戦国期でも大活躍の職人さん!当時の建築業者たち

 『職人。じつにひびきがいい。そういう語感は、じつは日本の文化そのものに根ざしているように思われるのである。』
 『日本は、世界でもめずらしいほど職人を尊ぶ文化を保ちつづけてきたが、そういうあたり、近隣の歴史的中国や歴史的韓国が職人を必要以上にいやしめてきたことにくらべて、”重職主義”の文化だったとさえいいたくなる。』

 上記の日本の職人文化について持論を展開されているのが、歴史作家の司馬遼太郎先生『(この国のかたち二 39職人文中より)』であります。

建築業者

 更に司馬先生は、『士大夫=大人(高級官僚たち)が、身を労することを厭う(筆者注:手に職を付け働く)』という儒教的因習によって生きてきた昔の中国朝鮮に比べ、日本では室町幕府の高級官僚を出自とする、政所執事の伊勢氏や細川藤孝(幽斎)・細川忠興(三斎)らが、自ら好んで身を労して馬具製造や茶道や料理、兜設計に励んだことによって、室町文化、それに続く安土桃山文化に深みを与えていったことを述べ、『幕府の高官が、職人しごとを家芸にするなど、歴史的中国や朝鮮では考えられないことであった』と、日本では昔から貴賤を問わず「職人尊崇」の気風が強かったことを強調しておられます。
 現在の日本でも、伝統工芸品などの職人さんを尊崇する文化が非常に強く、長年職人芸で文化振興に貢献された方々が文化勲章の授与や人間国宝に指定され、顕彰されることが最たる好例というべきものであります。

 古今東西を問わず、世の中は多種多様な『技術者/職人』が存在することによって進歩発展してきており、その構図は未来永劫に不変なものであります。農・漁・商・工・運などの産業で数多く存在する技術者の中で、1970年~80年代の高度経済成長期では自動車や電機家具関連の技術者の人々が大いに活躍し、80年代生まれの筆者にとっては近未来の代名詞と感じていた21世紀となった2000年以降はコンピューター(IT)関連や人工知能(AI)に携わっている技術者の方々が大きな注目が集まるようになっています。
 上記の自動車やコンピューター関連の技術者というのは近代~現代にかけて誕生した技術者たちでありますが、古今東西および人間の貴賤を問わず世間から常に信頼されている技術者が存在しています。その中の1つが、今記事で紹介させて頂く『番匠/大工』であります。一サラリーマンであろうが国政を担う高級官僚であろうが、どんなに機械などの技術進化を遂げようが、人間は衣食住の1つが欠けても生きてゆくことは不可能であり、その『住(家屋を建てる)』という一大要素を担ってくれる大工さんも立派な技術者の1人であります。
 上記の原理は、戦国期でも変わらぬことでありますが、寧ろ当時の方の大工(番匠)の方が、朝廷や寺院、戦国大名などの権力者から大いに優遇されている職人技術集団であり、現在でも寺社建築に携わる建築家、所謂「宮大工」というのは権威ある職種であります。
 余談になりますが、戦国期を下って、江戸期の江戸に住まう庶民の子供たちの憧れ職人のNo.1は大工であったと言われています。「大江戸八百八町」と称せられるほどの世界有数の木造建築大都市となっている江戸市街で鋸や鉋を巧みに操り、手際よく多くの家屋を建ててゆく大工は、江戸男児の憧れである上、報酬も他の業種に比べ良かったと言われています。
 戦国期でも、食を担う「百姓や漁民」、商を担う「商人(町衆)や問屋」、運送業の「馬借」、刀剣・鉄砲などの武具、ひいては鍬などの農具製造を行う「鍛冶師」、甲冑を造る「鋳物師」、など様々な技術者が存在し当時の発展に貢献しましたが、建築業に従事する『番匠(ばんしょう)、即ち現在の大工』、そして建築業に欠かせない木材を製材および調達する『杣師(そまし)』『大鋸師(おおがし)』も貴賤を問わず、重宝された技術者たちでした。
 戦国期での著名な建築業に携わった人物を思いつくままに列挙すると、織田信長安土城築城の際に、作事奉行を担当した宮大工・「岡部又右衛門」、同じく信長の普請奉行出身であり、後に普請業を起こすことになる「竹中正高(藤兵衛)、現在の大手ゼネコン・竹中工務店の創業者」がおり、他に江戸初期になりますが「中井正清(大和守)」、「小堀一政(遠州)」も建築文化に大きな足跡を遺しています。
 因みに、前掲の⓵『杣師』と⓶『大鋸師』を簡単に説明させて頂くと以下の通りです。
 
