徳川光圀と正室の泰姫【明暦の大火】柳生義仙などが2分でわかりやすい解説(剣樹抄)

徳川光圀

徳川光圀(とくがわ みつくに)は、江戸時代初期、1628年に水戸藩主・徳川頼房の3男として、水戸城下で生まれました。
母は、側室・久子 / 高瀬局 (佐野城主・佐野信吉の家臣である谷重則の長女・久昌院) で、秘かに出産したと言います。
幼少期から優れた才能があったと言う徳川光圀は、1632年、5歳の頃に水戸城に入っています。
6歳の頃には、水戸徳川家の後継ぎに定められ、水戸藩の江戸・小石川邸に入り、藩主になるべく教育を受けます。

水戸光圀が、次期藩主に決まったのは、家老・中山信吉が、江戸幕府第3代将軍・徳川家光や、春日局と並んで女性最上位と言える英勝院(徳川家康の側室)に、推薦したからともされます。
1634年5月、英勝院に伴われ、徳川光圀は、江戸城にて徳川家光に拝謁しました。
翌月、英勝院は、かつて太田道灌の屋敷があった、鎌倉・扇谷に英勝寺を建立して、移っています。

1636年、元服すると、将軍・徳川家光からの偏諱を受けて、徳川光国となりました。
傅役として、伊藤友玄・小野言員・内藤高康がつけられ、水戸藩の家老・山野辺義忠からも教育を受けました。

正室・泰(たえ)

1653年、徳川光圀が27歳のとき、関白左大臣・近衛信尋の娘である近衛尋子(このえ ちかこ) が、徳川光圀の正室となっています。
近衛尋子は、17歳で、泰姫(たいひめ) と呼ばれました。
泰姫は、学識が高く、和歌にも優れていたようで、水戸光圀との仲はよかったとされます。

明暦の大火

1657年1月18日、明暦の大火(めいれきのたいか)は、本郷・小石川・麹町の3か所から連続的に出火したとされ、放火説があります。
そして、江戸城の外堀より内側の全域が焼失。
天守を含む江戸城、多数の大名屋敷、市街地の大半が焼け、江戸全体の6割が全焼。

火災による死者数は3万人~10万人とも言われています。
以後、江戸城の天守閣は、再建されることはありませんでした。
小伝馬町の牢屋奉行・石出帯刀吉深は、焼死するかも知れない罪人に「必ず戻ってくるように」と伝えたうえで一時的に釈放しましたが、その後、約束通り全員が戻ってきたと言います。
この緊急時の「切り放ち」は、以後、火災発生時に制度化されました。

明暦の大火により、江戸の水戸藩邸(小石川邸)も全焼し、徳川光圀と正室・泰は、駒込の別邸で、焼け残った屋舎に仮住まいしています。
火災で、多くの書籍や記録が失われたことを案じてか、徳川光圀は、駒込の別邸にある茶室に、史局を設置し、林羅山の門下で水戸藩に仕えていた人見卜幽、辻端亭に命じて、歴史書「大日本史」の編纂作業を開始しました。
この大日本史の完成は、約250年後の1906年(明治39年)であり、長期間、水戸藩の財政を圧迫する要因にもなっています。
しかし、水戸学 = 尊皇で貫かれており、幕末の思想に大きな影響を与えたのも事実です。

しかし、8月頃から、泰姫は体調を崩し、翌年10月からは赤痢となって、1587年閏12月23日、泰姫は死去。享年21。
徳川光圀は、以後、正室をとっていません。

小説・剣樹抄(けんじゅしょう)の物語としては、泰姫が、徳川光国の身を案じて、剣豪の柳生義仙に加勢を求めています。

柳生義仙

柳生義仙(やぎゅう ぎせん)は、大和・柳生藩主・柳生宗矩の子で、柳生家の菩提寺・芳徳寺の僧侶(住職)・列堂義仙となっていました。

沢庵宗彭の開山である芳徳寺(ほうとくじ)は、徳川家光から、200石と言う、寺領を与えられています。
ただし、列堂義仙は、自由気ままな行き方をしたようで、長く柳生から出奔しており、芳徳寺を留守にしていたようです。
そのため、剣樹抄では、柳生義仙が江戸にいて、泰姫が助けを求めたと言うストーリーになっていると推測できます。

中山勘解由直守

中山直守(なかやま なおもり) は、1633年に中山直定の嫡男として生まれました。
3000石の大身旗本で、晩年には4000石となっています。
家系としては、中山照守 – 中山直定 – 中山直守となります。
水戸藩主の後継として徳川光圀を将軍・徳川家光に推挙したと伝わる、水戸藩附家老・中山信吉は、甥に当たります。

1683年から、中山勘解由直守は、火付盗賊改(盗賊を逮捕する役目)になっており「鬼勘解由」と恐れられたと言います。
1684年には大目付(謀反対策・取締)となり、1686年には、悪さを働く大小神祇組(旗本奴)を取り締まったことでも有名です。

旗本奴とは

旗本奴(はたもとやっこ)は、江戸時代の初期に存在した集団の総称です。
派手な異装を着て徒党を組み、無頼をはたらいていた集団のことで、現代では、不良集団、半グレ集団に近い存在であったと言えます。
旗本に奉公する者が多かったことから、旗本奴と呼ばれましたが、旗本の若者が、下級の武家奉公人を集めて徒党を組んでいたようです。
町人主体の集団は、町奴と呼ばれました。
中山勘解由(中山直守)が、火付改加役(火付盗賊改)に就任すると、取り締まりが強化されました。

武士階級は概ね切腹など、刑罰も重かったため、一掃されたあと、大規模な集団は、出なくなっています。

以上、水戸光圀に関して、明暦の大火までの歴史をご紹介してみました。

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