宝蔵院胤栄の解説~戦国時代・宝蔵院流槍術の開祖たちと宝蔵院胤舜も

戦国時代に誕生した槍術・宝蔵院流槍術。
この槍術は、宮本武蔵が漫画作品や映像作品で使い手と戦っている描写がありますので、ご存じの方もいるかと思います。
これを生み出したのは、武将ではなく興福寺の僧兵・宝蔵院胤栄(いんえい)。

宝蔵院胤栄

そして、弟子の宝蔵院胤舜(いんしゅん)が宝蔵院流槍術を大成させました。
今回は、宝蔵院流槍術を完成に導いた胤栄と胤舜を合わせてご紹介します。

六法衆として

胤栄は大永元年(1521)に中御門胤永の子として生まれます。胤栄のいる中御門家は、代々足利将軍家に仕えた僧兵。
そんな武門に秀でた家の出の胤栄も武芸に励み、薙刀や素槍を用いました。また、武装警察権を持つ六法衆に所属していました。

宝蔵院流槍術の創設

六法衆として研鑽を積んでいる中、胤栄は興福寺にある猿沢池に浮かぶ三日月が自身の槍と重なったことで、鎌槍と呼ばれる十文字槍を発明します。





天文22年(1553)、槍の使い手・成田盛忠と立ち会った際、槍術を教えてもらったことで宝蔵院流槍術を生み出しました。ちなみに、胤栄が興福寺子院の宝蔵院の院主だったことから宝蔵院流槍術と命名されたと考えられています。

胤栄は大法師となった後も武芸に対する関心が薄れず、柳生新陰流の流祖となる柳生宗厳と交流をしていました。
そんな折、北畠具教の紹介もあり永禄6年(1563)に、上泉信綱から宗厳と新陰流を学びます。
そして、宝蔵院流高田派を興した高田吉次や宝蔵院流中村派を興した中村尚政といった弟子の育成に注力を注ぎました。

宝蔵院流槍術の衰退

しかし、晩年になると僧侶が殺しを教えることに矛盾を覚え、隠居。胤栄が僧侶としての活動を主にしたことで、宝蔵院流槍術は衰退しました。
その状態のまま、慶長12年(1607)に87歳の大往生を迎えました。

胤舜により、宝蔵院流槍術の再興

胤栄の後を継いだ胤舜は、禁止とされていた槍の稽古を解禁します。ただ、胤栄たちの弟子が興した分派は、胤栄が隠居する前に教えを受けていたため、存続していました。
胤舜は研鑽の結果、神仏に達すほどの技量を得えた後、ついに宝蔵院流槍術を再興。大成まで導きました。

宝蔵院流槍術について

宝蔵院流槍術は、鎌槍を用いた槍術です。「突けば槍、薙げば薙刀、引けば鎌」といわれ、鎌槍を用いた攻防一体の戦闘ができることが特徴。





その万能さから、笹の才蔵といわれた猛将・可児才蔵も教えを願いました。また、幕末で活躍した山県有朋は、宝蔵院流槍術の達人といわれています。
ただ、現在は形がほとんど失われ、辛うじて宝蔵院流高田派の一部が伝えられている程度となっています。

寄稿(拾丸)

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