地方商業から全国的商業へと大展開させた天下人・豊臣秀吉

 卑賎の身分から全国初の天下人となった豊臣秀吉が、覇者・織田信長の衣鉢を継いで、「地方大名統制の強化」・「茶道絵画の保護」・「近世城郭建築・城下町設計の推進」・「全国の鉱山開発」など、政治文化など多方面で、次代へと続く徳川政権期/近世日本へと続く時代創りに大きな足跡を遺したことは、疑う余地ないことであります。

地方商業から全国的商業へと大展開させた天下人

 その中でも豊臣秀吉が整えた(政治と表裏一体を成す)『戦国期経済=前期近世商業』の基盤造りに多大な功績を挙げ、それまで有力戦国大名が、正しく群雄割拠、各々独自の領国経営および経済圏を構成し、全国未統一の地方市場経済であったのを、秀吉は強大な武力あるいは土木技術などを用いて天下統一を成し遂げたことにより、日本全国で通用する経済商業、この表題である『全国的商業』へと大展開させていったのであります。
 即ち地方や各国にて細やかに展開されていたミクロ経済から、それに囚われず日本全国で構成された(巨大な)マクロ経済へと変貌していった曲り角に天下人・豊臣秀吉がいたのです。秀吉が創った経済基盤を徳川家康および江戸幕府が継承してゆき、その結果、近世商業と経済の大発展、それにより誕生した誇れる江戸文化が誕生するに至るのであります。
 豊臣氏を滅ぼし天下人となった徳川家康は、故・太閤秀吉を忌避するように、大坂城や秀吉を祀る豊国神社など豊臣所縁の既存物を徹底的に破壊し、地上から豊臣色を徹底的に消滅させることに躍起になりましたが、豊臣秀吉が一代で創り上げた大坂・京都など関西圏を主軸とした全国的経済構造だけは、破壊することは叶わず、(もし秀吉嫌い一心で破壊すれば当時の日本経済基盤は大混乱になるため)、徳川政権下でもそれを模倣してゆくしかなかったのであります。
 それほど日本初の天下人・豊臣秀吉が築いた豊臣流の商業・経済の仕組みは優れたものであったのです。最も、豊臣秀吉一人が全てが全国的商業経済を立案実行したのでないことは当然であり、秀吉が経理財政に通暁している配下武将官僚=実務家たちを適材適所に使ったのが、江戸期まで活かされる商業経済が確立された一番の要因であると思います。





 その優れた豊臣氏の武将官僚たちが、有名な石田三成増田長盛長束正家大谷吉継浅野長政などの豊臣秀吉と同郷である尾張出身者であり、秀吉が初めて城持ち(長浜城)大名となった近江出身者であります。
 尾張・近江共に、戦国期には農業生産力(石高)が優れた国内有数の穀倉地帯である上、水上物流(尾張は伊勢湾、近江は琵琶湖)が栄えた商業発展地域であったので、その地理的環境により理財に長じた人物を多く輩出しました。
 尾張には豊臣秀吉の他に、彼の主君であり、やはり商業経済の重要性を認識してた織田信長が出ておりますし、秀吉の縁者であり、秀吉の子飼い武将として有名な加藤清正福島正則加藤嘉明(厳密に言えば三河出身の近江育ち)などもおります。
 加藤清正や福島正則は、豊臣秀吉没後に前掲の近江出身者の実務官僚の石田三成や長束正家など奉行衆、文治派武将と対立した生粋のタカ(武断)派武将というイメージが強いですが、清正と正則、嘉明も、優れた城郭や城下町設計、治水工事などの優れた土木技術や領国経営能力を持った秀吉配下の立派な実務家であったのです。
 特に肥後熊本54万石の太守となった加藤清正は、現在でも誇れる巨大城郭・熊本城の築城、治水工事による新田開発、更には大陸貿易といった商業政策で熊本の地を潤し、後世の人々から神様「清正公(せいしょうこう)」として崇拝されるほど、優れた治世能力を発揮したのは有名であります。
 尾張に対して、近江には前掲の石田三成たち以外にも、織田信長・豊臣秀吉の2英傑に重用された戦国期随一のインテリ武将であった蒲生氏郷も、江戸期に全国的商業を展開することになる近江商人の故郷の1つ近江日野の領主を出自としており、氏郷も伊勢松坂・会津若松などでの近世都市の設計運営、会津漆器の作成など商業振興政策で優れた能力を発揮しています。
 以上のように豊臣秀吉は、石田三成の有名官僚は勿論、武断派の荒いイメージが強いですが、優れた領国経営能力を持っていた加藤清正、蒲生氏郷などの経済感覚に富み、豊臣政権下の全国経済を切り盛りするほどの実行力を持った数多な逸材が足下にいたのであります。
 上記以外にも、豊臣政権の財源であり全国各地に点在する『豊臣直轄領(太閤蔵入地)=穀倉地帯や物流拠点・鉱山』を、秀吉に代わって直接管理するため任命された代官も多くいました。その代官の中には大名や官僚のような武家のみではなく、豊臣秀吉が寵愛した堺の豪商・小西隆佐(キリシタン大名・小西行長の父)の様に、やはり計算が立つ商人、または寺院の僧侶といった多種の人材も豊臣直轄領の代官を務めています。
 小西隆佐は、当時日本一の貿易港・堺で主に薬種業を営む有力商人(息子の行長は、犬猿の仲である加藤清正から「薬屋の倅」と侮蔑されていますが)でしたが、豊臣秀吉は隆佐以外の各地の物流拠点(港湾)で活動する有力商人なども豊臣直轄領の代官に任命しています。
 豊臣秀吉は、財政や物流に通暁している各地(例えば若狭小浜や敦賀など)の有力商人/商人司を豊臣政権の代官として取り込むことによって、年貢の徴収といった直轄領の運営を円滑化を図ることも目的でしたが、商人たちが把握している米穀や塩など物資の相場情報、陸海運能力やルートを豊臣政権の傘下に治め、全国の物資の相場・物流を完全把握、つまり「全国統一商業の確立」を目指していた意図が見て取れます。

