神余親綱・千坂景親~強豪・越後上杉氏・上杉謙信の名外交官たち

 戦国最強と謳われた上杉謙信(旧名:長尾景虎 1530~1578)は、天才的な戦才に匹敵するほどの持ち前の商才を活かし、支配した越後国(現:新潟県)の特産物の青苧の販売権、国内に有する直江津/柏崎などの良港(船道前=関税の徴収権)を把握することにより、莫大な財力を手に入れていました。
 上杉謙信在世当時の越後国(新潟県)が、現在と違って湿地や潟(沼地)に覆われ、農業生産力が高くなかったにも関わらず、謙信率いる越後上杉氏が、その勇名を天下に轟かせた一番の要因は、当時貴重な繊維原料であった越後特産の「青苧(あおそ、別名:カラムシ)」の販売権を握り、京都や近江(滋賀県)などの畿内商人に青苧を売った多大な利益を得ていたからであります。

神余親綱・千坂景親

 その経済力を元手に、謙信は川中島の戦いや関東出兵などを大遠征を数回に渡り敢行すると同時に、上杉氏の越後支配をより確固たるものにするべく当時の中央政権であった朝廷・室町幕府から大義名分(越後守護職)を得るために必要な多額の外交工作費をも捻出していました。
 越後上杉氏の京都での青苧販売活動、それに関連する公家や商人との交渉を、上杉謙信の信任厚い越後青苧座の豪商・蔵田五郎左衛門が受け持っていたことは、以前の記事で紹介させて頂きましたが、今回は上杉氏の主財源である青苧販売の商業活動のことはメインではなく、謙信にとって合戦と共に重要であった「京都外交を担った外交官武将」を紹介致します。

上杉謙信と言えば天才戦術家として高名である上、彼が従える越後の将兵も天下無敵として戦国期の常識として有名であり、中でも柿崎景家(和泉守)・色部勝長(修理亮)などは川中島の戦いなど謙信の主要合戦で大きな戦功を挙げた百戦錬磨の猛将として無敵・越後上杉氏の「武」を中核を成していましたが、同氏の外政である京都外交を司っていたのが神余親綱(かなまりちかつな 隼人正、1526?~1580)』という人物でありました。
 因みに、上杉謙信を含め有力戦国大名は、各自勢力の京都外交を担う有能な外交官武将を持っていました。即ち織田信長は、畿内を制圧した後、村井貞勝や松井友閑、そしてNHK大河ドラマの主役として更なる脚光を浴びた明智光秀も織田氏の京都外交を担った外交官(京都奉行)であり、後の天下人・徳川家康は、僧籍上がりで教養豊かな板倉勝重・板倉重宗父子といった武将官僚を「京都所司代」として都に常駐させ朝廷外交を担当させました。板倉父子は後世(大岡越前が登場する以前)まで、「名奉行」称せられるほど治世方面で活躍しております。

 
 本記事の主人公の1人である上杉謙信に仕えた神余親綱も、織田氏の明智光秀や徳川氏の板倉勝重ほど知名度は高くありませんが、上杉氏の京都外交を担う名官僚であり、謙信を外交面で支えた立派な武将官僚であります。
 筆者が神余親綱という人物名を確か知ったのは、コーエーテクモゲームスさんの定番ゲーム『信長の野望・嵐世記』の中で、親綱が諸勢力の一員である越後国人衆として登場していたのが初めてだったと思います。ゲーム内では戦闘を専門とする国人衆として神余親綱は登場していましたが、史実上の彼の主な活躍の場は、繰り返しますが当時日本国の首都であった京都外交でした。 

