夏目広次とは【どうする家康】徳川家康の身代わりとなって散った忠義の夏目吉信~わかりやすく2分で要点解説

夏目広次

夏目広次 (なつめ-ひろつぐ) は戦国時代の武将で、六栗城(夏目屋敷)主・夏目吉久の子として1518年に生まれた。
母は水野氏の娘。
源経基の5男・源満快(源満仲の弟)を先祖に持つのが夏目氏で、鎌倉初期に源頼朝に仕えた夏目国平が奥州攻めで武功があり信濃国の夏目村(長野県長野市夏目)の地頭を得たのが始まりとされる。
夏目信泰のときに三河国幡豆郡六栗へ移住し、父・夏目吉久と夏目広次(夏目吉信)は、松平清康松平広忠の譜代家臣であった。

2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」では、俳優の甲本雅裕さんが夏目広次 役として演じられる。

桶狭間の戦いのあと三河・岡崎城に復帰した松平元康(徳川家康)に従うと、永禄4年(1561年)の三河・長沢城への攻撃で軍功があったとされるがよくわからない。
永禄5年(1562年)には、豊川の八幡村城(八幡砦)主・板倉重定を攻めた松平勢として参陣。
しかし、今川勢の反撃を受けて松平勢は敗走し、殿(しんがり)を務めた夏目広次(夏目吉信)は、6回も踏み止まって奮戦したとされる。
そのため、徳川家康から賞され備前長光作の脇差を賜った。
しかし、永禄6年(1563年)、三河一向一揆となると夏目広次(夏目吉信)は一揆勢に加わり、大津半右衛門・乙部八兵衛・久留正勝らと野羽城(六栗城とも?)の屋敷を砦に改修して籠城し、松平家康(徳川家康)に対抗した。
乙部八兵衛が深溝城の松平伊忠に内通すると砦は陥落し、夏目広次(夏目吉信)は松平伊忠によって捕虜となった。

その後、乙部八兵衛がの助命嘆願によって許されると、松平伊忠の家来に加わっている。
ただし、すぐに松平伊忠が徳川家康に推挙嘆願し、夏目広次(夏目吉信)は徳川家に帰参を許され、三河・遠江の郡代になっている。

元亀3年(1573年)、武田信玄が大軍で二俣城を落としてあと、三方ヶ原の戦いになると夏目広次(夏目吉信)は浜松城の留守居であった。
しかし、徳川勢が敗色濃厚で徳川家康がピンチと知ると、わずかな手勢25騎を率いて戦場に駆けつけた。
徳川家康は武田勢に突撃しようと考えたが、夏目広次(夏目吉信)が説得すると馬の向きを変え、徳川家康を浜松城方面に逃したとされる。
そして、徳川家康が無事に浜松城に逃れるよう夏目広次(夏目吉信)は迫ってくる武田勢と戦い討死した。享年55。
まさに、徳川家康の身代わりとなっての壮絶な死であった。

徳川家康は夏目吉信出身の三河国幡豆郡豊坂村(愛知県額田郡幸田町)の明善寺と、松平家(徳川家の祖)の菩提寺・法蔵寺(愛知県岡崎市本宿町)に夏目吉信の墓を築いて供養している。
また、静岡県浜松市中区の犀ヶ崖資料館の近くには夏目吉信の忠節を讃える「夏目次郎左衛門吉信旌忠碑」がある。

明治時代の文豪・夏目漱石は夏目氏の子孫とされる。

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