徳川家康と言う戦国武将に迫る【徳川家康】性格・人柄・死因は?

徳川家康とは

徳川家康 (とくがわ いえやす) は、戦国時代の武将で、1542年12月26日に、岡崎城にて生まれました。
幼名は竹千代で、父は、三河・岡崎城主である松平広忠、母は水野忠政の娘である於大の方となります。
時代劇ドラマなどでもお馴染みの通り、幼いときから、今川義元に「人質」として出されて、駿府にて育ち、太原雪斎などより教育を受けました。
そして、戦国時代を生き抜くと、江戸幕府を開くことになりますが、そんな徳川家康の性格や人柄に迫ってみたいと存じます。

徳川家康

1544年、母・於大の方の兄・水野信元(刈谷城主)は、今川義元から織田信秀に寝返りますが、父・松平広忠は、引き続き今川家への忠節を貫きます。
3歳の徳川家康(竹千代)が3歳の頃、於大の方は離縁させられて、水野家に戻されました。
その後、1547年、6歳になった竹千代は、今川氏の本拠地である駿府に人質として出されることになりました。
しかし、駿府に赴く途中、三河・田原城主の戸田康光が裏切り、竹千代が乗った船は、反対方向の熱田に到着し、織田家の人質になってしまったとされます。(諸説あり)
竹千代は約2年間、尾張の万松寺で過ごしていますが、織田信長とも、この時、面識を得たと考えらます。
1549年、父・松平広忠が、殺害されたともされますが、24歳の若さで死去します。
この時、今川義元は、松平家を取り込むため、捕虜にしていた織田信広と、竹千代を「人質交換」して、竹千代は駿府に移されました。
しかし、今川家からも、将来、三河国を統率していく竹千代には期待していたようで、今川家の軍師・太原雪斎などより、今川家による高質な教育を受けたとされます。
そして、1555年、元服すると、今川義元から偏諱を賜り、松平次郎三郎元信と名乗り、今川義元の姪で関口親永の娘・瀬名(築山殿)を正室に迎えました。

1560年、今川義元は大軍を率いて織田信長を攻撃し「桶狭間の戦い」となります。
この時、松平元信は、今川勢の先鋒を任されており、尾張・大高城を守る鵜殿長照に、兵糧を届けています。
そんな折り、大雨が降る中、今川義元は急襲されて討死し、今川勢は総崩れとなりました。
この時、松平元信は、今川勢が逃れて空っぽになっていた、三河・岡崎城を取り戻し、独自の行動を起こし、今川家からの独立を計りました。
そして、三河の城を次々に攻略していき、1561年には、伯父・水野信元の仲介を受けて、清洲城の織田信長と清洲同盟を結んでいます。
松平家の家臣の中には、三河一向一揆に味方した者もいたことから、苦しめられましたが、なんとか1566年頃には三河を統一しました。

松平家には譜代の家臣が多く「三河武士」の強さもあったものと推測されますが、それら屈強な武将らを統率する、松平元信の魅力もあったことでしょう。
しかし、徐々に織田信長に従属する形となって行き、常に織田軍の戦にも駆り出され、苦悩の日々が続くことになります。
特に甲斐の武田信玄の信仰には苦慮しており、1572年、武田勢が西上を開始すると、遠江・二俣城を失うなどしました。
織田勢は、朝倉義景浅井長政との合戦で援軍も十分に送れなかったことから、三方ヶ原の戦いでは、鳥居四郎左衛門、成瀬藤蔵、本多忠真、田中義綱、中根正照、青木貞治、夏目吉信、鈴木久三郎、織田勢の平手汎秀を失うなどし、大敗を喫し、命からがら浜松城に戻っています。
ところが、野田城の戦いの頃、陣中で武田信玄が死去したことから、武田勢は撤退すると言う、織田・徳川にとって「幸運」な面もありました。
その後、長篠城など奥三河を奪還し、駿河方面では、遠江・高天神城を巡って、武田勝頼と攻防を繰り返しています。
そんな戦いも、1575年、長篠の戦いにて、武田勢を撃破し、犬居城、二俣城、諏訪原城を奪回し、1581年には高天神城を攻略するなど、優位に戦いを進めていきました。
ただし、織田信長との関係は、切り離せず、織田家に味方する大名と言う立場は変わっていないどころが、1567年には、織田信長の娘・徳姫と、嫡男・松平信康が結婚し、増々、関係は強化されました。
1579年には、正室・築山殿と、嫡男・松平信康が謀反の疑いを掛けられ、2人を失うと言う、悲しい出来事もありました。
それでも、徳川家康は、織田信長引き続き従う選択をしましたが、苦渋の決断でもあったことと推測されます。

