御坊と寺内町という本願寺ビジネスを展開した天才・蓮如上人

 歴史作家・司馬遼太郎先生が著作『歴史を紀行する』(文藝春秋)の中で、戦国期に諸大名を怖れさせた本願寺勢力(一向一揆衆)のことを『かつてなかった民衆の全国組織』とお書きになられていますが、その大組織を、ほぼ徒手空拳の身から創り上げたのが、浄土真宗本願寺8代法主・蓮如上人(本願寺蓮如)という、『(司馬先生曰く)「組織力と宣伝力」、そして「城郭設計の能力」を持ち合わせた大天才であります。
 蓮如は、持ち前の『組織力と宣伝力』を以って、室町期の空前絶後の農商業発展により財力を身に付けてきた、地下人(農商に携わる民百姓、その直属の頭目格である地侍や国人衆)を浄土真宗の宗教結社『講(こう)』によって人財を集め、かつて衰退の極みにあった本願寺を、一代で大教団へと急成長させた、という事は先の記事で書かせて頂きました。

 多種多様な民衆を「浄土真宗の教え」と「講」という方法で集めることに成功した蓮如ですが、それのみでは後世の日本史に多大な影響を与えることになる本願寺教団=一向一揆が完成することは叶わなかったでしょう。やはり多くの民衆を受容できる『ハード面』も必要不可欠となってきます。ハード面とは即ち、集まった民衆たちを撫育・保護するための『御坊=城郭』、生活の場、本願寺の財源となる『寺内町=城下町』という2つの構造物であります。
 蓮如は多くの人財(民衆)という食材を集めることにも天才的でしたが、彼らを受け入れる城郭や都市という容器(ハード)面を計画および創ることにも非凡の能力を発揮しました。蓮如という類稀なる天才料理人によって、多種の食材(民衆)と強固な容器が選ばれ創作されたのが、本願寺という誰も(戦国期の全人民)が認める高級幕の内弁当が完成したのであります。
 相変わらず拙者の愚にもつかない比喩を出してしまいましたが、兎に角にも蓮如が人集めの能力のみでなく、司馬遼太郎先生が言われた並外れた『城郭設計の能力』にも秀でた才能にも恵まれていたので、本願寺教団(一向一揆衆)が成立したのであります。
 よって今回は、その蓮如の優れた『城郭設計の能力』、それに付随した形で『都市(寺内町)の設計』、そして更にそれらによって誕生し、これが本願寺勢力拡大の主因となった『本願寺ビジネス』について探ってゆきます。
 
 蓮如の城郭(御坊)および都市設計(寺内町)、ひいてはその2つを元手として展開した本願寺ビジネスについて考えるに当たって大変役立った『書籍』、そしてその書籍から存在を知った『研究論文』があります。
 先ず書籍とは、経済評論家でご活躍されている上念司先生の『経済で読み解く織田信長』(KKベストセラーズ)、研究論文は、上念先生も書籍内でご参考にされていた、西川幸治先生(都市史研究の泰斗、発表時は滋賀県立大学教授、現:京都大学名誉教授)の論文『蓮如の町づくり』(講座蓮如第4号に収蔵 平凡社)の2冊であります。今記事では、この書籍2冊を参照させて頂きまして、記述してゆきたいと思います。

