上杉景虎の解説「御館の乱」上杉謙信に愛された非業の若武者

上杉景虎(うえすぎ かげとら)は北条氏康の七男として天文23年(1554年)に生まれ、後に越後の戦国大名上杉謙信の養子になりました。
上杉景虎の幼名は西堂丸もしくは竹王丸、元服して三郎と名乗ったと言われています。
母は遠山康光の妹で、兄弟には後北条氏4代目の北条氏政北条氏照北条氏規などがいます。

北条三郎から上杉景虎へ

上杉謙信の元へ養子に出されるまでの上杉景虎の事績は、後北条氏の重臣・北条綱成の息子であった北条氏秀の事績と混同されていましたが、研究が進み、現在では北条三郎の事績として考えられています。
また「景虎」という名前は、上杉謙信の初名であるため、文献資料などを読んでいると、混乱する場合もあるかもしれませんが、上杉謙信が「景虎」を名乗った頃は、長尾姓でしたので、「上杉景虎」とは北条三郎のことを指します。

上杉景虎

幼少期の上杉景虎は、早雲寺に預けられ、出西堂と名づけられ、寺の喝食として過ごしていました。
早雲寺は上杉景虎の曽祖父に当たる北条早雲の遺言によりその子北条氏綱京都大徳寺の和尚・以天宗清を招いて創建させた寺だと伝わっています。
早雲寺は、国の重要文化財に指定されている北条早雲の肖像画や織物張文台及硯箱、神奈川県の指定文化財になっている北条氏綱、北条氏康の肖像画などを所蔵しており、後北条氏と大変所縁のある寺院です。

この頃の上杉景虎は、容姿端麗で、様々な文献、軍記物などにその美しさが記されているほどの美少年だったと伝わっています。
早雲寺に預けられ、将来は出家する予定だったと言われてた上杉景虎でしたが、永禄12年(1569年)ごろの動向は、当時を伝える書物によって異なります。





まず一説には当時、甲相同盟を結んでいた北条氏と武田氏が武田信玄の駿河侵攻により一時破綻します。
その後、和睦、甲相同盟の再締結のため、北条三郎が武田信玄の養子に迎え入れられ武田三郎と名乗ったとの記載が元禄元年(1696年〕に成立した「上杉年譜」や享保11年(1726年)に成立した「関八州古戦録」などにあります。
しかし「甲陽年鑑」などの上杉景虎と同年代に成立した文献や系図に記載がないため、近年の研究ではその信憑性は否定的に捉えられています。
現在の研究では、永禄12年(1569年)に北条氏の元老・北条幻庵の養子になり、幻庵の娘を娶って小机衆を束ねたという説が一般的になっています。

しかしこの説の場合でも、少し不具合が生じると唱える研究もあります。
同じ永禄12年(1569年)の武田信玄の駿河侵攻のために、武田信玄と手切れとなった北条氏康が、後顧の憂いをなくすため、越後の上杉謙信と不可侵条約を結ぼうと画策します。
その際に上杉謙信の姪と北条一族の男子が婚姻する約定が結ばれ、その男子が上杉景虎となりますが、もし その人物を北条三郎とすると、北条幻庵との養子縁組と上杉謙信の姪との婚姻の時期が被るため、上杉謙信に養子へ出されたのは先程触れた北条氏秀ではないかと言われていました。
このように様々な説がありますが、永禄13年(1570年)に北条氏から上杉氏に養子に出された男子が、上杉謙信から彼の初名をもらい、上杉景虎となります。

越後入府と甲相同盟の決裂

越後に移り、春日山城の三ノ丸に屋敷を与えられたと言われる上杉景虎は、その後上杉謙信と養子縁組を行っています。そして寺社仏閣への礼状を謙信に代わって行っていたり、軍役を免除されているなどの特別待遇を受けています。謙信は、越後を同じ養子の上杉景勝に与え、上野を上杉景虎に与えようとしていたのではないかと考えられています。