 長々と豊臣政権の理財に長けた多種多様の人材を紹介させて頂きましたが、豊臣秀吉はこれを適材適所に使って地方商業の限定的経済から全国的商業の統一経済へと拡張させた政策として一番有名なのが、学校でも必ず習う『太閤検地(1582年・1598年)』があります。
 自勢力の米生産力、即ち経済力=戦力を把握するために、北条早雲(伊勢宗瑞)や織田信長といった豊臣秀吉以前の戦国大名も検地を実施しておりますが、秀吉と彼の優れた官僚たちは、豊臣氏によって成し遂げられた全国統治を確固なものとするために、北条や織田などの先達よりも、秀吉は、現地に官吏を派遣し、大規模かつ正確な測量で各地の田畑の広さや生産量を計算しました。これにより北は陸奥国から南は薩摩国を本拠とする各大名の凡その経済力および軍事力、(即ち各大名にとっては最高機密情報)を中央政府である豊臣政権は把握することに成功したのであります。そして、各国でも実り豊かな土地や物流拠点を見つけた場合は、それが傘下大名の領域内であろうが、秀吉は自分の『直轄領(蔵入地)』として取り込んでいったのであります。
 一方、豊臣氏の傘下に入っている各地の大名・国人衆・地侍たち各層領主たちにとっては、太閤検地とは有難くない政策であったことも事実でありました。
 いくら豊臣政権を盟主として仰いでいるとはいえ、それまで自力で戦国乱世を生き抜き、独立不羈の精神と誇りで各国を、好きに支配してきた大名たち各支配層が、俄かに畿内に誕生した中央政権・豊臣氏から領国支配の強制的介入を受けた上、己の経済力と動員可能兵力を豊臣に把握された挙句、先述のように自分の領域に豊臣政権の直轄領が入り込むことを容認することを余儀なくされたのは、各地の支配層にとって丸裸された忸怩たる思いがあったのであります。
 事実、太閤検地による領地支配への介入を嫌った各地の大名(有力国人衆も含む)が、豊臣政権(豊臣秀吉が派遣した国主や代官)に対して謀反を起こしていおり、その代表例が、秀吉の九州征伐直後の「肥後国人一揆」「(1587年)、小田原北条征伐・奥州仕置直後に勃発した、東北の「葛西大崎一揆・仙北一揆」(1590年」、「九戸政実の乱」(1591年)であります。





