武田勝頼の要点を簡潔にわかりやすく解説【どうする家康】なぜ武田家は負けたのか?

武田勝頼とは

武田勝頼(たけだ かつより)は戦国時代の武将で武田信玄の4男として1546年に生まれた。
通称は武田四郎勝頼。
母は側室である諏訪頼重の娘(諏訪御料人)。

2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」では俳優の眞栄田郷敦さんが武田勝頼を演じられる。
<注釈> 眞栄田郷敦 (まえだごうどん) さんは、故・千葉真一さんの次男。

武田勝頼

1562年、徳川家康が三河を平定した頃、武田勝頼は母方の諏訪氏の名跡を継ぎ、秋山虎繁(秋山信友)から変わって信州・高遠城主となり諏訪勝頼と称した。
武田家の家督は異母兄・武田義信が継ぐ予定であったため、武田勝頼は諏訪・高遠方面を任されることになった。
1563年、上野・箕輪城攻め(または武蔵・松山城攻め)にて初陣し、長野業盛の家臣・藤井豊後を討ち取っている。

しかし、永禄8年(1565年)、異母兄・武田義信の家臣らが、武田信玄暗殺の計画を立てたとして処刑され、武田義信も幽閉されたのち切腹。
次兄・竜宝は盲目のために出家しており、三兄・武田信之は夭逝していたため、武田勝頼が後継者となった。
一方で織田家との絆を強めるため、織田信長の妹を妻にしていた苗木城主・遠山直廉の娘との婚儀も進められ、1567年、正室・龍勝院(織田信長の養女)が嫡男・武王丸(武田信勝)を産んでいる。
また、武田信玄の娘・松姫(7歳)と、織田信長の嫡男・織田信忠(11歳)との婚約が結ばれより、織田家との縁を強めた。





1569年、武蔵・滝山城攻めでは二の丸まで占領する活躍を見せている。

1570年、駿河の今川氏真を徳川勢と武田勢が攻撃した際に、武田勝頼は武田信廉・長坂長閑らと駿河・花沢城を攻略。
1571年1月、武田勝頼は甲府の躑躅ヶ崎館にて武田信玄の近くで仕えることになり、叔父・武田信廉が高遠城主になっている。
また、9月には正室・織田信長の養女(龍勝院)が死去。
1572年、武田信玄は西上開始し、武田信豊穴山信君らと遠江・二俣城を攻略。
三方ヶ原の戦いでも徳川家康と戦った。
しかし、1573年、武田信玄が陣中で病死。
武田勢は甲斐に帰還すると武田勝頼が武田氏第20代当主となった。
ただし、当初は武田信玄の死を隠したため、隠居したので継いだと公表している。

1574年、美濃方面で織田勢が巻き返しを図ると、武田勝頼は苗木城・阿寺城・千旦林城・阿木城・飯羽間城・串原城・今見砦など落とし、美濃・岩村城に進出して美濃・明知城や飯羽間城も陥落させた。(明知城の戦い)
更には徳川領にも侵攻し、武田信玄でも落とせなかった遠江・高天神城を攻略。(高天神城の戦い)

1575年、奥平信昌長篠城を攻撃するも時間を要し、織田信長・徳川家康の連合軍が長篠に布陣。
この長篠の戦い馬場信春山県昌景内藤昌豊、原昌胤、原盛胤、小幡信貞、真田信綱真田昌輝、武田信実、金丸忠次、河窪信実、土屋昌続(土屋昌次)、土屋直規、小宮山忠房、安中景繁、望月信永、望月重氏(望月甚八)、根津甚平、米倉重継、米倉正継、横田綱松(横田備中)、山本信供、水原茂忠、津金胤時、甘利利重、甘利藤蔵、油川顕重、油川宮内、高坂昌澄、奥津十郎(奥津定元)、名和無理介、杉原日向、和気善兵衛、川窪備後、下曽根源六、浪合胤成、岡部竹雲斎、岩手左馬之助、松平伊忠、脇善兵衛、鎌原之綱、常田春清、祢津是広、樋口兼周、三枝昌貞など重臣が多数討死し武田勢は大敗を喫した。