 
 伝統仏教である天台宗(比叡山延暦寺)からの迫害を避け本願寺を存続させるには、「地方に布教活動拠点を遷し、その地方の土地も単なる鄙びた場所ではなく、交通利便が優れた要衝を選定している」という優れた戦略眼を持っていた蓮如。
 蓮如が本願寺法主の座に就いた当初は、京都、次いで近江(堅田や金森)など当時の首都圏および商業流通地帯を布教の拠点としていましたが、強大な経済力と軍事力を持つ比叡山延暦寺の執拗な妨害により、本願寺勢力の伸長は抑圧される一方でした。後に大坂本願寺を総本山として、強大な軍事力(一向一揆衆)を行使し、織田信長ら有力戦国大名と敵対することになる本願寺勢力ですが、15世紀中期頃(蓮如40歳~60歳頃)の本願寺は、未だ弱小新興宗教勢力であり、伝統仏教の総元締の比叡山延暦寺から虐げられる存在でしかありませんでした。
 蓮如が、西近江(琵琶湖西)付近の堅田や金森など琵琶湖上の経済流通(富裕なる土地)で、布教活動を行い本願寺信者が増え始め本願寺派の勢力伸長が目立ち始めると、同じく西近江の重要経済拠点である坂本に拠る比叡山延暦寺から「山法師」と称せられた凶暴な僧兵たちが忽ち下りてきて、当時の本願寺本山であった京都東山の大谷本願寺を攻撃してきたのであります。それが「寛正の法難(1465年、蓮如51歳)」や「堅田大責(1468年、蓮如54歳)」などであります。
 上記の争乱により、本願寺勢力の本拠地および重要拠点であった大谷本願寺や堅田の町は比叡山の僧兵たちに破却されてしまい、辛くも比叡山延暦寺の魔の手から逃れた蓮如や主だった弟子たちは、布教活動拠点を近江の三井寺、次いで北陸へと遷す決定的な要因となりました。
 京都近江で、正しく命懸け活動していた「蓮如はじめ本願寺宗徒」と「比叡山延暦寺」の関係は、まるで現在でも学校(職場も含め)で大きな問題となっている「いじめられ子」と「いじめっ子」のようなものであり、本願寺は常にいじめられっ子でした。
 前掲の上念司先生の著作『経済で読み解く織田信長』では、当時の寺社勢力およびそのトップ(本願寺のいじめっ子)であった比叡山延暦寺のことを以下のように書かれておられます。

 『寺社勢力とは単なる宗教団体ではなく、貿易業に精を出す巨大商社であり、広大な荘園を所有する不動産オーナーであり、土倉や酒屋といった町の金融業に資金を供給する中央銀行でした。』
 『中でも比叡山延暦寺(天台宗)のパワーは最強であり、暴力団でいうなら山口組、大学でいうなら東大法学部、不動産会社でいうなら住友不動産、いやこれらをすべて合わせたよりももっと大きな力を持っていました。』
 

 (以上、「第二部 寺社勢力とは何なのか?」文中より)

 暴力団(僧兵)と東大(学僧)や不動産・金融業(荘園と土倉)を合わせた総合商社とは、現在では到底考えられないビジネスモデルであり、もし存在していたら恐ろしいばかりでありますが、戦国期の比叡山延暦寺は、上念司先生が言われている通りのような強大な権力を持っていました。これを行使して、比叡山延暦寺は下界勢力である朝廷・公家・大名、そして本願寺などの政治活動に容喙および迫害(強訴)をしたのであります。
 何故、その強大かつ凶暴な総合商社・比叡山延暦寺が、新興宗教であった本願寺を徹底的に迫害したのか?という疑問が出てくるのですが、「阿弥陀経を崇め、南無阿弥陀仏と唱えれば極楽往生できる」という簡単な宗教倫理が、天下万民に受け入れられ、近江堅田や金森など富裕層が多い地域で本願寺信者が急増したことにより、蓮如および本願寺への喜捨(信者からのお布施)も比例的に増え本願寺が肥え太ることが、延暦寺にとっては不愉快極まりなかったのであります。
 今まで富裕な近江一帯は、比叡山延暦寺オンリーの舞台であったにも関わらず、横から新規の本願寺という新参者が出てきて、延暦寺の旦那衆(スポンサー)らを、本願寺へ鞍替えさせてゆき、延暦寺の喜捨(儲け)を危うくさせているのであります。当時、最大級の暴力団であった比叡山延暦寺がそれを看過するほど寛容な連中ではないことは当然であり、強力な組員さん達(山法師/僧兵)を駆使して、自分たちの儲けを横取りするような蓮如や本願寺を徹底的に迫害したのであります。
 即ち、15世紀中期の比叡山延暦寺による本願寺宗徒の迫害は、延暦寺が自分の既得権益を固守するために行った『宗教経済紛争』の側面が大いに強かったのであります。
 
 『賀茂川(鴨川)の流れ、双六の賽の目、山法師(比叡山の僧兵)、是ぞわが心にかなわぬもの』(平家物語)

という上記の有名な「天下の三不如意(思い通りにならない3つの物)」を言ったのは、平安末期の朝廷最高権力者の白河法皇であります。白河法皇は、43年という長期間に渡って院政を敷いた大物として名高いですが、それほどの人物でさえも比叡山延暦寺の強大さには苦慮させられているのであります。