 九州・東北と共に、鎌倉・室町両幕府に連なる由緒ある御家人らが、地頭として同地を本貫地とし、戦国期なると国人衆になった勢力が多く存在し、彼らは小領主ながらも名門意識と先祖代々領してきた土地に対する執着心(正しく一所懸命)は非常に強かったのであります。東北の大崎氏などは、足利将軍一門の連枝で誇り高い家柄であったために、出自卑しく俄か天下人となった豊臣秀吉が強制してくる太閤検地=領地介入などは片腹痛く、到底受け入れることが出来なかったに違いありません。
 豊臣秀吉は、上記の検地を受け入れない諸勢力を武力討伐(秀吉本人曰く『撫で斬り=皆殺しにせよ』)で臨むという強硬手段を用い、全国各地の経済力把握に努めたのであります。余談ではありますが、太閤検地に抵抗し、豊臣政権に血祭りにあげられたのは、前掲の九戸政実など一揆衆のみではなく、剣豪として名高い大和国の零細国人衆であった柳生石舟斎(宗厳)も太閤検地によって、隠田が摘発されてしまい、それを罪に問われ全領地を没収され、改易の憂き目に遭っています。
 後に柳生氏は、柳生石舟斎の五男でやはり剣豪として名高い柳生宗矩(但馬守、江戸幕府剣術指南役)が、徳川家康に仕え、関ヶ原合戦の際、西軍の後方攪乱などの功績によって柳生庄3000石を与えらて再興されますが、この柳生氏の悲劇や九州・東北などの諸将の豊臣政権の反抗を見てもわかるように、全国の米生産力、即ち『石高』を把握し、それまで大名や国人衆が好き勝手に動かしていた地方割拠の経済から全国統合経済を目指して豊臣秀吉が敢行した有名な太閤検地とは、地方の大名や国人衆たちにとって辛苦なものであったことも事実であります。

 豊臣秀吉が数多いる地方の国人衆などの反発を受けながらも、太閤検地を行った目的は、(重複しますが)「国々の経済力(石高)を豊臣政権で把握すること」、その経済力に応じて各大名に軍役や賦役を課すための物差しにする、これが主因であると思います。これがそのまま江戸幕府に石高制=幕藩体制として受け継がれることになることは有名であります。
 また豊臣秀吉は、大名と百姓の間で居座っていた国人および地侍という中間身分(武装農場主)を規模縮小および解体させることにより、「大名が直接領民を支配する」、「大名が直に領民から年貢を徴収する」という身分制度をも確立することにも余念がありませんでした。これも太閤検地と並んで豊臣秀吉の政策として有名な『刀狩令』であり、先の天下の覇者・織田信長が実施した兵農分離は、秀吉の刀狩りによって一層強化され、江戸幕府では「士農工商」の身分制まで行くことになります。
 そして武装解除された国人衆や地侍といったそれまで村落や郡の頭目たちは、江戸期になると幕府か藩の家臣団の一員として組み込まれ城下町に集住を強いられるか、或いは農村のリーダーである『庄屋』『肝煎』として村落の経営に勤めることになります。              因みに、その庄屋/肝煎たちが、村のリーダーとして農民たちを動かし農業や家内工業などの前期近代産業発展の一翼を担ってゆき、更に時代が下って江戸幕末期になると、その階級から今年のNHK大河ドラマの主人公でお馴染みの渋沢栄一や、土佐国の志士・中岡慎太郎などが登場して幕末・明治期への転換期に活躍することになるのであります。

 太閤検地で把握された米の生産力。刀狩によって国人や地侍などの小農場主を解体し、百姓が直接年貢を大名に直接納める身分制の確立。その年貢、米生産量をより正確に把握するために、豊臣秀吉は経済流通の根本となる単位の統一化をも行っていきます。即ち『計量器、即ち計り枡の統一化』であります。やはり天下人・豊臣秀吉が誕生する前の戦国期の枡の大きさが国々によって違っており、不統一状態でした。
 豊臣秀吉の旧主君であり、商業流通活性化を重視していた織田信長が、足利義昭を奉じて上洛(1568年)した後、物資計量の正確化を図るために、当時畿内で利用されていた「一升枡(十合枡)、別名:京枡」を自分の領国内の統一桝として採用したのが、枡の統一化の嚆矢となっており、信長の地位を継ぎ、名実共に天下統一を果たした秀吉が、京枡を全国一律に統一したのであります。
 秀吉の京桝全国統一化により、全国から生産される米などが正確に計量され、年貢徴収も迅速になり、物資流通面でも、物資計量の不均等さ(畿内と東北で数量の差異が出るなど)の問題が解消されるようになったので、より商業流通が簡潔化と活性化に繋がったのであります。またこの織田信長・豊臣秀吉が物資流通の要として採用した京桝も、徳川家康も踏襲し、江戸初期の寛永頃になると、現在の一升枡となる新たな桝(新京桝)が開発採用されるようになります。
 
