本多重次「一筆啓上」良薬は口に苦し~鬼作左の怒りは主と徳川のために

皆様、こんにちは。
まずは、こちらの文章、皆様はご存知でしょうか。一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ 
この文章、実は日本一短い手紙とされています。
これは戦国武将の本多重次が戦場から妻に宛てた書状です。
そうなんです。今回の主人公は、徳川家臣団の中で一二を争うほど、気が強く、並み居る戦を戦い抜き、
鬼作左と称された猛将、本多重次なのです。

あの天下人、豊臣秀吉にも牙をむき、怒りを買ったこともありました。
2023年放送予定の大河ドラマ、どうする家康にも深くかかわりそうな
猛将の内面に迫ります。
本多重次は、享禄2年(1529)三河国(みかわのくに)、現在の愛知県西部
にて、本多重正の子供として誕生しました。
同じ本多ということで混同されがちですが、徳川四天王の一人の本多忠勝本多正信と兄弟や親戚というわけではなく、
実は、三河には本多氏が数多くあり、二人の武将とも、かなり縁遠い存在であります。
天文4年(1535)徳川家康の祖父にあたる、岡崎城主、松平清康に仕え始めました。
この松平清康はもともと、みかわの弱小土豪でしかなかった松平家を一代で西三河を支配するまでの至り、
時折、尾張国(おわりのくに)現在の愛知県西部に侵攻するほど、勢いに乗っていました。
この年の暮れにも尾張に攻め込んでいたのですが、そこで大事件が起こります。
なんと、陣中で清康が家臣の阿部正豊に斬殺されてしまったのです。
動機は、正豊が本陣で馬が暴れてるのを父である定吉が清康に誅殺されたと勘違いしたためでした。
大将を失った松平軍は三河に撤退していきました。この時の重次が何をしていたのかは資料に残されていませんが、
これによって松平家は弱体化していき、その様をありありと見させられた、物心ついたばかりの重次は
「自分がしっかりしていかないと、家中もまとまらず、強い軍にもならない。」
そう胸に刻み込んだことでしょう
森山崩れで清康を失った松平家は息子の広忠が家督を継いで、両隣を尾張の織田信秀「信長の父」と、
駿河の今川義元に挟まれ、松平家は風前の灯という状況にありました。
広忠は駿河の今川義元に庇護を求めることで生きながらえていました。
その真っただ中で天文11年(1542)広忠待望の嫡男、竹千代(のちの徳川家康)が生まれました。
ですが、そのわずか2年後広忠の正室、於大の兄で広忠の義理の兄である水野信元が今川を裏切って
於大が水野家に帰り、さらには今川家の人質として旅立った竹千代が、道中の案内役であった、戸田康光の裏切りにより
織田家へと連れていかれ、その2年後に父、広忠が家臣の岩松八弥に殺害されるなど受難が続きます。
その後、竹千代は今川家に人質として送られ、その後11年人質生活を送ります。
重次のその間の行動は多くのことが不明ですが、恐らく本拠の岡崎にて今川から送られてきた、代官の指示のもと不遇な時代を過ごしていたことでしょう。
はっきりしているのは元服した家康の初陣である寺部城攻めにおいて重次も従軍し、功を挙げ、城主である鈴木重辰を討ち死にさせ、落城させたということだけですが、家康にとっては頼れる兄貴分的な存在であったことでしょう。

この生活は永禄3年(1560)に義元が桶狭間で信長に敗れ、討ち死にするまで続きました。
桶狭間の今川の敗戦の混乱の最中、独立を果たした家康と重次ら家臣一同。
信長と同盟を結び、今川と縁を切った家康は義元の跡を継いだ氏真と対立します。
独立以後の重次は、氏真との合戦で功を立て、家康から言葉を賜るなど武功を挙げ、
内政面でも天野康景、高力清長と共に三河三奉行の一人として、優れた行政官としても活躍しました。
この三人は、仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野三郎兵衛と評されました。
それぞれ、三河一向一揆ののち、仏像や経典を守り、自社の修復に勤しんだ清長、気性が荒く家康にもずばずば言う
重次、公平公正な裁きを下し、慎重な康景のことを表しており、家康やほかの家臣からも
信頼されていたのがうなずけます。
元亀3年(1572)に起こった三方ヶ原の戦いでは武田信玄にコテンパンにやられ、夏目吉信らを失い、家康自身も命からがら浜松城に戻りますが、このとき重次は最も死傷率が高く難しいといわれる、殿軍を務めました。
この戦いで重次は乗っていた馬が敵の矢で倒されますが、敵の騎馬武者を倒して、その馬を奪い取り城に帰ることに成功しました。
それだけではなく、城内には事前の重次の指示により備蓄米があり、籠城に対する備えがすでにされておりました。
家康はこの重次の武略と知略を褒め称えました。
重次はもしかすると、信玄には野戦では敵わず、籠城の有効性を理解していたのかもしれません。
武田軍への意趣返しのときがやってきました。
天正3年(1575)5月、長篠の戦いです。この戦いの陣中、妻に一通の手紙を宛てます。
このとき送ったのが、日本一短い手紙「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」というものです。
これは、妻に日頃から火の元には注意し、息子である仙千代の養育をしっかり行い、武士の嗜みである、馬の養育もしっかりやるようにという留守を務める妻への念には念を込めた手紙でした。
このお仙がのちの越前丸岡藩主(現在の福井県坂井市丸岡町)の本多成重になり、成重が治めた坂井市丸岡町は現在、重次にちなみ、
日本一短い、一作品40文字までの手紙のコンクール、一筆啓上賞を開催し、名だたる俳人や歌人、シンガーソングライターなどが審査員を務め、歴代の作品を集めた資料館、一筆啓上日本一短い手紙の館もあります。
ちなみに世界一短い手紙はフランスの文豪、ヴィクトル・ユーゴーが映画化や舞台化など多くのメディアミックスがされた
著書「レ・ミゼラブル」を出版した際、出版社に売れ行きがどうなのかを問うた、「?」とそれに対する売り上げ上場を示す「!」です。
話を長篠の戦いに戻しますと、戦いは織田徳川軍の勝利におわります。
この戦で、重次はまたしても活躍しますが右目を負傷し、失明したといいます。
重次はその後の合戦でも手柄を立てましたが、このように負傷も多く右目に加え、片足や、手指も欠損したといいます。
どんな状態でも徳川家に尽くし、家族への気配りも忘れない重次。
本当に真っすぐな武将です。

