国衆(武士団)が棟梁に奉公するという武家社会構造は、いかにも『中世的武家社会』であります。先述の武田信玄などは、甲信の国衆を安堵することによって甲斐武田氏の武威を高めたというのは、中世的武家の好例であります。





 上記の中世的武家社会(大名家と国衆の双務関係)が崩れ始めるのが16世紀末、いわゆる濃尾平野から興った織田信長・豊臣秀吉というような「近世的戦国大名」(兵農分離を推進し、検地によって国衆解体を敢行する大名家)が、天下の実権を掌握しつつある織豊政権期からであり、信長・秀吉の後輩である徳川家康が江戸幕藩体制を構築することにより、「国衆=地元の殿様、領域権力者」という存在は消滅することになります。
 このことの詳細については、また後の機会に追ってゆきたいと思います。

(寄稿)鶏肋太郎

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