 太閤検地によって「全国の米生産量の把握」、「各国に点として直轄領を確保」、「枡の統一化」の主な3つの政策を行った豊臣秀吉は、自分の本拠地であり当時の首都圏であった大坂・京都(伏見)を中心として、全国商業流通を本格化させることになります。その最たる好例を以下より紹介させて頂きたいと思います。





 豊臣秀吉は、豊穣かつ商業発展地帯の大坂・京都などの畿内一帯を、直轄領として豊臣政権の中枢部としましたが、その他にも石見銀山や但馬銀山など国内有数の鉱山、堺や大津などの物流の中心部も直接支配。更に各国に点在する穀倉地も直轄領として抑えていたのは、先述の通りであります。
 点在する直轄領から生産された膨大な米穀を年貢として豊臣秀吉は徴収していたのですが、ただその米穀を年貢米として大坂城の蔵に納めていたのみではなく、それを元手にして、米価が高い地方で売り捌き利益を上げる、という地方と地方を跨いで『米投資』、下世話な言い方をすれば『利ザヤ』を稼いでいたのです。
 その好例が、1595年に豊臣秀吉が奉行・浅野長政(当時は長吉)を通じて、日本海航路の要衝である若狭小浜の豪商・組屋六郎左衛門(源四郎)に対して、豊臣政権の直轄領の1つである奥州津軽の年貢米2200石の売却を命じた事例があります。
 因みに組屋六郎左衛門は、室町期から北国廻船業(日本海交易)で財を成した地方商人ですが、1583年に豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)が、宿敵・柴田勝家を滅ぼし北陸地方一帯を制圧した後には、豊臣政権傘下の豪商として直轄領の年貢米など物資搬送や売買を請け負い、政権財政の実務を請け負っていました。また秀吉が浅野長政を通じて、組屋六郎左衛門を使うことを命じたのは、長政が1587年~1593年まで若狭小浜8万石の大名であり、同地の豪商であった組屋と深い接点があったからだと思われます。
 
 先述の組屋六郎左衛門が秀吉から命令された津軽の年貢米2400石の売却業務ですが、当時津軽での米相場は、「100石=金4両」、しかし津軽の隣国・奥州南部の米相場は、「100石=10両」。そこで組屋は前掲の津軽年貢米2200石の内、1800石を南部まで搬送して売却、金180両の売上です。そして残りの年貢米600石の内、400石を奥州より売値が高い組屋の本拠地・若狭小浜(「100石=金14両」)まで廻送・販売し、金56両の儲けを出しています。因みに残り200石は、船賃や手間賃という名目で組屋の取り分となっております。
 即ち以下の通りに、組屋六郎左衛門は津軽年貢米2400石を販売処理したことになります。

 奥州南部での1800石の売上「180両」+若狭小浜での400石の売上「56両」=合計236両の売上がありました。この全額が豊臣政権の金蔵に納入されています。

もし、津軽年貢米2400石全部を産地の100石=4両の相場であった奥州津軽で売り払った場合は96両のみの利益しかありませんが、組屋六郎左衛門が行った南部・若狭小浜での年貢米販売処理で得られた利益は236両、つまり津軽での限定的販売よりもプラス140両の利益を上げたことになり、その分、豊臣政権のお財布は潤っているのであります。
 以上は、算数を大の苦手とする筆者の下手な説明となってしまいましたが、兎に角にも上記の豊臣秀吉が、若狭小浜の豪商・組屋に対して、奥州津軽産の年貢米の販売処理を命じた事は一例に過ぎず、津軽(奥州)以外の地方にも豊臣直轄領を点々に領有していた秀吉は、他地域の組屋の豪商などに余剰の年貢米を上手く売り捌き、利益を出すことを命じていたことは想像に難くありません。

