天正伊賀の乱の解説~忍びの国の悲劇(伊賀衆)

忍者とは

忍者と聞いて真っ先に思い出すのは、伊賀忍者服部半蔵服部正成ではないでしょうか。
服部半蔵(服部正成)は、戦国時代から江戸時代にかけて松平氏から徳川氏の家臣として活躍しました。

天正伊賀の乱の解説~忍びの国の悲劇(伊賀衆)

実は、服部半蔵は一人ではなく服部家の歴代当主が代々「半蔵」を名乗っていたのです。
この服部半蔵が忍者だったというのは、初代の半蔵(保長)だけであって、2代目以降は忍者ではなかったとされています。

また、伊賀忍者が徳川(松平)に仕えたのは、織田信長本能寺の変で討たれた直後とされています。
本能寺の変が起きた時、徳川家康は少人数の堺(大阪府)に徳川家康。
次はこちらに攻めてくると身の危険を感じ、伊賀忍者達の支援を受けて摂津から三河まで伊無事帰還できた「神君伊賀越え」と呼ばれる功績からだと言われています。
江戸城(皇居)の建造物にも半蔵門がありますが、そこを警護していた服部家の当主「半蔵」に由来するものといわれています。(*諸説あり)

このような忍者のような集団は、伊賀以外にも全国に存在していて、流派も色々であったとされています。
たとえば、六角氏に仕えていた甲賀忍者、伊達家に仕えていた黒脛巾組なども有名です。
他にも草、素破など呼び方も地域によって様々だったみたいです。

◆忍者の役割

戦国時代の忍者の主な役割は、諜報活動だったと言われています。
諜報活動の主な内容は、敵国内の一般庶民からの情報収集、賄賂などを使って味方に取り込む、二重スパイ活動、敵国に偽情報を伝えるなどになります。

実際の戦では、神出鬼没のゲリラ戦法や敵陣に忍び込んでの破壊工作を得意としていて、身体能力を活かした忍術や武器を駆使して活躍していました。
しかし、このことからも決して表に出る事のない集団でしたので、実際の忍者の実態などについての記録はほとんど残っていません。
そのため忍者の存在は謎に包まれているのです。

◆伊賀忍者

伊賀忍者の住んでいた伊賀国(三重県伊賀市)は、周囲を山地に囲まれた山あいの郷でしたが、一族「党」による自治集団を形成して分別統治された独立国だったといえます。
また、この伊賀国を自治運営するために「伊賀惣国一揆」という代議士制のよおうな自治形態を立ち上げます。
一揆と聞くと大名や領主に逆らって集団で暴動を起こすイメージがありますが、本来の意味は人々や家々が結束して一つになるということだったそうです。

伊賀惣国一揆の協議には「上忍三家」(百地家・藤村家・服部家)に9人の有力土豪を加えた12人の「評定衆」が選定されました。
協議といっても上忍三家が取り仕切っていたので、それ以外はほとんど意見に従うだけだったみたいです。

また、伊賀惣国一揆には独自の掟があり、今でも記録として残されています。
掟は以下のような内容になっており、これらを遵守することで伊賀国内の秩序を保っていたのです。
・敵が攻めてきたときは、里々で鐘を鳴らすことで危険を知らせ、武器・兵糧を調達したら城の周りに陣を敷いて待ち構える。
・他国の侵入を手助けしたり情報を漏らした者は討伐し、領地は全て没収する。
・領国内では、味方同士で狼藉を働かない。
・他国が攻めてきたときは国全体で協力して防衛すること。

独立国家のような伊賀国でしたが、全体的に山深く耕作地が狭く肥えている土地とは言い難かったので、十分な食料を得るには厳しいものでした。
独立国になる前から狭い土地に多くの領主が乱立して争いも絶えなかったので、そういう環境の中で忍者としての戦闘術が磨かれていったのです。

天正伊賀の乱の解説~忍びの国の悲劇(伊賀衆)

また、伊賀忍者は徳川氏(松平氏)に仕えるまでは、各地の大名に雇われて戦う傭兵のような存在だったというのが、他の忍者達とは違うところです。
伊賀国は大和街道(京から奈良へ至る街道)にも通じていたため、その利便性を活かして傭兵として各地に出向くことが出来たというのも利点だったのかもしれません。

「伊賀衆」と呼ばれた伊賀国内の土豪や地侍たちは、これまでの争いで身に付けた忍術(戦術)や諜報活動を使って活動する集団「忍者」を統率していました。
そして「伊賀衆」が諸大名から依頼を受けて、その都度契約を結んで忍者を派遣していました。

「伊賀衆」は特定の主従関係を持つことがなかったので、場合によっては伊賀忍者同士で敵味方に分かれて戦うこともあったようです。
敵味方に分かれて伊賀忍者同士で戦う理由には、伊賀国内は非常に貧しかったというのもあったので金銭を貰えるのであれば同郷であっても関係ないという分別がないものでした。
こんなところからも忍者の世界が冷酷で厳しいイメージがあるのかもしれません。

