五徳(徳姫)の生涯を3分でわかりやすく解説【どうする家康】築山殿・松平元康と不和だったのか?

五徳(徳姫)とは

五徳 (ごとく) は戦国時代の女性で織田信長の長女として1559年に生まれた。
徳姫 (とくひめ) と呼ばれることが多い。
母は側室・生駒吉乃とされる。
2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」では俳優(女優)の久保史緒里さんが五徳の役で出演される。

幼いうちから徳川家康の長男・松平信康(徳川信康)との婚約が決まり、1567年、五徳が9歳前後の頃に嫁いで三河・岡崎城に入り岡崎殿と呼ばれている。
松平信康(徳川信康)も同い年となる。
徳川家康は三河・岡崎城を松平信康に与え、自らは浜松城を本拠とした。





五徳(徳姫)は天正4年(1576年)に登久姫、天正5年(1577年)に熊姫を生んでいる。
なお、松平信康(徳川信康)の母・築山殿(瀬名姫)は岡崎にいたようなので、五徳(徳姫)と嫁姑のいささかいなどが時代劇(ドラマなど)では度々描かれる。
創作では必ずどちらかが悪く描かれる訳だが、これは脚本家しだいといったところだ。
実際に執筆しているこの私の文章次第でも、五徳(徳姫)がいじめられていたのか?、築山殿(瀬名姫)が不憫だったのか?、誰が悪者になるのかは記載のしかた次第で印象が変わってしまう。
今回は、できる限りわかっていることを客観的に淡々と記述してみたい。

徳川家康の正室・築山殿(瀬名姫)は今川家の重臣の出であり、母は今川義元の妹ともされる。
そのため、桶狭間の戦いにて今川義元を討取った織田信長を快く思っていなかった可能性は高い。
そんな織田信長の長女・五徳(徳姫)が自分の子・松平元康の正室になった訳だ。

五徳(徳姫)は織田家と徳川家の強い絆となるため幼いうちから政略結婚として岡崎に嫁いだ。
瀬名が五徳(徳姫)をそんなに嫌っていなくても、瀬名の侍女らも多くは今川家の時代から共に行動していたと考えられるため、総合的に五徳(徳姫)が嫌われたのかも?知れない。
逆に五徳つきで織田家から派遣された侍女らも、五徳を守ろうとしたのは言うまでもないため、瀬名派・五徳派の争いは少なからずあったとみて良いだろう。
となると、この結婚はそもそも無理があったのかもと感じる。

岡崎城

五徳の夫・松平信康は、武田の旧家臣である浅原昌時の娘、日向時昌の娘など、部屋で侍女として働いていた女性を側室にしたともされる。
また、松平信康は徳姫(五徳)の侍女・小侍従を惨殺したとと言う史料もある。

更には松平信康と五徳(徳姫)も仲が悪くなったともされ、松平家忠の日記では、徳川家康が松平信康と徳姫の不仲を仲裁するために浜松城から岡崎に来たとも記載されているようだ。
また織田信長も岡崎に来たとあるのだが、これは何の用があって来たのかは定かではない。





天正7年(1579年)に五徳(徳姫)は、築山殿と松平信康の罪を訴える「十二ヶ条の訴状」を父・織田信長に送った。
徳姫は、築山殿と夫・松平信康が武田氏に内通したといい、築山殿と唐人医師・減敬との密通があった、夫の日常の不行跡を父・織田信長に訴えたとされる。(のちの創作の可能性もある)
<注釈> 大河ドラマどうする家康では、武田筆頭重臣である穴山信君が、唐人医師・減敬に変装していたので想像力が豊かだ。

この謀反の疑いに、徳川家からは酒井忠次安土城に赴いて説明したが、織田信長は松平信康と築山殿の殺害を命じたとされる。

築山殿は1579年8月29日に小藪村で殺害された。
松平信康は9月15日に、二俣城にて切腹。(信康切腹事件)

その後、半年ばかり五徳(徳姫)は岡崎城にいたようだが、天正8年(1580年)2月20日、徳川家康に見送られて安土城に返された。
登久姫と熊姫は徳川家に残っている。
夫が亡くなったものの五徳(徳姫)は出家はしなかったようで再婚もしなかった。

五徳(徳姫)は近江・長命寺に化粧料を与えられて近江八幡付近に住んだとされる。

天正10年(1582年)明智光秀による本能寺の変になると、次兄・織田信雄が保護した。
しかし、1584年、小牧・長久手の戦で織田信雄が敗れると、羽柴秀吉(豊臣秀吉)への人質として五徳(徳姫)は京に送られた。

登久姫は天正17年(1589年)8月に、豊臣秀吉が仲介して信濃・松本城主の小笠原秀政に嫁いでいる。
また妹・国姫は本多忠勝の嫡男・本多忠政に嫁いだ。

1590年、小田原攻めのあと尾張の織田信雄が改易(所領没収)となり、福島正則清洲城主となった。
徳姫に仕えていた埴原常安(埴原加賀守常安)が徳姫や侍女・お亀とおちゃあを今後どうすればよいか?、豊臣秀吉の正室・高台院(ねね)の側近である孝蔵主を通じて豊臣秀吉の意向を聞いたようだ。
そのため、徳姫らは清洲を出て亡き母の実家である尾張・小折城(生駒屋敷)の生駒家を頼るように命が下された模様。
しかし、時期は不明だが小折を離れ京都に住んだ。

1600年、関ヶ原の戦いのあと、尾張・清洲城主となった松平忠吉(徳川家康の4男)が、五徳(徳姫)に知多郡内にて1761石の所領を与えている。
その後は京都に隠棲したが、亡き松平信康の正室として兄弟から大事に処遇されていたと推測できる。
所領は生駒利豊(徳姫の従姉弟)が代官となって管理した。

寛永13年(1636年)正月10日、五徳(徳姫)は死去。77歳。
戒名は見星院香岩寿桂大姉。
墓所は大徳寺・総見院。





江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜は女系で徳姫の子孫にあたる。

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