 「原価より相場が高い場所で物を売り、利益を上げる」という合理的思考法は、株式投資や商売の基本中の基本であることは周知の通りでありますが、豊臣秀吉が天下を統一する以前の戦国期の地方あるいは一国限定の経済流通構造、即ち他国との緊張関係などの不安定な情勢下では、前掲の秀吉が組屋に命じて、地方から他地方へと手広く年貢米を動かし、売り相場が高い場所で売って利益を上げる、という現代では当たり前である全国規模で物資の売買が行われる経済流通は困難なものでありました。
 勿論、戦国期最中である越後の戦国大名・上杉謙信が、越後特産品である繊維物資・青苧(カラムシ、越後上布)を、配下の豪商・蔵田五郎左衛門を使って、京都に販売して莫大な利益を上げていた事例などもありますが、これは飽くまでも越後・京都間の限定された販売流通であり、天下に君臨する豊臣秀吉のように全国規模で物資を切り回すほどの大きさはありません。ここに強力な上杉謙信でも北国地方の有力戦国大名が持つ権力の限界があるのが見受けられます。
 しかし、豊臣秀吉が天下を統一し、日本国内での合戦が絶えて情勢が安定化に向かい、更に太閤検地や桝の統一化を行い、国々の正確な経済力の把握。小浜の組屋など戦国期生き残りの地方の有力商人(有徳人)らと提携したことにより、全国各地の豊臣直轄領から産出される年貢米や木材など多種の物資を、豊臣政権の膝下である大坂・京都などに集積させたり、或いは他国から他国、地方から地方へと動かし、高値で取引させて利益(金)を生み出す、という全国的規模の商業流通が確立されたのであります。
 豊臣秀吉が、太閤検地・刀狩で、国人衆や地侍といった私的に田畑・商業流通や民を領有している中間搾取をする身分を壊したのも全国的商業の発展に大きな影響を与えました。国人衆など中間搾取層がいれば、年貢米や物資流通から出る利益の上前が取られることになり、その分、流通販売が滞ることになるからであります。





 刀狩令とほぼ同時期に発令した『海賊停止令』(1588年)。海賊=水軍、海上の国人衆・地侍たちと言って過言ではないですが、その海賊衆なかでも、日本最大の規模を誇っていたのが、瀬戸内海(芸予諸島)を本拠地としていた村上海賊(能島・因島・来島)であり、その中でも能島村上氏の当主・村上武吉が、「日本一の水軍大名」と呼ばれたいたのは周知の通りであります。
 村上海賊衆たちは、瀬戸内海を航海する数多の船舶から通行税(関銭)や駄別銭を徴収する代わりに、現在でも世界有数の海の難所と言われる瀬戸内海における安全航海を保障する私的ビジネスを展開し、莫大な利益を上げていましたが、天下人・豊臣秀吉は海賊停止令を以って、村上海賊の通行税徴収権を剝奪し、海賊衆を解体。村上武吉は日本一の海賊の棟梁という地位から中国地方の有力大名・毛利氏の一家臣に編入されるのを余儀なくされています。
 日本全国および海外相手の海運交易の活性化を狙っていた豊臣秀吉からしてみれば、村上武吉をはじめとする村上海賊の様に、広い海域で私的勢力を築いて、勝手に商船などから通行税を取る行為は、著しく物流の滞留を招くものであり、看過・許容できないものであったのです。
 (村上海賊からしてみれば災難な)海賊停止令を豊臣秀吉が発令したことも功を奏し、村上氏を含める各地の海賊衆らは、伊勢志摩を拠点としていた九鬼氏のように、豊臣傘下の水軍大名になるか、各地の有力大名の水軍衆(警固衆)として取り立てられたことにより、水上における通行税の徴収や略奪行為が減少し、日本国内の水運物流がより高まったのであります。
 また船舶運営のプロフェッショナルであった海賊衆を家臣団として取り込めることができた各地方の大名勢力も、自身の水上輸送などに必要な人材や船舶を傘下に置くことが出来たことが、結果的に首都圏や地方を問わず、全国的な水上物流の活性化に繋がったと思われます。

 以上のように、豊臣秀吉が、太閤検地・京枡の統一化などの全国対象の政策によって、それまで地方で点々に分れて確立していた経済構造(ミクロ経済)を、全国共通の経済構造(マクロ経済)に大改革していったことを今回の主題とし、その一例として、奥州津軽年貢米2400石を、若狭小浜の商人・組屋六郎左衛門が秀吉の命令を受けて、奥州南部や小浜など広範囲で売って利益を上げること紹介させて頂きました。
 今回書くに当たって、日本中世史の大学者であられた故・永原慶二先生の著作『戦国期の政治経済構造』内の「戦国期の都市と物流」、またご健在であられ、現在の戦国史の泰斗であられる小和田哲男先生の著作『さかのぼり日本史⓻ 戦国』内の「豊臣秀吉の物流革命」を、大いに参考にさせて頂きましたが、その小和田先生は本書内で、秀吉が全国に各地点々に領有していた豊臣直轄領(太閤蔵入地)獲得方法および秀吉流の物流について以下のように記述されておられます。

