本多忠勝とは【どうする家康】古今無双の勇士~わかりやすく2分で要点解説

本多忠勝とは

本多忠勝 (ほんだ-ただかつ)は戦国時代の武将で、西蔵前城主・本多忠高の子として1548年に生まれた。
母は植村氏義の娘・小夜。

1549年3月、松平広忠(徳川家康の父)が三河・岡崎城にて暗殺され、今川勢の太原雪斎安祥城を攻めた。
このとき父・本多忠高は大久保忠俊ら松平氏として今川勢に加勢して安祥城を攻撃するも討死している。
まだ生まれたばかりの本多忠勝(本多鍋之助)は、欠城主で叔父である本多忠真(父の弟)のもとで育った。
徳川家康より5歳ほど年下になるのが本多忠勝だ。

2023年NHKの大河ドラマ「どうする家康」(主演:松本潤さん)では俳優の山田裕貴さんが本多忠勝の役として演じられる。

本多忠勝

永禄3年(1560年)13歳になって元服した本多忠勝は叔父・本多忠真と共に、徳川家康(松平元康)に従い大高城への兵糧入れにも加わった。
これが本多忠勝の初陣とされ、そのあと桶狭間の戦いとなり今川義元が討死。
徳川家康(松平元康)が三河・岡崎城に復帰すると、三河一向一揆の際には一向宗(浄土真宗)から浄土宗に改宗して松平家を裏切っていない。
こうして、本多忠勝は蜻蛉切(とんぼきり)と言う槍の使い手で勇猛果敢な武将として徳川家の合戦にて活躍して行った。
酒井忠次榊原康政井伊直政と並んで徳川四天王、そのほか徳川十六神将・徳川三傑と言う立場を確立している。

1569年、阿知和玄鉄の娘・於久の方(おひさのかた)と結婚。
1575年、嫡子・本多忠政が誕生している。(母は阿知和玄鉄の娘・見星院)

1572年12月、武田信玄との三方ヶ原の戦いで、殿(しんがり)務めた叔父・本多忠真が討死。
本多忠勝は山県昌景らを撃退している。

本多忠勝の側室・松平玄鉄の娘・乙女の方(おとめのかた) が、1573年に小松姫(稲姫)を産んでいる。

1582年、明智光秀による本能寺の変の際には井伊直政らと徳川家康に従い堺を見物しており、岡崎城への帰城を勧めて神君伊賀越えにも同行。

1584年、小牧・長久手の戦いではその戦いぶりを豊臣秀吉織田信雄からも「東国一の勇士」と称えられている。

本多忠勝の娘・小松殿は、真田信之(真田昌幸の嫡男)に嫁いだ。

1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際には、平岩親吉らと津久井城などの攻撃に参加。
徳川家康が江戸城に入ると、10万石となり万喜城、そして大多喜城に入った。

1600年、関ケ原の戦では、子の本多忠政が本多勢の本隊を率いて徳川秀忠に従い、真田昌幸と真田幸村が守る信濃・上田城の戦いに加わっている。
本多忠勝は約400を率いて東海道から進軍した東軍の軍目付として、井伊直政らと徳川家康の本陣に加わった。
また、僅かな手勢ながらも関ヶ原の本戦でも奮戦し、1601年、伊勢・桑名城10万石として移ると、大多喜城は5万石で次男・本多忠朝に与えられた。

江戸幕府においては本多正純などの官僚が重宝されたため、武勇ある本多忠勝が活躍する場はないまま1609年に隠居。
家督は本多忠政が継いだ。
そして、1610年、本多忠勝は桑名で死去。享年63。
家臣の中根忠実と梶勝忠が殉死している。

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