 ⓵『杣師』とは、古代より都市設計や寺院建設が盛んになると、それに必要となる大量の材木を確保するために貴族や寺院が山々に『杣(そま)、建築材木確保地域』を指定し、その杣の中で斧などを使って檜や杉などの木々を伐採、製材する職人さんを『杣師』あるいは『杣夫』と呼ばれました。
 余談ですが、テレビ・舞台・声優など多方面でご活躍されている役者で、「寺杣昌紀(旧芸名:てらそま 昌紀)」さんという方がいらっしゃいます。
 寺杣昌紀さんは、TBS時代劇「大岡越前」の同心・夏目甚八役でご出演されていたので、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、昌紀さんの姓名である「寺杣」の由来は、紀伊国(和歌山県)の中村老賀八幡宮社人であった寺杣孫九郎という人物が姓名の始祖だと言われています。恐らくこの寺杣孫九郎という人物も老賀八幡宮の材木を確保する杣師の出身者であったのではないでしょうか。
 越前国(福井県嶺北地方)に、南朝方の武将・新田義貞が籠った山城(杣山)に「杣山城(現在は杣山城址、同県南越前町)」という堅城がありましたが、これも城の修繕のために杣師を広く募った所、山に溢れんばかりの杣師が集まったために、『杣山』と呼ばれるようになりました。
 いずれにしても、寺杣昌紀さんも仰っておられますが、「杣」という一見読み方が難しく、現代人の我々に馴染みの薄い漢字でありますが、「寺杣」や「杣山」という名前が現在でも残るように、建築資材を調達する杣師も重要な職人さんであったのです。

 次いで⓶『大鋸師』とは、斧を利用して木々を粗く製材するのが杣師であるのに対し、巨大な縦挽鋸(たてひきのこぎり)を利用して製材する職人さんのことであります。大鋸は、鎌倉後期~室町初期(14世紀~15世紀)に普及した当時最新式と言われた製材用具で、2人懸りで大鋸を操り、精巧な梁や柱が多く製材されるようになったので、室町期以後、城郭・寺社・城下町などで空前の建築ブームの原動力となってゆくことになります。

 戦国期(室町後期)は、第一次産業である農業生産力が以前よりも飛躍した時代であったので、全国的に人口が増加。その現象に伴って、それまで当時の首都圏であった京都を中心とする畿内のみに発展が限定されていた商工業や流通業も、鄙(地方)でも殷賑を極めるように、全国は「貨幣経済」の盛期を迎えていました。また応仁の乱により京都が荒廃したことにより、公家や僧侶などの京都人、即ち当時の一流文化人たちが地方の権力者(戦国大名)たちを頼って、地方へ下向していくことも重なり、地方都市の発展に拍車を掛けることになります。
 俗に「小京都」と呼ばれる現在の地方都市はその名残りと言えるのですが、大陸貿易で強大な経済力を誇っていた周防・長門国(現:山口県)の大内氏の城下町であった山口は、「西の京都」と謳われるほど栄えた地であり、他にも越前国(現:福井県東部)の朝倉氏の本拠地であった一乗谷も城下町として大いに栄えたことは有名であります。
 東京大学史料編纂所の教授・本郷和人先生は、名著『日本史のツボ』(文春新書)の中で、戦国期のことを『日本史上初めて地方が主役となる時代の到来』(第5回「地域を知れば日本史がわかる」文中より)と記述されていますが、正に戦国期は『都から地方へ』という始まりだったのです。

以上のように、当時の首都圏である京都を含める畿内では応仁の大乱により荒廃、その難を避けて地方へと人々が避難・移住していくことにより、その人口の胃の腑を賄うための米作り=稲作には欠かせない治水工事、人々が住まう家屋や町屋の需要が一気に高まると同時に、各地方を治める有力者=戦国大名や国人衆も、戦乱に備えて本拠地となる城砦を築城改築する最盛期を迎えていたので、建築業には欠かせない番匠、材木を用意する杣師や大鋸師などの活躍の場は拡がり、各地の有力者たちはより優れた番匠たちを自勢力に迎え入れるべく、苦心するようになります。

 現在、家屋などを建築する職人を愛称を込めて『大工さん』と呼ぶことが多いですが、小学校の頃より図工時間の木工授業で、ろくに鋸や金槌を上手く使えず(絵画など芸術全般も苦手ですが)、先生に叱責され続け、外見のみ大人になった現在でも毎回の大工作業で散々な目に遭っている筆者からしてみれば、状況に応じて大工道具を巧みに取り扱い、家やモノを造ってゆく大工さんは「神の手を持つ職人」と感嘆しきりなのであります。
 筆者が常日頃、羨望の眼差しで見ている職人・大工という名称は本来、『様々な職人(技術者)のリーダーおよび最高位』のことを意味するものであり、戦国初期(16世紀初め)までは鍛冶師のリーダーを「鍛冶大工」、家屋の屋根を葺く職人・葺師(ふきし)の長は「葺師大工」と呼ばれており、家屋などの建築業(所謂、現在の大工業)に携わる職人は『番匠』と一般的に呼ばれていました。現在のように建築業に携わる職人のみを大工という呼称が定着してゆくことになるのが、16世紀末・戦国中期になってからであります。
 因みに、現在でも大工職人のリーダーあるいは建築現場監督のことをを「棟梁」と尊称することが一般的ですが、これも戦国期に定着したものです。戦国期以前は、寺社や領主に属して限定的な仕事のみに従事していた大工(番匠)たちでしたが、先述のように戦国期の各地方では城砦や町の建築ブームで沸き立ち、大工たちの活躍の場が拡がり、職人の数も急増します。それに伴って建築界では、大工たちが大々的かつ組織的に動くことが世間で求められるようになりました。そこで大工たちを組織的に束ねるリーダーが必要となります。そして大工リーダーの呼称は、それまで武家(好例:源氏の棟梁)・僧侶社会のリーダー名であった「棟梁」が当てられるようになり一般的に定着していったのです。