 日本一の権力者であるはずの天皇(法皇)でさえ、比叡山延暦寺に苦しめられたのでありますから、室町中期当時おいて未だ微弱な新興宗教・本願寺法主に過ぎなかった蓮如とっては余計に延暦寺の迫害は、恐ろしく忌々しい禍であったことでしょう。しかし、この比叡山延暦寺の迫害を躱しつつ、戦国初期頃には本願寺を日本一の大教団にした天才・蓮如の凄さがあります。
 天才・蓮如の凄さ、とは何か?その1つが、今記事の冒頭で記述させて頂いた司馬遼太郎先生が言う『城郭設計の能力』であり、その城郭=御坊、そしてそこから派生した寺内町をセットとした本願寺ビジネスを確立したことであります。
 強敵・比叡山延暦寺の存在によって、京都・近江の畿内(当時の首都圏)で本願寺勢力拡大が困難であることを悟った蓮如は、弟子や信者たち周囲の反対を押し切り、延暦寺の影響力が及ばない北陸の越前国吉崎に拠点を遷し、同地で布教活動を本格化させます。時は1471年であり、蓮如は既に57歳の老境に入っていた年齢であります。高齢にも関わらず、比叡山延暦寺の迫害にも屈することなく、本願寺布教(勢力拡大)の大望の下、北陸へ向かってゆく不屈の精神力を持ち合わせいる蓮如さんは、やはり巨大な偉人であります。
 
 越前吉崎(通称:蓮如の里)、現在は「京都の奥座敷」と謳われ、昭和期の映画スターであった故・石原裕次郎さんも愛した名湯・あわら温泉がある福井県あわら市の閑静な一部落となっており、同市を通っている国道305号線沿いに、蓮如が腰を据えた吉崎御坊跡/吉崎山(国指定文化財)も気軽に訪ねることができます。
 筆者も機会に恵まれ何度か吉崎御坊跡に行ったことがありますが、その跡地の吉崎山という小高いが急峻な山頂は、広大な平地(公園)と開発されており、その広さを見ると、寺院跡というより、寧ろ北陸地方有数の平山城跡のような光景でした。
 蓮如が吉崎御坊を建立した当時の吉崎山は北潟湖に突き出した半島の様な地形をしており、その吉崎山山頂に、本願寺の中核となる吉崎御坊を建て、その中腹および山麓に、御坊に連なる蓮如の弟子たちが住まう坊舎(邸宅)や信者らが集住や宿泊する町屋、寺内町が築かれたのですが、この一種の吉崎御坊とその町をセットにした城郭風景は、後年、本願寺の宿敵となる織田信長が、三方を琵琶湖南(内湖)に囲まれていた小高い安土山やその山麓一帯を開発して巨大城郭・安土城とその城下町という『都市モデルと酷似している』のであります。
 あわら市郷土歴史資料館の公式HPで、蓮如が建立した吉崎御坊一帯の古絵図が紹介されていますが、織田信長の安土城と城下町のプロトタイプ(古型)に見えるのでありますが、皆様は如何思われますでしょうか?

