魚津城の戦い~誇り高き上杉勢部将たちの最期

合戦経緯

かつて、共通の敵「武田信玄」を牽制するため織田氏と上杉氏は同盟関係にあった。
対する武田信玄は、越中で影響力があった一向宗門徒を巧みに利用して上杉軍と衝突させ、上杉謙信の勢力拡大を抑えていた。
また、将軍・足利義昭の仲介で越前の朝倉氏、近江の浅井氏らとも通じ、織田包囲網をつくることで織田信長の勢力拡大も思うように進まないでいた。
 
足利義昭は、織田包囲網を強固なものとすべく、織田の反対勢力である比叡山や本願寺などを糾合したことで織田信長は危機的状況にあった。
だが、織田信長による「比叡山焼き討ち」などの神仏を怖れない戦いにより、織田包囲網は少しずつ綻んでいくことになる。
しかし、この行為は、上杉謙信を激昂させることになり、両氏の同盟関係は破棄された。





1573年(元亀4年)
武田信玄が上洛途中に病で倒れ亡くなると、更に状況が一変することになる。
武田信玄の跡目は、武田勝頼が引き継ぐことになるが、天下布武を目指す織田信長は、越前の朝倉氏を破り、1575年(天正3年)には長篠の戦いで武田軍に大勝する。

その勢いのまま、北陸方面への侵攻を決定した織田信長。
柴田勝家を大将とし、与力に佐々成政前田利家らを配置した織田軍を出陣させた。

1576年(天正4年)
上杉謙信は、北陸侵攻の警戒と石山本願寺攻めに対し、本願寺勢力と講和を結んで敵対関係を明確にした。

1578年(天正6年)3月
しかし、武田信玄に続いて上杉謙信も春日山城で突然この世を去ってしまう。
後継ぎを明確に示していなかったことにより、上杉家のお家騒動「御館の乱」が勃発。
上杉景勝上杉景虎による家督相続争いは、上杉家にとって少なからず影響を与えることになる。
これまで上杉謙信が築いてきた領土の一部を失い、求心力も低下したことで領土内の情勢は不安定な状態となった。
2年近く続いた騒乱は、上杉景勝が当主となることで終息を迎える。
その後、共通の敵である織田信長を警戒すべく、武田勝頼と甲州同盟を結んだ。

1580年(天正8年)
北陸侵攻を強める織田軍は、加賀まで攻め込むと翌年には制圧した。
一方、上杉軍も越中・富山城付近までの勢力を維持していたが、織田軍の甲州征伐により同盟関係にあった武田勝頼が自刃。
その後、越中・富山城も織田軍によって掌握されてしまう。
これ以上の侵攻は許されない上杉景勝は、越中防御の要となる松倉城、魚津城の防御を固めた。
そして、魚津城には名将:中条景泰が送り込まれた。

*松倉城
魚津の南部に位置し、山頂付近には空堀で区切られた曲輪が複数あり、周辺にも平坦面や空堀を備えた富山地方で最大規模の城。
    
*魚津城
15世紀の頃、椎名氏によって築城された松倉城の支城。
この城は1569年(永禄12年)上杉謙信が攻略後、上杉氏の支配となる。
魚津城は、城の西側に北陸街道と湊があり交通の要衝となっていた。
一方で、古くから越中を掌握する侵攻および防衛の拠点としても重要視されていた。

*中条景泰
国衆筆頭として上杉謙信側近の一翼を担った部将。
上杉の忠臣で、数多くの戦では前線で活躍した。

1581年(天正9年)
荒川の合戦以後、上杉方に内通していた願海寺城主・寺崎盛永が見せしめとして粛清されるなど、北陸地方での織田氏による勢力基盤が固められていった。

魚津城の戦い

1582年(天正10年)3月13日
魚津城は、柴田勝家を大将とする4万8000人の織田軍によって包囲。
城内には、中条景泰を中心とした12人の部将および総勢3800人程の城兵が籠城していたが、兵力の差は明らかだった。
さらに織田軍は、松倉城と魚津城の中間にも布陣して援護を遮断した。





この危機を脱しようとした魚津城の12将は、直江兼続のもとに厳しい現況と救援を訴える書状を送った。
書状には、大勢の敵軍が掘り際まで攻め込んできて、日夜鉄砲を撃ち込んでくるため、肉体的・精神的に追い込まれている。
このままでは、遠からず殲滅することは間違いないので、直ぐにでも救援に来て欲しいという内容が書かれていた。

上杉景勝としては、直ぐに魚津城で戦っている兵たちの救援に向かいたかったが、出陣できない事情があった。
武田氏を滅亡させた織田軍は、信濃に森長可、上野に滝川一益を駐屯させ、越後侵攻を伺い、
越後国内でも新発田城主・新発田重家が領内侵攻の動きを見せていたのだ。
そのため、能登国の諸将、松倉城主・上条政繁などを魚津城の救援に向かわせた。
しかし、魚津城では、日が経つにつれて戦況は悪化していった。

1582年(天正10年)4月23日
織田軍による攻撃は日々激しさを増し、二の丸まで押し込まれてしまう。
そこで、魚津城の城将たちは、玉砕覚悟で戦う意思を伝えるために連名で直江兼続に書状を送った。
これが国の重要文化財にも指定されている「魚津在城衆十二名連署状」である。
また、宛先が直江兼続となっているが、主君・上杉景勝に向けた遺言状ともいえる書状とも考えられる。

*連署した12人の将
中条景泰、寺島長資、吉江信景、吉江宗信、蓼沼泰重、亀田長乗、安部政吉、山本寺景長、
竹俣慶綱、石口広宗、藤丸勝俊、若林家吉

1582年(天正10年)5月4日
上杉景勝は、自ら軍勢を率いて春日山城を出陣。
5月19日、魚津城周辺を望むことが出来る天神山城に後詰めの陣を張った。
だが、5月6日に魚津城・二の丸を占拠されたため、孤立した本丸の救援は困難を極めた。
そこへ、信濃国の森長可、上野国の滝川一益が越後侵攻の動きありとの報せが入ったため、5月27日に救援することなく退陣し、春日山城へ戻ることになった上杉景勝。

一方、これで完全に孤立無援となってしまった魚津城だったが、5月9日には弾薬、兵糧も尽きていた。
また、開戦からの3か月間、大軍で押し寄せる織田軍に対して決死の戦いを繰り広げていたが、これ以上の戦いも困難と城内の兵たちは悟っていた。

魚津城12将の最期

充分な援軍を得られなかった籠城戦の多くは、兵糧・弾薬が尽きたことで士気が下がり、離反者が出るなど内部崩壊により落城に繋がることが多い。
しかし、魚津城の兵たちは、降伏を潔いものとはせず、上杉の誇りをもって最後まで戦い抜くことを選んだ。

中条景泰を中心とする12人の部将は、落城が決定的になったことで自刃を決意すると、織田軍による首実検に備えて、自分の名前を書いた板札を鉄線で結わえると、耳に開けた穴に通した。
その後、12将は各々に十文字に腹を切り、残りの城兵と共に全員討ち死にした。





1582年(天正10年)6月3日
魚津城は落城。
くしくも落城の前日(6月2日)に「本能寺の変」で織田信長は自刃。
落城の翌日、これを知った柴田勝家ら織田軍は、急ぎ自分の領地へ引き上げていった。

後に、魚津城で壮絶な死を遂げた12将は、真の武士として称えられたと言われている。

(寄稿)まさざね君

羽柴秀吉が用いた奇策「備中高松城の水攻め」とは
まさざね君先生による寄稿シリーズ

共通カウンター

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です