天正伊賀の乱までの経緯

伊賀と織田信長の戦いは、織田信長の次男・信雄が伊勢国の北畠家の婿養子となり、三瀬の変で北畠一門一派をほぼ抹殺して伊勢国を手中に収めてからになります。

◆三瀬の変とは

天下布武を目指していた織田信長は、1569年(永禄12年)に北畠氏の治める伊勢国に兵を進め、大河内城の戦いで圧勝した織田信長は北畠家を追い詰めます。
次男の織田信雄を北畠具房(9代目当主)の妹の雪姫と婚姻させて婿養子に迎えることを和睦の条件とした織田信長。
北畠具房は、この条件を受け入れることとなります。

織田信雄が雪姫と正式に婚姻を果たすと北畠具豊と改名して、田丸城を新たな本拠としたのでした。
1575年(天正3年)に織田信長の圧力によって北畠具房は隠居に追い込まれ北畠具豊(織田信雄)が新たな当主となったのです。

これにより北畠家を掌握し、伊勢国を手に入れたかに思いましたが、北畠具房とその側近達は納得していませんでした。
そこで、上洛途中にあった武田信玄に全面的に協力するという密約を結んだのです。
この一連の行動を把握していた織田信長。

◆三瀬御所

1576年(天正4年)11月
織田信長・信雄親子は、北畠一族の抹殺を計画します。
まず、北畠家の家臣だった藤方朝成、長野左京亮、奥山知忠を呼び出し、領地を条件に北畠具教の殺害計画を指示します。
その直後、奥山知忠は出家をして計画から離脱、藤方朝成は自分の代わりに家臣の軽野左京進を参加、長野左京亮だけ直接参加したのです。

◆抹殺の決行
11月25日
滝川雄利、柘植保重、軽野左京進らの軍勢が北畠具教の居る三瀬御所を包囲すると、内通していた北畠具教の近習(佐々木四郎左衛門)が屋敷内を案内します。
北畠具教を見つけた途端、滝川たちが槍で突進していったのです。
抵抗も虚しく討ち取られた北畠具教。
その後、三瀬御所を包囲していた軍勢によって具教の息子(徳松丸・亀松丸)たちも殺害され、他に家臣や家人など50人近くが殺害されました。

◆田丸城

一方、北畠具豊(織田信雄)は北畠具教に近い家臣や一門を一斉に田丸城に集めて殺害する計画を立てていました。
まず、具教の次男(長野具藤)、三男(北畠親成)、娘婿(坂内具義)を城内に招き入れ、北畠具豊(織田信雄)の合図ともに日置大善亮、津田一案らが一斉に飛び込んで殺害したのです。
城内にいた一門や家臣たちも次々に殺され、助命されたのは北畠具豊(織田信雄)だけでした。
やがて、北畠具豊(織田信雄)の身柄は滝川一益預かりとなり長島城に幽閉されたのでした。

◆三瀬の変後

織田信長親子による粛清を逃れた北畠家の一部の武将が抵抗をするも圧倒的な織田軍の勢力に押しつぶされ、旧北畠の一門一派は間もなく伊勢から排除されたのでした。
これにより新体制は、北畠具豊(信雄)の側近たちで固められたことで、伊勢国は本当の意味で織田のものとなったのでした。

第一次天正伊賀の乱

1578年(天正6年)
伊勢国を統治することになった織田信雄は、父・織田信長の命令で伊賀への領地拡大に動き出します。
早速、織田信雄は伊賀攻めに備えるため、神戸(伊賀市)に丸山城の修築を滝川雄利(滝川一益の娘婿)に命じたのです。
新しい丸山城は、伊賀攻めの侵攻拠点としての役割を果たすため壮大な規模に修築されることになります。

一方、そのことを知った伊賀では、伊賀惣国一揆による協議が開かれることになります。
今まで自分たちが築いてきた伊賀の自治形態が脅かされることとなった伊賀惣国一揆。
織田に対して徹底抗戦することで話しが纏まり、まずは完成前の丸山城に奇襲攻撃をかけて織田勢を追い出すこととなりました。

◆奇襲攻撃

10月25日
丸山城に向けて深夜ではなく白昼に奇襲総攻撃を開始した伊賀衆。
突然の攻撃によって城内は大混乱となり、逃げ回る者で溢れて反撃できるような状態ではなくなります。

城内に侵入した伊賀衆は、完成間近の丸山城を使えなくするため建物などに作戦通り火を付けて回ったのです。
これによって更に城内は混乱状態となり、多くの者が着の身着のままで伊勢へ逃げ帰って行ったのです。