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 重複しますが、吉崎御坊があった吉崎山頂はとても広く整備されており、野球の試合が出来そうなくらいであり、またそこから北方の崖上から眺めると、手前には国道と北潟湖があり、それらの直ぐ奥には、碧い日本海が広がっているのが印象的でした。
 蓮如がこの吉崎山を本願寺布教の拠点として定めた直後から、蓮如を慕う畿内・北陸たち多くの本願寺信徒たちが、吉崎の地に集まり、中核となる御坊(道場/坊舎)が数か月で建立され、日本各地から多くの信徒衆が、海路で吉崎の地へ参詣するようになりました。
 海路というのが要点と言うべきであり、先述のように、越前吉崎は、中近世期の主流海路であった日本海に接する北潟湖に面した交通の利便性に優れ、その路を舟で通って多くの本願寺信徒が吉崎に来たのであります。畿内北陸は勿論、中には越後(新潟県)や信濃国(長野県)の甲信地方の信徒衆、何と遠く出羽国(山形県・秋田県)の東北の信徒衆も、海路を通じて吉崎へ参詣したと言われています。
 蓮如を筆頭に、後の本願寺勢力/一向一揆衆は、大坂・伊勢長島など、河川・湾口付近の不毛のデルタ地帯(湿地)ながらも交通の要衝に優れ、将来発展性を見込める場所を拠点として見定め、御坊や寺内町を設計している例がありますが、蓮如たち本願寺勢力の坊官たちは、人やモノを集め勢力(経済力)を高めるための必要な地理学=拠点選定眼、その地点を開発する技術や知識に通暁していたのであります。その初例が、海路の動脈であった日本海に面した越前吉崎での拠点選定および街開発であったのです。
 蓮如が見初めた越前吉崎の地は、吉崎山に建立された御坊を中核に開発され、山麓には参詣する各地の多くの信徒衆が宿泊する施設「多屋/多家」(現在でいう宿坊)も併設されるようになってゆきました。
 越前吉崎が発展してゆくには、蓮如1人だけの力では不可能であります。やはり吉崎(本願寺勢力)の発展維持をするためには、蓮如やその弟子たちの生活する居住区の御坊と坊舎、上記の信徒が寝食するための多屋を建築修繕する番匠や大鋸衆(大工職人)、食料や衣服などの品々を取り扱う商人や物流業者も必要不可欠になってきます。その多種多様な人財を集住させ、人・物資が集まるという経済的発展をさせるために形成されていったのが、『寺内町』であります。
 蓮如を慕い、越前吉崎の地に集住するようになった各地の本願寺によって形成された寺内町。人が集まれば物資が集まる。物資が動けば経済流通が騰がる。その吉崎の繫栄ぶりに着目した本願寺信徒以外の商工業者や民衆も吉崎に移住するようになり、同地は更に経済的発展を遂げたと言われています。
 
 多くの信徒(民衆)が吉崎に住まい、物資が集まり栄えることによって、蓮如と本願寺勢力にとっての最大のメリットとは何か?それは、吉崎の多くの信徒が潤うことによって、彼らから蓮如(吉崎御坊)に上納される『喜捨(寄付/お布施)』が比例的に増えることであります。
 とても簡単な経済発展原理でありますが、前掲の名著『経済で読み解く織田信長』の著者で、経済評論家・上念司先生に拠ると、これこそ(『御坊と寺内町』)が『本願寺独自のビジネスモデル』である、と仰っておられます。その詳細は以下の通りです。

 『本願寺が、近江の金森、堅田、北陸の吉崎で展開した寺院と町をセットにした都市計画のことを「寺内町」と言います。』
 
 『実は、この寺内町こそ、比叡山や五山(筆者注:京都五山)とは異なる本願寺の新たなビジネスモデルだったのです。』
 
 『宗教という「コンテンツ」を使って人を集め、集まった人のニーズに合わせて商売がそこで展開される。これはまさに現在のショッピングモールが映画やヒーローショーやライブなどで集客してセールスを伸ばそうとするのと同じです。』

 そして、人がたくさん集まるほど、そこでの商売も大きくなり、本願寺への喜捨の金額も増えていくわけです。蓮如には金森、堅田で成功したモデルなら、吉崎でも必ず成功できるという「勝算」があったのではないでしょうか。近江ではせっかく商売が軌道に乗り始めると、必ずと言って言いほど比叡山の妨害が入りました。しかし、比叡山の魔の手もさすがに遠く吉崎までは及ばなかったようです。』

 (以上、「第三部 武将と僧侶の仁義なき戦い 第6章「一向一揆」とは何か」文中より) 

