西郡の局「お葉」をわかりやすく解説【どうする家康】徳川家康最初の側室とされる女性の運命

西郡の局「お葉」とは

西郡の局 (にしのこおりのつぼね) は戦国時代の女性で、鵜殿長持の娘?(諸説あり)として1548年に生まれた。
別名は西郡の方、蓮葉院、西郡局とも書く。
母は今川義元の妹とも考えられるが諸説あり不詳。
鵜殿長持の娘とした場合には兄弟に鵜殿長照、1550年頃誕生とれさる妹・お田鶴の方(椿姫)がいる。
2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」では「お葉」と言う名前で登場する予定で、演じられる女優さん(俳優さん)は北香那さんとなる。





父・鵜殿長持は三河・上ノ郷城(西郡城)主で、今川義元に従っていたが1558年に死去し、兄・鵜殿長照が家督を継いでいる。
1560年、桶狭間の戦いの際には、鵜殿長照が守備した大高城に松平元康が兵糧を輸送している。
しかし、織田信長が今川義元を討取ると、松平元康は三河・岡崎城に復帰して今川家から離反。
兄・鵜殿長照は引き続き今川勢となったため、1562年、松平元康は三河統一に向けて松平清善らと上ノ郷城(西郡城)を攻撃。
松平勢は甲賀衆を使って火を放ち鵜殿長照は討死。
鵜殿長照の子・鵜殿氏長鵜殿氏次は捕らえられた。
のち、駿河にて今川氏真の人質となっていた徳川家康の正室・瀬名姫(築山殿)、嫡男・松平信康、長女・亀姫らとの人質交換で、鵜殿氏長と鵜殿氏次は駿河に送られている。





西郡局は兄弟である鵜殿長忠の養女となって、松平元康の元に送られたと言うので人質的な側室になったと言う事だろう。
徳川家康が最も古く側室にしたのが西郡の局だ。
「どうする家康」では創作の時代劇ドラマとして、お葉ははじめ下女として岡崎城で働いていたが、瀬名や於大の方などに見込まれて側室になると言うストーリー展開となる。

1565年、徳川家康にとっての次女・督姫(おふう)を産んだ。
この督姫(とくひめ) はのちに武田勝頼滅亡後に、徳川家と北条家が和睦した際、北条氏直の正室として小田原城に入っている。
北条氏滅亡後、督姫は池田輝政に再嫁した。

なお、西郡の局は焼失していた三河・長應寺(ちょうおうじ)を鵜殿一族の日翁に再建させている。
督姫を産んだあとの西郡の局は側室を続けていたと考えられるが、その後、子もなく逸話も伝わっていないため、このくらいしか情報をお伝えできない。
子を設けたため、立派に側室の立場ではあったが、徳川家康とは少し距離を置いていた可能性もあるだろう。

1568年、妹・お田鶴の方(椿姫)は女武将として曳馬城を守備し、徳川家康の攻撃を受けて討死している。

徳川家康が江戸幕府を開いたあとの1606年、西郡局は伏見城にて死去。享年59。
徳川家康の命により娘婿・池田輝政が葬式を執り行った。





墓所は京都・本禅寺の塔頭・心城院。(非公開)
法名は蓮葉院日浄。
他の墓所は、池田輝澄(池田輝政の4男)が造営した兵庫県宍粟市山崎町の青蓮寺と、静岡県湖西市鷲津の本興寺、東京都品川区小山の長應寺にもあるようだ。





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