足利義昭の要点をわかりやすく1分で解説【どうする家康】書状を送り諸大名を動かした室町幕府15代将軍

足利義昭とは

足利義昭 (あしかが-よしあき) は、戦国時代の武将で1537年に生まれた。
父は室町幕府・第12代将軍である足利義晴で、母は関白・近衛尚通の娘(慶寿院)。
兄に足利義輝(第13代将軍)がいる。

2022年NHK大河ドラマ「どうする家康」では俳優の古田新太さんが足利義昭を演じられる。

足利義昭は次男だったため6歳になると出家したようで、初め興福寺一乗院に入り、のち一乗院院門跡権少僧都となって覚慶(かくけい)と号した。
20年以上、興福寺で高僧になるべく修行を積んでいたが、1565年、兄・足利義輝が三好義継松永久通・三好三人衆らによって殺害された。
松永久秀らは覚慶も興福寺にて幽閉させたが、兄の遺臣である細川藤孝一色藤長らが密かに興福寺から脱出。
和田惟政の居城である甲賀の近江・和田城に身を寄せると覚慶は諸国の大名に御内書を発している。
<注釈> 御内書(ごないしょ)とは室町幕府の将軍が発給した私的な書状である公文書。
三河の徳川家康らも御内書を受け取っている。

その後、1566年、覚慶は六角義賢を頼り近江の矢島御所にて還俗し、はじめ「足利義秋」と名乗った。
そして河内の畠山高政、越後の上杉輝虎、能登の畠山義綱らと連絡を取り、上洛の機会を狙っている。
しかし、なかなか協力を得られず若狭・越前での亡命生活を送ったあと、美濃・立政寺に入ると織田信長の食客となった。
そして、織田信長の力を借りて上洛を果たし、室町幕府15代将軍に擁立されている。

念願の征夷大将軍となって室町幕府を再興した足利義昭であったが、次第に織田信長と不和となり、1573年、浅井長政朝倉義景武田信玄らに連絡して織田信長を討とうと近江に挙兵し「信長包囲網」を築いた。
しかし、朝廷からの勅命にて織田信長と和平を結ぶも、再度、真木島昭光槇島城にて挙兵。
そのため、織田信長の攻撃を受け、子・足利義尋を人質に出して河内・若江城に移った。(室町幕府滅亡)

足利義昭は更に和泉・堺、そして紀伊・由良へと転々とし1576年には備後・鞆城に移って毛利氏を頼っている。(鞆幕府)

1582年、明智光秀本能寺の変にて織田信長が横死。
織田家の後継者になった関白・豊臣秀吉は1587年に足利義昭の帰京を認めた。
15年ぶりに京都に戻った足利義昭であったが1588年1月、将軍職へ返上して出家すると昌山道休と号し、山城・槇島にて1万石の知行を与えられている。
こうして豊臣秀吉の家臣となった足利義昭は豊臣家の御伽衆に加えられ、1592年、朝鮮攻めの際にも肥前・名護屋城に3500を率いて出向いている。

1597年、足利義昭は大阪にて死去。享年61。
死因は腫物であったとさる。

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