笹本正治先生の名著『実録 戦国時代の民衆たち』(一草舎出版)の第3章『戦国の技術者たち』の文中で以下の通りに記述されています。

『戦国時代は城や城下町の建設によって建築関係者の需要が急激に増え、地域ごとに職人のまとまりが形成されました。(中略)戦国大名は自分が戦乱を勝ち残ってゆくため、経済力を大きくし、最新の技術を確保しようと、職人たちを支配しようとしました。領内に職人が少ない時期には知行を与えたり、諸役を免除したりして、彼らを呼び寄せ、いつでも使役できるようにしました。』

上記のように戦国大名(領主)たちは、平時には城や家屋を建築および改築の必要技術を有し、戦時の際は陣地や櫓、柵などを構築する工兵隊のような役割を担ってくれる大工(番匠)をはじめ、その他の技術職人を招聘するために知行(給料)を与えたり、諸役(税金)を免除する優遇策を職人に採っています。
 その実例として、笹本先生は前掲『実録 戦国時代の民衆たち』で、1575年、甲斐国(山梨県)の戦国大名・武田勝頼は、当時武田領となっていた駿河国にある花沢城(静岡県御殿場市)に詰めていた甲斐石橋(山梨県笛吹市)の番匠・新五郎左衛門尉に対して、本来番匠として勤めるべき役(「水役のお細工=諸職人に賦課した賦役」)を免除していることを挙げています。
 
 甲斐武田氏の他にも、相模国(現:神奈川県西部)を中心に関東で勢力を誇った戦国大名・後北条氏も本拠地である小田原城に様々な職人を招聘することに力を注ぎ、2代目当主である北条氏綱の代には積極的に職人招聘政策が実施され、西は京都や奈良、東は鎌倉から多種多様の職人集団が招聘され、後北条氏や後の小田原市の発展の礎となりました。
 北条氏綱は1532年、6年前に安房国(現:千葉県房総半島一帯)の戦国大名・里見義尭との戦いで荒廃していた関東武士の聖地というべき鎌倉鶴岡八幡宮を再興事業に着手した折には、わざわざ奈良の興福寺や京都の宮大工を招聘したことは有名であります。              
 因みに2代目・北条氏綱が優遇した職人の1人の中で、銘刀正宗で知られる鎌倉期の名門鍛冶師・正宗五郎の11代目の子孫がおりましたが、氏綱は自身の名前の一字「綱」と鎌倉にある無量寺ヶ谷(現:鎌倉市)の領地を正宗の子孫に与え、その人物は綱廣と名乗り、その後の子孫も代々綱廣を名乗り、無量寺ヶ谷も綱廣谷とも呼ばれるようになりました。
 後北条氏の軍事力および経済帳簿というべき『小田原北条所領役帳』によると、北条氏綱嫡男である3代目当主・氏康の代なると領内の伊豆、三島、奈古屋と多田(ともに静岡県伊豆の国市)・の4カ所では、鋸引・切革・青貝師・石切・鍛冶・金工・組紐師などの多種な職人集団が存在していたことが記されています。
 現在でも小田原市は南関東有数の水源豊かな地として有名でありますが、氏康の代に、北条氏によって招かれた番匠や石切職人たちが中心となって開かれた日本最古の上水道と呼ばれる「小田原上水(早川上水とも)」が礎となっています。
 以上のように、戦国期を代表する地方の有力大名・甲斐武田氏や後北条氏は、番匠を含める多くの職人を招聘することによって、自国の経済力や技術革新を図っていたのでありますが、先出の笹本先生は本書内で、地方の戦国大名たちが職人を誘致することによって、もたらされた結果を以下の通りに記されておられます。

『戦国大名の動きや職人組織や商人の活動を通じて、地方の城下町や国、更には分国がひとつの経済圏としてまとまっていきました。現在につながる地方ごとの経済的結びつきは、この時期に出発したといえるでしょう』(『実録 戦国時代の民衆たち』、第3章戦国の技術者たち/「大工から棟梁へ」文中より)

また先生は当時の大工(番匠)の存在意義を、『番匠は戦国時代の底辺を担う役割を負った職人のひとつだったのです』(同章 「戦国大名と番匠」文中より)と評した上で、戦国技術者の1つである番匠の紹介を纏めています。
 番匠/大工は現在でも欠かせない職種でありますが、戦国期でも必要不可欠の職人であり、現在以上に戦国大名たち権力者から優遇される身分が高い人々であったのであります。

(寄稿)鶏肋太郎

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