これだけ名のある武将を失ったのは武田勝頼にとって大きな痛手となった。
当時の末端兵は命令がないと動けない(どうすればよいかわからない)為、部隊を指揮する武将の能力次第で強い・弱いがハッキリしやすいからだ。

長篠の戦い

敗走した武田勝頼は菅沼定忠武節城を経由して甲府に逃れ、奥三河の田峯城、武節城、三河・亀山城などや、美濃・岩村城などの重要拠点を失った。
徳川勢は諏訪原城を落とし、遠江・二俣城も開城させると、依田信蕃が守備していた高天神城が孤立。
1576年、武田勝頼は高天神城の救援に赴き、遠江・横須賀城を攻撃したが大須賀康高に敗れて遠江・相良城へ撤退している。
1577年、徳川家康が高天神城を攻めると、武田勝頼は駿河・江尻城から遠江・小山城を経て馬伏塚城(まむしづかじょう)で徳川勢と戦ったが撤退した。
この頃、毎年の連戦と金山などの枯渇もあり、武田家の軍資金は厳しくなってきていたものと考えられる。

1578年、上杉家で御館の乱になると、同盟していた北条氏政からの要請を受けて上杉景虎を支援するため武田勝頼は信越国境へ出陣。
対する上杉景勝は武田勝頼に和睦を求め、武田勝頼の妹・菊姫が上杉景勝の正室として輿入れするのと、東上野を武田家に割譲することで甲越同盟を結んだ。(甲相同盟は破綻)
また、婚礼の際には、上杉家から多額の金品が送られたという。
その間も、徳川勢と田中城・小山城などで一進一退の攻防が繰り広げられた一方、上野国では新田金山城・膳城を武田勢が手に入れている。





1581年、織田勢の脅威に対抗するため、武田勝頼は新府城の築城を開始して本拠を甲府から移転しり、臨時税を課すなどしたため、商人・領民らの信用を失ったとされる。
また、徳川勢によってついに高天神城が陥落し、武田家臣への寝返り工作が盛んになった他、小田原城の北条氏も駿河を伺うようになり、笠原政尭の伊豆・戸倉城を攻撃するなどしている。
織田家との和睦交渉もまとまらず、1582年、ついに織田信忠による甲斐攻めが開始され一門衆である木曾義昌が織田家に降伏。
徳川勢は駿河から甲府を目指したが、江尻城を守っていた武田一族筆頭の穴山梅雪も徳川家に寝返った。
信濃・高遠城では弟・仁科盛信が奮戦するも討死。
新府城にいた武田勢も離れる者が続出し、武田勝頼は反撃に出ることもできず未完成の新府城に放火して逃亡。
小山田信茂岩殿城を目指したが、笹子峠の手前で小山田氏も寝返ったと知ると天目山・棲雲寺へ向かった。
そして、追っ手である滝川一益の軍勢に捕捉され、田野での天目山の戦いにて武田勝頼は自刃。享年36。
武田家は滅亡した。
武田勝頼の首は京都に送られ、長谷川宗仁によって一条大路の辻で梟首されている。
墓所は田野の景徳院





武田信玄が生きていた時代、織田信長・徳川家康は本当に武田家を恐れていた。
武田勝頼は、父・武田信玄よりも領地拡大に成功した軍略化ではあったが、武田家の拡大路線を支えた金山の枯渇や連戦に継ぐ連戦で、軍資金もひっ迫し鉄砲の火薬を手に入れるのにも苦労している。
そのため、政治的判断も難しい判断を迫られ、織田・徳川・北条を敵に回してしまい、御館の乱で疲弊した上杉景勝からもその後は満足な支援も受けられる自滅したと言える。

以上、これでもだいぶ省略してご紹介させて頂いたので、更に詳しくは下記をご覧頂けると幸いだ。

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