藤原惺窩の解説~戦国末期を生き延び近世儒学の祖となった碩学の人

藤原惺窩とは

江戸時代の我が国では儒教、とりわけ朱子学が重んじられた事で有名ですが、その基礎が築かれたのは戦国時代の後半を生きた、ある学者によるものでした。その学者こそが、本稿で紹介する藤原惺窩(ふじわら‐せいか)です。

惺窩は永禄4年(1561年)、藤原定家の子孫に当たる貴族・冷泉為純の三男として生を享けました。この為純は播磨国三木郡(兵庫県三木市)に所領を持っており、惺窩は同地で生まれ育ちます。母の名は分かっておらず、庶子でもあった彼に嫡男のポストは用意されておらず、惺窩は7~8歳で竜野景雲寺の僧侶に弟子入りし、修学の日々を過ごしました。

法名を宗舜(そうしゅん)と名乗って学問と仏道の修行に明け暮れていた惺窩少年(以後、惺窩で通します)でしたが、18歳の時に親兄弟と離別してしまいます。別所長治との戦いで父の為純と長兄・為勝が殺されてしまったのです。

秀吉に謁見して仇討を訴えるも諭されて断念した惺窩は相国寺の叔父を頼って上京し、僧侶・学者としての活動を続行しました。儒学、とりわけ朱子学に対する情熱を高めた惺窩は、ついには中国大陸への渡航計画を立てますが、鬼界ヶ島に漂着して頓挫します。時に慶長元年(1596年)、惺窩36歳の時です。

あこがれの地への出発が失敗した惺窩でしたが、慶長3年(1598年)に伏見で一人の学者と運命的な出会いを果たします。その学者こそが李氏朝鮮に仕える朱子学者・姜沆です。姜沆は朝鮮軍の輸送を受け持つ文官したが、慶長の役(1597年)で藤堂高虎軍に捕まり、日本へと移送されてきた捕虜でした。

仕える国は敵対しても、儒学の研究に励む学者という共通点を持つ二人は交流を深め、姜沆の助力を得た惺窩は『四書五経倭訓』を完成させ、惺窩によって体系化された儒学は朱子学の一派たる京学派をなします。その文化交流は慶長5年(1600年)に姜沆が釈放されて帰国するまで続きました。

この姜沆は著書である『観羊録』で日本を倭と呼んで軽蔑していますが、惺窩を舜首座(しゅんしゅそ)と敬称で呼び、儒教に対する探求心のみならず、その人格と能力を絶賛しています。事実、惺窩の立ち上げた儒学は朱子学をメインとしながらも、陽明学を受け入れたり、仏教など従来の考えや異なる流派・宗派に対しても拒絶しない寛容さを持った学問でした。

儒者として学派を立ち上げると言う快挙を成し遂げた惺窩の活躍はそれにとどまらず、林羅山、那波活所、松永尺五、堀杏庵の4人の高弟からなる『惺窩門四天王』のような『人材を育て上げ、秀吉をはじめとした数多くの武将に儒学を講ずるなど、近世儒学の祖と呼ばれるに相応しいものだったと言います。

好学で知られる徳川家康も惺窩を評価しており、仕官を求められるも門弟の羅山を推挙して、自らは辞退して誰にも仕えない道を選び、元和5年(1619年)に59年の生涯を閉じました。なお、戦で一度は途絶えた下冷泉家は惺窩の尽力で弟の為将が継ぐ事となり、為将の死後はその甥で惺窩の子である為景が引き継ぎ、現代までも存続しています。

藤原惺窩は儒教の本場である明、その儒学が栄える李氏朝鮮に生を得たかったと発言したとする逸話や、彼が興隆の一翼を担った朱子学の思想が、身分制度に則した江戸期の封建体制や、忠君愛国の教育を国民に強いた戦前の軍国主義に影響した事などで批判も受けました。

しかし、その惺窩が戦国の乱世と相容れないかに見える儒学と禅で身を起こし、偏見にとらわれずに宗派や思想、国籍の壁さえも乗り越えて完成させた近世儒学は、現代まで続く日本文化が花開いた平和な江戸時代を長続きさせる一助となったのも、また事実です。碩学の人・惺窩の成し遂げた業績は、今もなお思想史・学問史に確固とした足跡を残しています。

藤原惺窩の市原山荘跡-京都風光  
藤原惺窩 

(寄稿)太田

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