『秀吉は各地の商人と手を組み、全国規模流通・海運網を開いていったのですが、それは、秀吉自身の領地の獲得の仕方と大きく関係していました。(中略)、天下統一を実現していく過程で、飛び地的に、利益の高そうな土地を切り取ってわがものにするという形で、所領を増やしていったのです。』

 『秀吉は、(中略)、全国に飛び地的に陣取りして、その間で物流を動かし、人とモノの流れのネットワークを作り上げていったのではないでしょうか。点と点を線でつなぐようにして全体を網羅していくイメージです。この感覚は新しかったと思います。』

 (以上、「第2章 豊臣秀吉の物流革命」文中より)
 
 上記の小和田哲男先生の記述で、特に筆者が感銘を受けたのが、『全国各地の点(直轄領)と点(他の直轄領)を繋ぐ物流ルートを構築した』という意味合いで書かれている部分であります。豊臣秀吉は、各地の穀倉・鉱山・港湾などの要衝を『点』として抑え、それを孤立させておくのではなく、『別の点』と繋ぎ合わせて、物資が円滑に流れるようになり、その結果、全国的に商業、経済を動かしていったのであります。
 江戸中期以降になると、有名な北前船や樽廻船など、多くの商船が各地の点(港湾)行き交い、近世日本全体の経済物流や文化発展に大きく寄与することになりますが、そのプロトタイプを構築したのは、他ならぬ豊臣秀吉であったことを感じます。





 豊臣秀吉は全国の点と点から産出される米など様々な物資を集積する天下一の倉庫、或いは消費する巨大な胃の腑として選んだ地が『摂津大坂』であります。大坂の地に巨大城郭・大坂城を築き、掘割や町割を行って、湿地帯が多かった大坂平野に巨大経済都市を築いたこと、これこそが豊臣秀吉の最大偉業でありましょう。
 巨大城下町・大坂を中心として全国経済を見据える、この豊臣秀吉の大構想が、江戸期になっても大坂が『天下の台所』として、近世経済の策源地となったのであります。豊臣秀吉の先達者として織田信長も要衝・近江の安土城とその城下町(楽市楽座)を造っていますが、秀吉もそれを踏襲し、よりダイナミックに展開していったのであります。
 
 『全国に物流網を築くと同時に、秀吉は、商業の中心基地となる大消費都市をつくることを考えました。それが商都・大坂です。大名は自分の領国に居城として城を築くということをやりますが、天下の名城である大坂城は、その発想とは全く違う、全国の物流ネットワークのヘソとして築かれたのです。』

 上記のことを書かれておられるのは、前掲の小和田哲男先生の『さかのぼり日本史⓻ 戦国』でありますが、豊臣秀吉は大坂の地に商都を造り本拠地として定め、武力のみではなく、『商業物流』で天下に睨みをきかせたのです。
 その現在でも、日本屈指の商都(或いはお笑い稼業の都?)として、日本経済の一翼を担っている大阪府でありますが、この礎を築いたのは、勿論豊臣秀吉でありますが、その地を本拠地として最初に渇望したのは、豊臣秀吉その人ではありません。秀吉の主君であり、師匠格であった織田信長であります。ではその信長が、大坂の好立地として見初めたのか?と言えば、否であります。織田信長・豊臣秀吉よりも先の天才にして、日本最大の宗教勢力・本願寺/一向衆を創り上げた本願寺蓮如であります。
 大坂本願寺(石山本願寺)を、日本全国の強力な一向一揆衆の総本山とした本願寺勢力は、大坂の地を欲する織田信長と10年という長い年月を賭けて死闘を繰り広げます。即ち「石山合戦」であります。
 石山合戦は宗教戦争として認識されていますが、実は本願寺と織田との大坂という『日本一の境地』信長公記)を巡った争奪戦の側面もあったのであります。この事については、また後の機会に紹介させて頂きたいと思います。

(寄稿)鶏肋太郎

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