本多正信をわかりやすく1分で要点解説【どうする家康】徳川家の知恵袋・参謀

本多正信とは

本多正信 (ほんだ まさのぶ) は戦国時代の武将で1538年に三河で生まれた。
父は本多俊正、母は松平清康に仕えていた侍女?とされる。

父の本多俊正(ほんだ としまさ)は松平家重臣で三河・上野城主である酒井忠尚(松平家筆頭家老)の家来。
本多氏は三河・小川城にいたとも考えられる。
松平元康が初陣した際に同行した酒井忠尚に従い、本多俊正・大須賀康高・榊原長政(榊原康政の父)らも付き従ったようだ。
本多正信(本多弥八郎)も1560年、桶狭間の戦いの際に、丸根砦を攻撃した松平元康に従っていたが、膝に傷を負い、以来足を引きずるようになったともされる。

2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」では俳優の松山ケンイチさんが本多正信の役を演じられる。





徳川家康が三河・岡崎城に入り1563年、三河一向一揆となると、父・本多俊正と本多正信、弟・本多正重は徳川家康と敵対した。
主君である酒井忠尚が徳川家康(松平元康)に対抗したと言う事と、三河一向一揆の本拠ともされる本證寺の近くに住んでいたこと、三河武士の多くは本證寺から借金していたことなどが、一向一揆側に協力した理由と推測できる。

徳川勢が一向一揆を鎮圧すると、本多正信は京に逃亡して松永久秀を頼ったあと加賀に移ったようだ。
弟・本多正重は徳川家に臣従。
父・本多俊正は周鎭と名を変えて、松平元康(徳川家康)の鷹匠になったと言う。

なお、本多正信の妻(名前不詳)と、1565年に生まれた嫡男・本多正純は三河に残っており、大久保忠世が世話していたようだ。

父が亡くなった頃?(1571年前後)に、大久保忠世の仲介にて本多正信は徳川家の家臣として帰参。
初めは父の跡を継いで「鷹匠」として仕えたとされる。(帰参時期など諸説あり)

1575年、武田勝頼との長篠の戦いのあと、弟・本多正重が徳川家を出奔。(1596年に復帰)

1580年、次男・本多政重が誕生。

しばらく本多正信は苦労したようだが、天正10年(1582年)頃には、徳川家康から信頼されており、側近として主に「参謀」的に戦略面で能力を発揮して行った。
本能寺の変の際には、堺にも同行しており神君伊賀越えにも加わっていたとされる。

天正壬午の乱のあと、本多正信は旧武田家臣を徳川家に取り組む奉行として甲斐・信濃を事実上統治した。

こうして本多正信は常に徳川家康の近くにて「方策」を思案・助言する役割を果たすようになった。
天正14年(1586年)、徳川家康が豊臣秀吉に臣従すると、本多正信は従五位下・佐渡守となっている。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田攻めのあと徳川家康が江戸城に移ると、本多正信は1万石にて相模・玉縄城を与えられている。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの際には、信濃・上田城を攻撃した徳川秀忠の軍勢に従っていた。
本多正信は西に急ぐよう徳川秀忠に進言したが受け入れられず、中山道を進んで徳川勢は遅参した。

1605年頃から、2万2000石とになった本多正信と嫡男・本多正純は徳川秀忠の側近となり、徳川家康(大御所)の意を受け徳川秀忠を指導したようだ。





1616年、徳川家康が死去した49日後に、本多佐渡守正信も没した。享年79歳。

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