戸田勝成の解説~関ヶ原の戦いで散った謀才俊雄の英士

戸田勝成とは

戸田勝成は、戦国時代の武将です。
慶長5年(1600)、徳川家康石田三成が今後の世を担う天下分け目の戦い・関ヶ原の戦いが起こります。

戸田勝成

結果は西軍の敗北で幕を閉じ、多くの石田三成や大谷吉継といった多くの西軍武将たちが討ち死にや斬首を遂げました。
しかし、その中には知名度もあまり高くない武将・戸田勝成(とだ-かつしげ)も討ち死にを遂げていました。

今回は東軍たちからも「謀才俊雄の英士」と称えられた勝成の生涯を追ってみたいと思います。

丹羽家に仕える

出自不明な勝成は一番最初に丹羽長秀に仕えます。
長秀のもとでは卅六飛将と呼ばれる織田信長から朱旄を指すことの許された武将の1人として活躍しました。

天正10年(1582)の山崎の戦いをはじめ、翌年の賤ヶ岳の戦いに参加します。
賤ヶ岳の戦いでは、長束正家桑山重晴たちと協力し、柴田勝家北ノ庄城へ退却させる活躍を見せました。
そして、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは1000人を率いて、先陣を飾りました。

しかし天正13年(1585)、丹羽家が長秀から長重になった際に内紛が勃発。
勝成はここで丹羽家を後にし、豊臣秀吉に仕えました。

豊臣家での活躍

秀吉のもとでは、天正15年(1587)の九州征伐、天正18年(1590)の小田原征伐に参加しました。
また、文禄の役にも参陣し、その際は小田原征伐同様300人を率いて秀吉の側近くにいました。

秀吉死後に徳川家康と石田三成が対立すると、勝成は三成率いる西軍に与し、大谷吉継のもとで戦います。
そして関ヶ原の戦いでは、寝返った小早川秀秋の攻撃を防ぎます。
しかし、脇坂安治朽木元綱らも秀秋と寝返ったことで挟撃を受けて壊滅。

その混乱の中で、勝成は織田長孝の部隊と交戦となります。
そして、長孝の槍を頭部に受け、討たれました。

勝成討死の異説と村正

勝成を討った武将に関しては、津田信成だったのではないかとの異説もあります。
これは信成が勝成の首を切ろうとした際、長孝の家臣が割って入ってきたということでした
そこから信成が勝成を討ったとの別説が流入しました。
また、勝成の嫡男も関ヶ原の戦いで討死。これにより、戸田家は滅亡しました。

勝成は東軍武将とも交流を持っており、長孝の父・織田有楽斎と信成は関ヶ原の戦いが起こる前に家康邸で一座を共にしたこともあって、勝成の死で涙を流して悲しみました。
ちなみに、勝成が使用していた槍で家康が指を怪我したことで、村正の作だったことが判明。
家康と村正の因縁を知った有楽斎は家康に味方していることもあって、勝成の槍を破壊しました。

(寄稿)拾丸

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