 『神余(かなまり/かなまる)』というとても珍しい名前の氏族は、元来、安房国館山(現:千葉県館山市神余)を出自とした国人衆でありました。後に越後へ移り、上杉謙信の実家である守護代・長尾(上杉)氏へ旗本衆として仕えることになったと言われ、神余親綱の祖父・神余昌綱の代から長尾氏の京都外交を担当する「京都雑掌」として活躍し、親綱の父・神余実綱も昌綱と同じく長尾氏の京都外交を担当。
 恐らく謙信の実父・長尾為景が朝廷より下賜された「紺地日の丸旗」の一連の朝廷工作で外交官の一員として活躍したのは神余実綱であったと思われます。上杉謙信や武田信玄関連の時代劇で、上杉軍で見かける謙信本隊のシンボルである「刀八毘沙門天(毘)」「懸り乱れ龍(龍)」の2つ軍旗と共に並び立つ、「紺地日の丸旗」は神余氏の京都外交によって越後上杉氏が朝廷より獲得した由緒ある旗なのであります。
 神余親綱は、1526年頃に実綱の長男として誕生したと伝えられていますので、主君・謙信(1530年誕生)より4つ年上になりますが、その親綱も父祖の職務を受け継ぎ、朝廷・公家・足利将軍家など中央政権との外交折衝を行い、上杉謙信(当時は長尾景虎)が5千の軍勢を率いて初めて上洛した際(1553年)には、謙信の後奈良天皇(第105代天皇)への謁見を実現させることに尽力、実現させています。この時、上杉謙信が後奈良帝より御剣・天盃を下賜された上、「謙信の敵は朝廷の敵とせよ」という大義名分(治罰の詔)も得て、謙信の越後支配権がより強化されました。
 また神余親綱の活躍は、朝廷幕府などの権力者との折衝のみに留まらず、長尾氏の本拠・越後国の特産・青苧の専売権を代々有する公家・三条西家との折衝にも活躍し、上杉氏の御用商人であった蔵田五郎左衛門と共に青苧販売管理を担う奉行職をも担当。青苧販売から得られる莫大な利益は、上杉氏の数多の遠征および京都外交活動の資金源となったことは先述の通りでございます。
 上記のように、上杉の財政面では越後の豪商・蔵田五郎左衛門が支え、そして神余親綱をはじめとする神余一族は、謙信直属の旗本衆で京都に在し、主君・謙信の代理として中央政権・有力商人たちとの折衝を行う外交官であり、上方(畿内)の情勢などを逐一越後へ報告する諜報役といった裏方として活躍したので、先述の柿崎景家や色部勝長といった現場(合戦場)で活躍した武将とは違い敵勢を相手に戦うということは無かったので、現在でもあまり知られていない武将であります。
 しかし、神余親綱や蔵田五郎左衛門のように陰ながらも中央政権の諸勢力と折衝し、青苧の販売利益の確保などに従事する官僚、所謂、「縁の下の力持ち」のような存在がいなければ、謙信をはじめとする無敵の上杉軍団は身動きがとれなかったことは事実であります。
 戦国史研究の泰斗である小田和哲夫先生(静岡大学名誉教授)は、歴者番組『英雄たちの選択(NNKBSプレミアム)』の謙信について取り扱った回でご出演された際、親綱の京都での活躍ぶりに先生の私見にて『(神余親綱は)越後株式会社 京都出張所長』と評されていましたが、正に至言ではないでしょうか。

神余氏亡き後の上杉氏(米沢藩)の京都外交官・千坂景親
 
 京都で活躍し、中央政権から越後支配や遠征の大義名分を獲得を成功に導き、青苧の利権の獲得に奔走した神余親綱に対する謙信の信任は勿論厚く、親綱は1577年9月、親綱と同じく外交官僚として活躍していた上杉氏重臣で越後三条城主であった山吉豊守の急死に伴い、同城主となります。
 翌1578年3月、上杉謙信が急死。謙信の養子たち、「上杉景虎」と「上杉景勝」との間でおこった上杉氏のお家騒動「御館の乱」が勃発。これにより、北陸・北関東で強大な勢力を誇っていた上杉氏は著しく衰退し、当時戦国の覇者となっていた織田信長の攻勢に窮地に立たされることになるのは周知の通りでありますが、この越後大内乱で神余親綱は景虎方に与し景勝方と戦いますが、景虎方は敗北。1580年、神余親綱も三条城で家臣の裏切りに遭い、最期を遂げ、神余氏は滅亡します。
 上杉景虎に勝利し、謙信の後継者となった上杉景勝は、織田信長の大攻勢の前に滅亡寸前まで追い込まれますが、1582年、本能寺の変で信長が横死したことにより、上杉氏は間一髪で滅亡から免れました。この数年後には越後上杉氏は、信長の後継者として天下人となった羽柴秀吉(豊臣秀吉)に臣従し、豊臣政権下の有力大名として生き残りました。

