西郷局(於愛の方)をわかりやすく解説~苦悩の日々を送った徳川家康の側室

西郷局(於愛の方)とは

西郷局(さいごうのつぼね) は戦国時代の女性で1552年に、掛川・掛川・戸塚を領していた戸塚忠春の娘として生まれた。初名は丁子とも。
<注釈> この戸塚氏は横地氏・勝間田氏の分家と考えられる。
母は五本松城主である西郷正勝の娘・於さい。
西郷局の通称は於愛の方(お愛の方)と言う。

2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」では於愛の方(西郷局)を俳優(女優)の広瀬アリスさんが演じられる。

諸説あるがお愛の方が生まれた2年後の1554年、父・戸塚五郎太夫忠春は大森の戦いにて討死したとある。
<注釈> 遠江に大森と言う地名がないため、駿河・大森氏との戦いと推測される。
そのため、母は伊賀の忍・服部正尚(服部平太夫正尚)と再婚し、於愛(西郷局)は服部氏の養育を受けたようだ。
<注釈> 伊賀の服部正尚は、本能寺の変のあと徳川家康が伊賀越えをした際に、自分の蓑や笠で変装させ無事に通過させたと言う逸話もある。(蓑笠之助)
やがて成長した於愛は、外祖父・西郷正勝の孫である西郷義勝の継室とになって二児をもうけたとさける。
<注釈> その前に1度、別の武将に嫁いだが先立たれて寡婦(かふ)になっていたともされる。
しかし、1571年3月4日、武田勢の秋山虎繁秋山信友)が三河へ侵攻すると親戚の菅沼定盈から要請を受けて出陣した夫の西郷義勝が、長篠の竹広の戦い(竹広表の戦い)にて討死。
産んでいた子供は幼すぎて家督を継げなかったようで、のちに伯父・西郷清員(西郷正勝の子)のもとで約7年過ごしたようだ。

駿河・田中城攻めの帰りに、掛川の西郷屋敷(一説には掛塚(静岡県磐田市掛塚)の鋸鍛冶屋・服部正尚の家)に徳川家康が寄った。
この時、27歳くらいであった於愛の方(お愛の方)の美貌や聡明さが浜松城主・徳川家康の目に留まったと言う。

1578年春、西郷清員の養女になると徳川家康の側室となり、西郷の局と呼ばれるようになった。
西郷局の「西郷」は、東三河・西郷氏の出身の意とも、掛川市西郷地区出身の意ともされる。

1579年4月、徳川家2代将軍となる徳川秀忠を出産。
1580年9月にはのち尾張藩主となる松平忠吉を産んだ。

西郷局(於愛の方)は、読書家であり極度の近眼であったともされ、徳川家康は昧見姫(くらみひめ)と呼んで可愛がっていたとされる。
近視になると言っても、当然テレビなどない時代である。
目の病気でなければ、明かりが暗い中、夜遅くまで本を読んでいたので、近視になってしまったのか?と感じる。
徳川家康は、知識ある女性を好む側面もあるため、本から得た知識も豊富だったのかも知れない。
仙台の学校では伊達政宗を勉強するように、静岡では西郷局を学ぶことが多いらしく、今でも愛されている女性だ。

徳川家康が駿府城に入った際には西郷の局も、もちろん従ったようだ。
しかし世の中の激動は激しく、武田勝頼を滅ぼし本能寺の変を経て織田信長が横死すると豊臣秀吉が台頭。
豊臣秀吉は小牧・長久手の戦いで徳川家康に敗北したことから、1586年には豊臣秀吉の妹・朝日姫が徳川家康の正室として送り込まれた。

1589年5月19日、西郷局は浜松城にて病死。享年38。
<注釈> 築山殿に仕えていた侍女が暗殺・毒殺したとする説もある。

墓所は駿府(静岡市)の竜泉寺(宝台院)で、三百石の寺領を与えらている。

西郷局は、幼いころから苦労もしたようだが、1584年には小牧・長久手の戦いもあったため、何度もある合戦に苦悩する日々を送ったことだったろう。
そして、次期将軍となる徳川家康の次男の成長を見届けることなく若くして亡くなった。
幸せな日々は多くなかったかもしれないが、江戸時代の1628年、孫の徳川家光は西郷局に正一位を贈り、精一杯報いたようだ。

ちなみに、養父・西郷清員の弟や従兄弟などは徳川御三家や井伊氏、戸田・松平家、会津松平家などで重臣となった。
幕末に会津藩の筆頭家老・西郷頼母を輩出している。

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