1582年、織田勢による甲斐攻めでは、駿府側から甲斐へ侵攻し、甲府を占領し、武田家の滅亡にも協力しました。
それから3ヶ月後、明智光秀による「本能寺の変」が発生し、織田信長が横死します。
この時、徳川家康は僅かな供を連れ、穴山信君らと安土城を訪れ、そのあと「堺」見物をしていたところ、畿内は明智勢の勢力下となり、大変危険な状況へと一転しました。
こうして、徳川家康最大のピンチともされる「神君伊賀越え」にて、またまた、命からがら、浜松城へと帰還しています。
武田の旧領では、滝川一益森長可、毛利秀頼が逃走し、甲府の河尻秀隆は一揆勢に討ち取られ、信濃・甲斐が空白地帯となったため、すかさが徳川勢は甲府を占領しています。
しかし、小田原城北条氏直も、信濃・甲斐の領地を狙い、天正壬午の乱となって、新府城にて北条勢と対峙しました。
真田昌幸を徳川勢に取り込むなどすると、補給が困難となった北条家と和睦します。
その結果、信濃・甲斐は徳川家が領有するところとなり、北条氏直の正室に、徳川家康の次女・督姫が嫁いでいます。
織田信長の束縛から解放され、ようやく独自の戦略を展開できるようになった徳川家康は、このように東の北条家と婚姻同盟を結び、甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の5ヶ国を領有する大大名へとなりました。
ただし、今度は、天下を狙い始めた、羽柴秀吉と対立した織田信雄が、徳川家を頼ってきて、いやおうにも巻き込まれます。
1584年、小牧・長久手の戦いにて、羽柴勢に勝利するものの、徳川家康の次男・結城秀康を、羽柴秀吉の養子にすることで和睦となっており、結果的には羽柴秀吉が有利な状況となりました。
関白となった豊臣秀吉は、大坂城に挨拶に来るよう、徳川家康に再三求めましたが、それは、徳川家康が、豊臣秀吉に頭を下げて臣従することを意味します。
求めに応じていないと、豊臣秀吉は、妹・朝日姫を正室として、徳川家康に差し出し、その6ヶ月後には、生母・大政所を岡崎城に事実上の人質として送りました。
そのため、ついに徳川家康も折れて、1586年、大坂城を訪問し、諸大名の前で豊臣家に臣従することを誓っています。
このあたりで、ひとつ言えるのは、織田信長や豊臣秀吉は「茶の湯」を積極的に行っていますが、徳川家康にはあまり見られません。
そんな茶の湯を「おもてなし」のひとつとして、交流・外交手段に使ったのは豊臣秀吉でして、1590年、小田原攻めのあと、徳川家は北条氏の旧領国(関東)に移るようにと言われても、豊臣秀吉の命には、従うほかなくなっています。
しかし、江戸城に入ると250万石と言う、大きな経済的基盤を持つに至り、治水対策・城下町や産業の整備も行いました。
また、1592年からの朝鮮攻めに置いて、徳川家康は九州の名護屋城には布陣しましたが、渡海することは無かったため、家臣らの戦力も温存できたのは大きいです。

名護屋城

伏見城にて豊臣政権を支えると、1598年には、毛利輝元上杉景勝前田利家宇喜多秀家ら五大老の筆頭となります。
そして、豊臣秀吉も没し、まだ6歳の豊臣秀頼を後見する立場となりました。
また、徳川家康の次に実力を持っていた前田利家も亡くなり、有力なライバルはいなくなったとも言えます。
そのため、石田三成などの反発もあり、1600年、関ヶ原の戦いにて勝利すると、ついに徳川家康は天下を手中に収めました。
金山・銀山などは直轄領にするなどして、財政基盤を盤石とし、1603年、後陽成天皇より征夷大将軍に任じられると、江戸幕府を開いています。

