山名豊国の解説〜律義者と知られた因幡守護

山名豊国とは?

山名豊国は戦国時代の天文17年(1548年)に因幡守護の山名豊定の次男として生まれます。
母は細川京兆家15代目当主細川高国の娘、正室には山名祐豊の娘の娘がいました。

父は但馬山名家で因幡守護

豊国らは、但馬国を拠点としていたので、但馬山名家と称されていました。ですが、豊定の系譜は因幡守護として山名家を支えます。その理由は、豊定の兄で但馬守護の山名祐豊が、天文17年(1548年)に因幡守護の山名誠通を豊定に討たせたからです。

誠通の討ち取りは、分裂していた但馬守護家と因幡守護家の統一が狙いでした。この事件は
「申の歳崩れ」と呼ばれており、これを機に豊定は因幡守護としての地位を確立しました。

そんな因幡守護ですが、永禄3年(1560)に父の豊定は亡くなると状況が一変。後継者となるべき祐豊の子である山名棟豊が翌年に18歳で死亡し、豊国の兄である山名豊数は因幡守護を継承しました。

豊国も因幡岩井城の城主でしたが、同年に山名家重臣の武田高信が反旗を翻します。そして、城を追われた豊国は、隣国の但馬国まで逃げ延びました。

因幡守護に復帰

永禄8年(1565)に兄の豊数が病死すると、豊国は豊数の代わりに高信と対立します。そして、元亀元年(1570)には、祐豊ら但馬衆の支援を受けました。天正元年(1572)には、山中鹿介や尼子勝久らの尼子再興軍の支援を得て、高信を撃破。因幡守護としての地位を取り戻しました。

ちなみに、この戦いは「鳥取のたのも崩れ」と呼ばれています。しかし、天正2年(1574年)に吉川元春の侵攻を受け、降伏した後に毛利家の軍門に下りました。

秀吉の鳥取城侵攻

天正8年(1580)に羽柴秀吉が侵攻してきます。豊国は一度鳥取城に籠城しますが、重臣たちは徹底抗戦を主張しました。その中で、豊国は単身で秀吉に降伏。城主を失った鳥取城には、毛利家家臣の吉川経家が派遣されました。城主を変えた後も、鳥取城に籠城した豊国の家臣たちは秀吉と戦い続けました。

翌年になると、秀吉の鳥取城攻めに豊国も従軍します。秀吉の2度の兵糧攻めによって、鳥取城は落城しました。

その後は、秀吉から仕官を勧められますが、断って浪人になります。諸国を放浪した後、摂津国の小領主多田氏の食客となりました。

家康に仕える

天正14年(1586)には徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いでは亀井茲矩の軍に加わり、東軍として戦いました。慶長6年(1601)に但馬国の領地を与えられ、6千700石を有します。

この頃には、但馬山名家の山名祐豊の家系は断絶しており、必然的に豊国の家系が山名家宗家の扱いとなりました。その後、家康とその子、徳川秀忠の信頼を得、寛永3年(1626)に病死しました。

律義者の豊国

豊国には律義者だったことがわかるエピソードが2つあります。
1つ目は秀吉の仕官を断った際に、非常に丁重な挨拶をして去ったこと。

2つ目は、着古した羽織を見て、家康が「物持ちがいいにも程がある」と言ったところ、豊国は「この羽織は足利義晴にいただいたものです。」と返答しました。この発言に家康は「古い恩義に背かない律義者だ」と褒めたことでした。

寄稿(拾丸)

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