天正10年(1582)の本能寺の変で信長が家臣の明智光秀に討たれ、光秀も信長家臣の羽柴秀吉に討たれ、
秀吉が台頭し、重次の主君家康も信長の次男、織田信雄とともに小牧長久手の戦いで衝突し、
両者痛み分けで終わると秀吉は関白に叙任され、家康に上洛を求め、
家康に妹の旭を娶らせ、母親の大政所を人質として送るなどあの手この手で上洛させます。
これには家康も俺、上洛し秀吉に対し臣下の礼をとることを誓います。
この時、重次は大政所の宿舎の前に薪を積み上げ、上洛する家康の身に変事が起きたら、薪に火をつけ、
大政所を焼き殺そうという態度をとったため、秀吉を大いに不快にさせました。
実は、重次。この前にも家康の次男の結城秀康が秀吉のもとに養子に出されたとき共に人質として出された仙千代を
「母の看病をさせたい。」と嘘をつき呼び戻させたということもあり、怒りを買ったこともありました。
この重次の行動は、あくまで家康第一とした重次の思いから出たものであり、最初のうちは大目に見てもらえたのですが、
天正18年(1590)の秀吉の天下統一総仕上げとなった小田原攻めでは、秀吉が岡崎城で重次との対面を
予定していたにもかかわらず重次はすっぽかしたため、とうとう秀吉は堪忍袋の緒が切れ、
秀吉は家康に重次の処分を強く求めました。
秀吉の勘気を被り、関東に転封になった家康により重次は、上総国古井戸(現在の千葉県君津市)において3000石での蟄居を命じられ、その後、下総国相馬郡井野(茨城県取手市)に蟄居先が変更となり不遇な晩年を過ごしたまま、
文禄5年(1596)7月16日、68歳で死去しました。
このように重次は良くも悪くも気の強さを発揮し、徳川のため、領民のため、その生涯をささげました。
このように晩年は生来の気の強さが災いして、不遇でした。
ですが、その気の強さは自分のためではなく、主のため、徳川家のためを思って出たものでした。
最後にそのようなエピソードをご紹介します。
ある時、自らも医学への造詣が深かった家康が腫物をこじらせ、重態に陥った時に自らを過信するあまり、医師のいうことを聞かずに、治療も受けないという事態が起こりました。
そんな家康に業を煮やした重次は「はてさて、殿は何もわからないのににわか治療などをして犬死するとは聞き分けのないことだ。」と言い、続けて「作左は、先に逝って待ってます。もう今生のお別れでござる。」と言い、切腹の準備を始めました。
これには家康も折れて、治療を受けることにしたため、事なきを得ました。
他にも家康が処刑のために人を煮るための釜を城まで運ぶよう命じたとき、重次は「天下を望むなら人を釜で煮殺すのはあってはならん。」と釜を壊し、家康をこれを聞き、自分を恥じ入り、重次に謝りました。

彼は、生真面目で裏表がない人間だったように思えます。
家康のためなら何もかも投げ出せる三河武士、それの典型でしょう。
高倉健さんの映画での役柄にどこか似ているところがあるな。不器用な人間だけど、そこがまた魅力的だなと私は思えます。

最後までご覧くださり、ありがとうございました。
他の記事も読んでくださると嬉しいです。
お相手はゴッチ式ショーイチでした。
それでは次回もお楽しみに。

(寄稿)リストクラッチ式ショーイチ

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