 
 蓮如にとって越前吉崎の地に、多くの本願寺信徒衆が集まってくれることは、その分、自分(本願寺)のフトコロに入ってくる喜捨の増加率を意味しますので、愉快この上ない事であります。また本願寺信徒たちにとっても、法主・蓮如上人様から解り易く有難いご説法を直々に拝聴できる上、多くの人々が吉崎に移住してくるので、多種多様な仕事があり、下世話な言い方をすれば「飯のタネ」に困ることが無い、利点もあったのです。「教祖様も潤い、民衆も豊かである」、これほど愉快な町があるでしょうか。
 蓮如が、比叡山延暦寺の迫害から逃れ近江から越前吉崎の地に、拠点を遷したのが1471年でありますが、当時の吉崎は、蓮如さん曰く『狼虎がすみなれし、この山中(注:吉崎山)(御文内)という侘しい北陸の寒村に過ぎませんでしたが、その僅か2年後の1473年には吉崎御坊を中心に、多くの多屋や商家が建ち並ぶ豊かな寺内町が、吉崎の地に出現したのであります。
 その吉崎の急速な発展ぶりを、江戸明和期(1764~1771)に編纂された浄土真宗の伝記というべき『真宗懐古鈔』には、『アタカモ大国ノ城郭ノ如ク』と記されています。
 蓮如と本願寺信徒たちによって創り上げられた吉崎御坊と寺内町という、『本願寺独自の宗教経済都市』が完成したのであります。後の16世紀から江戸幕末に掛けて、武家社会および全国の地方経済の発展の礎となる城郭と城下町セットの城郭経済都市の原型(プロトタイプ)が、15世紀末には、司馬遼太郎先生が言う「(優れた)城郭設計の能力」を持っていた蓮如および本願寺勢力にのよって創造されていたのであります。
 しかも当時の先進地帯であった畿内周辺ではなく、雪深い北陸地方の越前国吉崎という一地方で行われていたということを思えば、蓮如の才覚に感嘆するともに、今後日本史の主役となってゆく各地方、そこに住まう無名の民衆/地下人(地侍、農民、商工業者など)たちの経済的や精神的な急成長ぶりも感じることができるのであります。
 
 蓮如本人も、本願寺勢力の本拠地というべき越前吉崎の急激な大発展という、己にとって感極まる好事について、以下のように述べています。

 『あら不思議や、人の都に今はなりにけり、そも人間のわざともおぼえざりけり、(中略)、その謂はひたすら仏法不思議の威力なり』(御文)

 それまで主に鳥獣の住処に過ぎなかった越前吉崎が、僅かな年月でここまで(「人の都」)急激に発展したのは、本当に不思議である。これは人智のなせる業でなく、只々御仏(阿弥陀如来)様のお陰である、と蓮如は言っているのであります。嬉しいけど、ちょっとこの異常ぶりがコワイ。この御文を読むと、一人間・蓮如さんの戸惑っている感情がよく表させていていると思います。
 因みに、前掲の『真宗懐古鈔』は、真宗大全に収蔵されており、それが国会図書館デジタルライブラリーで閲覧することができるようになっております。(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950328/1)
 
 
 本願寺信者が持つ能力(商工業や土木技術)を活用し、本拠地となる「御坊(寺院)」と「寺内町」、所謂本願寺独自の「宗教都市」を築いて、本願寺を一大勢力へと発展させていった城郭および都市設計の能力を持っていた蓮如。
 奈良平安期から中近世にかけての僧侶というのは、仏教経典の探究者という人格者のみではなく、儒教や漢文など中国古典にも精通した当代随一の教養人でもあり、また一方では、中国大陸貿易での通訳官、中国朝鮮渡来の最新土木技術などにも優れたエンジニア、という諸事万端を兼ね備えた『スーパーマン』であったのです。その中の輝かしいインテリ集団の中で光彩を放っていたのが、この本願寺の蓮如上人であり、または平安初期の真言宗開祖の弘法大師空海でしょう。
 蓮如の本願寺法主としての宗教活動、越前吉崎での城郭・都市設計の優れた才気、一宗教者の枠を越えた活躍ぶりを見ていると、真言密教を全国に広め、灌水土木にも優れていた平安期の空海大師と類似している部分が多々あるのであります。

 越前吉崎での御坊と寺内町の造営=本願寺ビジネス成功により、北陸でより一層、浄土真宗本願寺の勢力が拡大してゆくことになり、これ以降、本願寺勢力は単なる比叡山延暦寺のいじめられっ子という弱い立場から脱却することになるばかりか、蓮如在世中に、越前の隣国である加賀国(石川県南部)の本願寺勢力=加賀一向一揆衆は、内紛で揺れる同国の守護大名・富樫氏を滅ぼすほどの巨大な勢力までに成り上がることは周知の通りであります。
 1488年に、加賀一向一揆衆が富樫氏を滅ぼす13年前の1475年には、蓮如は、北陸の他宗派(白山神社など)や武家の富樫氏、越前守護代・朝倉氏の対立を忌避して越前吉崎を退去し、京都山科や摂津大坂に遷っているのですが、自身が苦心惨憺の末に、創り上げた民衆による一大教団・一向一揆衆が、強大になり過ぎて、隣国の武家政権の内紛に介入した挙句、後の戦国大名のように、武力を用いて既存の武家政権を滅ぼすほど暴走してしまうことになるとは、蓮如も予想外のことであったでしょう。また蓮如のご先祖様で浄土真宗の開祖・親鸞聖人も、自分が開いた宗派を建前として武器を取り、武家に戦いを挑んでいったことを知れば、失神するほど激怒したに違いありません。
 因みに蓮如が越前吉崎で本願寺の勢力回復をしたことにより加賀、現在でも「真宗王国の元締」と呼ばれる石川県は、よく言われる有名な『百姓で持ちたる国』となったのでありますが、勿論百姓=農民、というのみの意味ではなく、「全ての民衆、農民・商人・職人、地侍・国人領主を含めた多種多様の人々」を指す意味であります。この「本願寺の民衆たち、即ち加賀一向一揆衆」による統治は、織田信長の北陸軍(柴田勝家佐久間盛政前田利家など)によって加制圧されるまでの約100年間(1488~1580年)続くことになります。