元亀2年(1571年)、北条氏康が死去すると元来、上杉氏と手を切り、武田氏と結ぶべし考え、父・氏康と対立していた北条氏政が家督を継ぎました。
上杉景虎もこの父の死に際して、一旦小田原に戻っていますが、すぐに越後に帰参しています。
北条氏政は北条氏康が亡くなると、武田に近づき、甲相同盟を復活させます。
この頃の謙信は、越相同盟にしたがって、北条氏が武田氏と対抗できるために、織田、徳川と結ぶなど、北条氏の憂いをなくすよう尽力していたと言われています。
しかも養子の上杉景虎は氏政の実弟ですので、弟やその家臣を捨ててまで武田氏に付いた北条氏政に上杉謙信は激怒しました。





北条氏政に激怒した上杉謙信ですが、上杉景虎に対しては寛大でした。これは上杉景虎はすでに越後に溶け込み、上杉家にとって重要な一族であると上杉謙信が認識していたからではないかと思われます。
またこの越後帰参については、上杉景虎には嫡男・道満丸が誕生しており、道満丸は系図的に謙信唯一の孫にあたることも一つの理由かも知れません。

上杉謙信の死と御館の乱

天正6年(1578年)に上杉謙信が急逝してしまいます。謙信は家督を誰に継がせるのか明確に決めていなかったため、上杉家中が景勝派と景虎派の分裂してしまい、争いが生じてしまいます。これが「御館の乱」と呼ばれる争いです。

この戦いで上杉景虎は上杉景信、北条高広、本庄秀綱、堀江宗親といった上杉家の重臣たちを味方につけ、さらには実家の後北条氏やその同盟国である武田勝頼の助力、伊達輝宗や蘆名盛氏などの外部勢力の取り込みも行ったことで、初め優勢にことを運びます。
しかし景勝側が春日山城の本丸と金蔵の占拠に成功し27000両もの大金を手にしたこと、上杉謙信の印判などを手に入れ、文書の発給を握ったことなどもあり、情勢が変わって、上杉景虎は妻子を連れて春日山城を脱出、上杉憲政の屋敷である御館に逃げ込みます。

その後、武田信玄の跡を継いでいた武田勝頼が北条氏政との盟約に従い、景勝攻略のための軍勢を越後に差し向けますが、上杉景勝は武田勝頼と和平交渉を行い、武田勝頼を調停役として景勝と景虎の間に立たせることに成功します。
ここで一旦争いは収まりますが、徳川家康が武田領に侵攻を開始したため、武田勝頼は越後から引き上げざるを得なくなってしまいます。
これにより一旦和睦していた上杉景虎、上杉景勝両陣営は再度、戦状態となります。

その後は後北条氏から北条氏照、北条氏邦らの助勢もありましたが、雪で北条勢の大半が帰国してしまったことで、その隙を上杉景虎勢は上杉景勝勢に攻め込まれ、天正7年(1579年)に御館は落城しました。
上杉景虎の妻は上杉景勝の姉でもあったため、景勝側からの降伏勧告がありましたが、それに従わず、自害して果てます。
さらに嫡子の道満丸は上杉憲政に連れられて景勝の陣へ行く途中、誰かに上杉憲政諸共、殺害されています。

上杉景虎は越後を脱出して、兄・北条氏政の元に向かおうとしましたが、途中、鮫ヶ尾城主・堀江宗親の謀反に遭い、自害しました。享年26歳。眉目秀麗で歌にも詠まれた美男子はその短い一生を終えました。

上杉景虎の墓所は新潟県長岡市の常安寺と言われていますが、現在墓標は残っておらず不確かです。新潟県妙高市の勝福寺には上杉景虎の供養塔が建てられています。

まとめ

上杉景虎については、これまでも幾度か小説の題材として取り上げられています。それは26歳という若さで非業の死を遂げた美男子の儚さや北条氏と上杉氏という戦国時代で有名な両家の間で揺れ動いた葛藤、さらにはその生涯が詳しく確定されておらず、複数の説が伝えられていることなどが理由と考えられます。





上杉景虎は武田家重臣・跡部勝資が「三和一統」の象徴とも呼び、北条、上杉、武田の3家の和をなす存在として周辺諸国に大きな影響を与えていたと言われています。越後には人質同然として入府しながら、稀代の英雄・上杉謙信が北条との同盟が切れても手放さなかった上杉景虎はとても魅力のある人物だったに違いありません。

(寄稿)kazuharu

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