以上のことからも、天下を取るまで、徳川家康は、とにかく「耐え凌いだ」と言えます。

徳川家康の性格・人柄

徳川家康は、よく動物に例えて「たぬき」と呼ばれますが、若い頃には、織田信長を裏切ることなく、同盟を続けたことからも「律義者」です。
特に、武田信玄から攻められた際には、降伏して、武田勢に寝返っても、おかしくありませんのでね。
このブレがない「律儀」な性格から、豊臣秀吉の死後、多くの武将を、味方につけることができたとも言えるでしょう。

運が味方すると言う要素も、優秀な武将には必要なものともされますが、徳川家康は、とにかく、積極的行動と言うよりは「時を待った」と考えられます。
そのためには「長生き」することが重要でもあることから、薬草の知識を得て、自ら薬を調合していたと言うのは有名な話です。
鷹狩りを好んだことでも知られますが、これも、軍勢の訓練だけでなく、本人の健康維持も役割であったと推測されます。
酒は強かったようですが、決して、飲みすぎることはなかったと言います。
健康志向は成功したと言え、満73歳4ヵ月と、当時にしては長寿を全うしました。
更には、豊臣秀吉が子供に恵まれなかったのと対照的に、徳川家康も側室を約20名持ち、男子は11名残しています。
そのため、側室も若い女性ばかりという事ではなく、阿茶局など、1度、子供を産んだ経験がある未亡人なども複数、側室にしました。
子供が多いと、逆に、家督争いなどで、一族どおしの揉め事が発生しやすいのですが、それも、うまく抑え込んだと言えます。

なお、徳川家康は武田信玄を尊敬していたことから、武田信玄同様に、常に慎重に決断したと言えます。
また、情報の重要性を認知しており、伊賀・甲賀といった忍者を抱え、諸国の情報収集を重要視しており、自分に有利なタイミングを見計らいました。
現代の戦闘においても、情報は最も重要であり、敵の考え方や、敵軍の位置がわからないことには、作戦も立てられません。

以上のようなことからも、徳川家康は「長いものには巻かれろ」と言う、ことわざがあるように、強い権力を持つ者や、強大な勢力を持つ者には、敵対せず傘下に入って従っておいたほうがよい、といった処世術にて、時を待ったと言えます。
これかせ、性格なのか?、戦略であったのか?は、本人に聞いてみないとわかりませんが、
徳川家康から学べることは、とにかく「長生き」したほうが、勝ちと言う事です。
歴史に「もし」は禁物ですが、織田信長も、本能寺の変で死なずに、もし、長生きしていたら、また違った歴史が日本にはあったことでしょう。

しかし、最終的に江戸時代が約260年続いたことからも、徳川家康は戦国時代における最高の成功者と言っても過言ではないでしょう。

大坂の陣にて、豊臣家も滅亡させ、2代将軍・徳川秀忠の世に残す問題を排除もしてから、亡くなった徳川家康・・。
最後に、徳川家康の死因について触れておきたいと存じます。

徳川家康の死因

徳川家康の死因は、「てんぷら」の食あたり(食中毒)で、死亡したとするのが一般的です。
どんな「てんぷら」を食べたのかは、鯛(たい)を、かやの油で揚げたものに、すった韮をかけた、天ぷらとされてきました。
ただし、最新の研究では、異なる説も注目されつつあります。

この、鯛の天ぷらを食べたのは、鷹狩りをしたあとの、夕食とされ、最近になって1616年1月21日だと判明しました。
その後、亡くなった訳ですが、実際に死亡した日は、約3ヶ月後の4月17日朝10時頃となります。
この事実から考えますと、単なる食中毒で倒れて、3ヶ月間も闘病していたとは疑問が残るところです。

このような事もあり、徳川家康の新しい死因として注目されるのは「胃がん」となります。
徳川実紀に、徳川家康の病状に関して記載されており「見る間に痩せていき、吐血と黒い便、腹にできた大きなシコリは、手で触って確認できるくらいだった」とあります。
お腹に「しこり」があるのと、吐血・黒い便と言う特徴から、胃癌などの可能性がある訳です。

戦国時代を制した覇者・徳川家康は、織田信長や豊臣秀吉が行った良い政策面も取り入れ、更に発展させ、約260年続く、平和な時代の礎を築きました。
徳川家康は戦国最大の勝者であると言って良いでしょう。

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