 蓮如が、それまで活動拠点であった京都や近江を棄て、雪深い北陸の越前吉崎まで逃れ、同地に御坊と寺内町を設けてまで本願寺勢力を一大教団にしたかったのは、只々衰弱の極みにあった本願寺(自分の実家と教派)を比叡山延暦寺などの強大かつ凶暴な多宗派からの迫害から護るための財力や人財が欲しかった、謂わば自己防衛目的が第一であったと筆者は思えるのであります。
 それが予想外にも、多くの本願寺信徒が集まり、越前吉崎が急激かつ大発展して、本願寺勢力が一大教団へと成り上がったために、近隣の武家政権(先述の加賀守護・富樫氏や越前守護代・朝倉氏)をはじめ白山信仰宗派(天台宗の霊応山平泉寺など)の警戒反感を買ってしまい、蓮如の本願寺勢力は戦国初期の争乱に巻き込まれていった意味合いが強く見受けられます。新興勢力(蓮如)が急に成り上がって、近隣の既存勢力と激しく衝突する、後の1570年代前半の織田信長情勢(第一次信長包囲網)にとても似ております。

 蓮如の不本意ながらも、蓮如が適地・越前吉崎に拠点を遷し、同地を御坊(寺院)と寺内町(門前町)という城郭および都市設計によって侘しい寒村・吉崎は殷賑を極め、人・モノ・金が集まり本願寺勢力が、武家や多宗派の諸勢力が畏怖するほどの一大教団までに成り上がったことは事実であります。即ち、上念司先生が言うところの『本願寺の新ビジネス』の大成功の結果であります。

 『蓮如は、その後このモデル(筆者注:寺院と門前町セット)を畿内に持ち込み、大成功を収めます。』

 これも前掲の上念司先生の『経済で読み解く織田信長』の文中の一節でありますが、越前吉崎を退去し、再び畿内へ拠点を遷した蓮如は、要所要所に、「寺院と門前町=御坊と寺内町」を築いて、更に人財・物資を多く集め、『本願寺勢力を天下第一の民衆勢力』へと躍進させてゆくことになります。
 その場所が、京都の『山科本願寺』であり、そして本願寺ビジネスモデルの集大成となる『大坂本願寺(別名:石山本願寺)』であります。この山科・大坂という境地(要所)も蓮如が将来の発展性を見込んで、核となる御坊を建立し、本願寺信徒たちの棲家で活動の場となる寺内町を、越前吉崎よりも大規模に建設してゆくのであります。

 この本願寺勢力、土地開発やビジネスの発展が、また既存の他勢力、というより本願寺よりも遥かに新興勢力である革新的デベロッパーから強烈な反感を買うことになります。それが尾張の織田信長であります。信長も本願寺、というより蓮如が見初めた地、『大坂』の支配権を渇望し、それが大きな原因の1つとなり、甲斐武田・越後上杉・安芸毛利など錚々たる戦国大名をも巻き込んで、織田信長VS大坂本願寺という10年の長きにわたる宗教経済戦争(通称:石山合戦)になります。
 天才・蓮如が創り上げた本願寺勢力と、一方の天才・織田信長が率いる織田勢力との戦いについては、また別の機会に。

(寄稿)鶏肋太郎

蔵田五郎左衛門の解説 上杉謙信を経済面と外交面で支えた越後商人
家臣の造反に悩まされた名将・上杉謙信から見る当時の大名と家臣団の関係性
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