◆第一次天正伊賀の乱 

1579年(天正7年)9月
丸山城の失態回復だけでなく、自分のことを認めてもらおうと思った織田信雄は、父・織田信長の許しを得ないまま、8,000の兵を率いて伊賀を三方向から取り囲むように攻め寄せます。
しかし、伊賀国内に入ると織田軍の馬や長い槍などの武器は複雑な地形で扱うには適さず、周囲への注意も散漫となり進行も遅れていったのです。

織田軍に見つからないように伊賀国内での動きを逐一把握していた伊賀衆。
複数回にわたる夜襲やゲリラ戦などの奇襲攻撃を加えることで肉体だけでなく精神的にも追い込んでいったのです。

神出鬼没な伊賀衆の攻撃に翻弄され、疲れと恐怖で極限に追い込まれた織田軍は、ほぼ壊滅的な状態で伊賀から敗走することになります。
これにより伊賀衆は、多数の犠牲者を出すことなく織田に勝利することが出来ました。
これを第一次天正伊賀の乱と呼んでいます。

大敗を喫した織田信勝は、父・織田信長の逆鱗に触れ「親子の縁を切る。」とまで言われてしまいます。
そして、この戦いで伊賀衆(忍び)の力を思い知らされた織田信長。
次の戦いに向けて強い警戒心を抱くこととなるのです。

第二次天正伊賀の乱

 
織田信長は、約10年間におよぶ浄土真宗本願寺勢力(一向一揆)との石山合戦に決着をつけると伊賀攻略に専念します。
それから約2年間の準備期間をかけて用意周到に進めていったのです。

1581年(天正9年)9月3日
織田信雄を総大将とする総勢50,000の織田軍が再び伊賀国に侵攻したのです。
この伊賀侵攻は、伊賀国を取り囲むように以下の6方向から同時進行で行われます。

伊勢地口(南東方面):織田信雄・津田信澄  〔織田軍本陣〕
柘植口(東方面):丹羽長秀・滝川一益
玉滝口(北方面):蒲生氏郷脇坂安治
多羅尾口(西方面):堀秀政
笠間口(南西方面):筒井順慶
初瀬口(南方面):浅野長政

この布陣からも織田信長の伊賀侵攻に対する本気度が伺えます。

対する伊賀衆は総勢9,000で迎え撃つことになります。
伊賀衆の主力は、比自山(ひじやま)城に3,500、平楽寺に1,500が籠城します。

そして、伊賀衆が得意とするゲリラ戦を織田軍に展開していくのです。
まずは、玉滝口の蒲生氏郷隊が河原で野営しているところにゲリラ戦を仕掛けて部隊を敗走させます。
笠間口の筒井順慶隊も同じような夜襲を受けて、約1,000人が討死という大きな被害がでます。

しかし、大軍相手のゲリラ戦は緒戦こそ効果がありましたが、「焼け石に水」となっていったのです。
体制を立て直した蒲生氏郷隊と柘植口からの援軍の滝川一益隊が平楽寺を攻撃します。
この攻撃では、籠城していた伊賀衆を討ち取り平楽寺を焼き払うだけでなく、僧侶700人も殺害してしまうという徹底したものでした。

続く比自山城は、丹羽長秀隊が複数回にわたり攻撃を繰り返していました。
しかし、城内の伊賀衆だけでなく、その家族や城外の民衆も戦いに参加して必死の抵抗を続けていたため膠着状態となっていたのです。
そこで織田勢は、伊賀衆と民衆の区別がつかず攻撃に苦慮していたことから無差別に殺戮するという作戦に出ます。

織田勢は、女・子供・老人・僧侶など関係なく次々と殺害して村や寺院など全て焼き払う行為にでたのです。
この攻撃で多数の犠牲者を出した伊賀衆は、夜に多くの篝火と旗を立てて城内に人がいるように見せかけ、南西にある柏原城に向けて脱出したのです。

翌朝、比自山城に織田軍が攻め入りましたが、城内は既にもぬけの殻でした。
一杯食わされた織田勢は、城内に火を付けると柏原城に向けて進軍を開始したのです。

最期の砦となった柏原城には、伊賀国内から2,000人以上の伊賀衆が集結します。
柏原城は、直ぐに織田の大軍に包囲されましたが、周囲を堀と林に囲まれていたため攻撃されにくい構造となっていたのです。

また、林が簾の役割も果たし、城から相手の動きを確認できたので、伊賀衆が得意とする奇襲や火力攻撃を駆使して織田軍と戦っていました。

これらの攻撃により織田軍に犠牲者が次々と出ていましたが、織田軍全体から見れば全く支障のないものでした。
織田軍による柏原城攻撃により伊賀衆を指揮していた者などが次々と亡くなると、籠城から一ヶ月ほどで開城したのです。

開城後、城内に残っていた伊賀衆、女子供など関係なく全て捕縛、惨殺され、残党狩りも含めると約40,000人が命を落としたと言われています。
また、伊賀国内の建物についても徹底的に破壊されたのでした。
これにより織田信長は伊賀国を制圧したのです。

(寄稿)まさざね君

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