 豊臣氏も大坂・京都を本拠していた以上、上杉氏は謙信の代から変わらず、神余親綱のような有能な京都外交官を置く必要性がありました。しかし、長年、上杉氏の京都外交の窓口の重責を担ってきた神余親綱および神余氏一族は既に亡かったので、その役を担ったのが『千坂景親(1536~1606)、対馬守』という先代・上杉謙信以来の重臣旗本でした。
 今記事のもう1人の主人公である千坂景親という人物も、(神余親綱と同様に)世間一般では、あまり知られていない武将でありますが、上杉氏の京都外交官(後の伏見留守居役)として活躍。1586年、主君・上杉景勝が宰相・直江兼続を伴って上洛し、秀吉に謁見した際、景親は、兼続と共に茶聖・千利休の手前の茶を頂戴するという栄誉を賜っています。
 千坂景親も豊臣傘下の諸大名との折衝や情報収集でも活動し、特に当時、豊臣政権下の最有力大名であった徳川家康の参謀・本多正信と深く交流していたと言われております。
 1600年に、千坂景親の主君・上杉景勝と直江兼続が、関ヶ原合戦で西軍に加担し、徳川家康率いる東軍に敗北した危急の時に、景親は本多正信を通じて徳川氏との間で外交折衝を行い、上杉氏(後の米沢藩)の存続に尽力したと言われています。因みに創作の世界では、関ヶ原合戦直後に、直江兼続が徳川との調停役に奔走した設定になっている場合がありますが、兼続は寧ろ徳川敵対姿勢を最後まで崩さなかった急先鋒(タカ派)であり、当初兼続は、徳川との和睦を望んでいなかったのであります。
 
 関ヶ原合戦後、天下をほぼ手中に収めた徳川氏は1603年、江戸に幕府を開き、政治の中心は関東江戸に遷り始めました。上杉氏(米沢藩)は桜田門外に屋敷(通称:鱗屋敷)を与えられ、その総括者である初代・米沢藩江戸家老に就任したのが、かつて京都外交として活躍し、諸大名および徳川氏と親交が深く、人脈が広かった千坂景親であります。米沢藩初代藩主となった上杉景勝は、正に適材適所の人選をしたと言うべきであります。
 千坂景親は、米沢藩初代江戸家老として江戸幕府や諸大名の外交窓口として活躍、米沢藩を存続に外から尽力します。直江兼続が持ち前の能吏の才を活かし、米沢藩領内で行った財政改革で米沢藩立て直しを行ったことはよく知られていますが、新しく中央政府となった江戸幕府と折衝役として上杉氏を外交面から支えたのが景親でありました。初期の米沢藩の内政は直江兼続、外政は千坂景親という2つの車輪が上手く稼働して運営されていたのであります。
 千坂景親は1606年、71歳で他界しますが、景親の陰なる外交の大功績は米沢藩内で大きく評価され、千坂氏の子孫は代々米沢藩の重臣として存続してゆくことになります。千坂景親の子孫として有名なのが、講談「忠臣蔵(赤穂事件)」で上杉氏(米沢藩)の家老、即ち主人公・大石内蔵助の敵方の1人、として登場する「千坂兵部(諱:高房、景親の玄孫)」や、江戸幕末には米沢藩の統率者、明治期に大久保利通の懐刀として政界で活躍した内務大書記官(石川県令、初代岡山県知事、貴族院議員なども歴任)の「千坂高雅」がいます。
 米沢藩という非薩長閥にして、明治新政府軍に最後まで抵抗した出身者である千坂高雅でしたが、県令や県知事などを明治新政府の要職を歴任した高雅の経歴を見ただけでも、並外れた器量を持っていたことがわかるのですが、更に自他共に厳格な大政治家で有名であった大久保利通が、高雅を内務省の庶務を司る内務大書記官として抜擢したことが、高雅の器量が本物であったことの何よりの証拠であります。
 千坂高雅も直属上司である内務卿・大久保利通を尊敬していたのですが、その大久保が1878年5月14日、東京紀尾井坂にて石川県出身の不平士族の襲撃を受け横死。事件発生以前から高雅は、警視庁の長・川路利良(旧・薩摩藩士)に「内務卿の護衛を増やせ」と要請していたにも関わらず、それを川路は黙殺し、結果、大久保は暗殺。尊敬する大久保利通が暗殺された千坂高雅は、川路利良に対し激怒し、「川路が大久保卿を殺したようなものである」と川路を罵倒したと言われています。

 以上の明治期に活躍した政治家・千坂高雅については、高雅のご先祖である千坂景親から出た長過ぎる余談でありましたが、兎に角にも、今記事の2人の主人公である『神余親綱』『千坂景親』という名将・上杉謙信および上杉景勝に仕え、表舞台(合戦場)で活躍することなく、『外交・斡旋=下準備/根回し』という縁の下の力持ちで、最強軍団である上杉氏を支えた名外交官が、戦国期にも存在したということを、皆様に知ってもらいたくて今記事を書かせて頂いた次第でございます。

(寄稿)鶏肋太郎

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