戦国期の対外貿易~九州戦国大名と海外貿易

日明貿易と寧波の乱

日明貿易は室町幕府第3代将軍・足利義満と明の間で1401年(応永8年)から始まった朝貢貿易で、貿易船の身分を勘合符で証明したことから、勘合貿易とも呼ばれています。
そもそも日明貿易は歴代の室町幕府将軍が「日本国王」として明から冊封を受ける形で行なわれていました。
しかし、応仁の乱以後、室町幕府の権力が失墜すると、有力な大名や商人に抽分銭を支払わせて行なうようになり、現在風にいうと委託貿易のような形になりました。

戦国期の対外貿易

ここで当時有力な勢力を維持していた堺を拠点とした細川氏と博多を拠点とし後に兵庫も手に入れた大内氏が貿易の主導権を争うようになります。
さらに1493年(明応2年)の明応の政変で将軍家が二分したことから、各将軍家が貿易の権利を政治の道具化したため、主導権争いに拍車がかかります。
そして1523年(大永2年)に寧波の乱が起こります。

寧波の乱とは、明の寧波で起こった大内氏と細川氏の争いです。
争いのきっかけは、大内義興が正規に遣明船を派遣した後、細川高国が以前のすでに無効になった勘合符を持って遣明船を派遣したことでした。
いわば“ニセモノ“である細川氏の遣明船副使・宋素卿が明の寧波にある入港管理所の役人に賄賂を贈って、自分たちが有利な立場になるよう図ります。
このことに大内氏側が激怒し、細川氏の船団を焼き討ち、賄賂を贈った宋素卿を追討。
その際に明の役人も殺害される大きな事件に発展しました。





この事件により寧波の入港管理所は閉鎖され、一時日明貿易も中断しますが、1536年(天文5年)に大内義興の子・大内義隆によって再開され、博多商人に莫大な富をもたらしました。
しかし大内氏が1551年(天文20年)に陶隆房(陶晴賢)の謀反により滅亡したことで、公的な日明貿易は廃れていったのです。

朝貢貿易から密貿易へ

このような経緯から明との公の貿易は、その後徳川幕府が行なった朱印船貿易まで再開されることはありませんでしたが、実は各地の大名が主となって貿易は継続されていたと言われています。
例えば、九州肥後の相良氏は1554年(天文23年)に、同じく九州豊後の大友氏は1556年(弘治2年)にそして大内氏も大内義隆の次代・大内義長も遣明船を派遣しています。
また大内義長は、大友義鎮(大友宗麟)の実弟ですので、大友氏は大内氏の遣明船にも関与しています。
上記のように、博多を押さえていた大内氏が倒れたのち、明との貿易を画策した大名には九州地方の戦国大名が多く見られます。
これは明に近いという地政学的な要件もありますが、ほかにも、その要因はあります。
それは、大内氏が派遣した遣明船の警固を大友氏や相良氏が担当していたことや自領で産出された硫黄等の鉱物資源を大内氏を介して輸出し、利益を上げていたことです。

しかし、大友氏や相良氏の遣明船は勘合の不備等を理由に、明側から入国を拒否されてしまい、また大内義長の遣明船も国王名が符合しないと言う理由により、公の日明貿易としては、成立しませんでした。
ここで触れておきたいこととして、明は当時、海禁政策という私的な貿易、出入国を禁じる法令を発出していました。
この理由は鎌倉から南北朝期に横行した倭寇の存在です。
倭寇と言えば、中国沿海に出没し、略奪、乱暴をはたらいた船団で、いわゆる海賊行為を行なっていた集団と言う認識が現代の日本人の中にはあるかもしれません。
明は、日明貿易を開始する条件として、倭寇退治を足利義満に指示し、義満はこれを実行します。
そして、公的な貿易船は勘合符を持ち、それ以外の船団は倭寇として扱われることとなりました。
そのため、明が倭寇、密貿易と認識した船団は、入国を認められず、もし強引に入国または商取引をおこなった場合には、立派な法令違反となり、取締りの対象となってしまいました。
しかし巨額の私費を投じて明へ渡ってきた遣明船団は、明への入国を拒否されたからといって、そのまま帰国するわけにはいきません。
そこで法律の効力が行き届きにくかった南方の福建省などへ寄港し、明の海商と私貿易船として明の取締りの網を掻い潜りながら、商品取引を行うようになりました。





ではなぜ先ほど挙げた大名家は、そんな危険を冒してまでも遣明船を派遣し、貿易を行なったのでしょうか。
これには日明貿易がもたらす莫大の利益が関係しています。
日明貿易で日本は銅や硫黄の鉱物資源や刀剣や扇子、漆器などの工芸品などを輸出し、明からは生糸、織物、書物そして銭貨(永楽通宝)などを輸入していました。
これらの輸出入品の取引のうち例えば、日本から輸出する銅は、明では日本の4~5倍の値で売られたり、明から輸入する生糸は日本で購入額の約20倍の価格で売れたりしました。
そのため、多少の危険を冒してでも明での貿易を実現させたいと考える大名は多かったようです。
そのため、この時期の遣明船は、まずは公の貿易船として明に入国して、朝貢貿易を働きかけますが、入国を拒否されれば、朝貢貿易を諦めて、密貿易を行なって帰国すると考えて派遣されていたようです。

もう一つの貿易 琉球貿易

ここまで戦国期における明との貿易について述べてきましたが、もう一つ同時期に発展した対外貿易の形として中継貿易があります。
中継貿易の舞台となったのは、日本の近隣にあった明のもう一つの冊封国・琉球王国を中継して明と行なった貿易形態です。
琉球との貿易は、戦国期にはすでに存在していましたが、公の貿易が廃れ、明からの入国拒否により思うように商取引ができなくなったため、そしてこの中継貿易の主導権を握った大名が島津氏です。
1471年(文明3年)第10代当主・島津立久(島津貴久の曽祖父)が室町幕府に琉球への渡海を取り締まる権利を請い、許されており、その頃から琉球との交易を独占的に行おうとしていました。
その後島津氏自体も親族、近隣国主などと争い、薩摩・大隅の平定に時間を取られますが、琉球王国への影響力は維持しており、戦国期になると、島津氏と九州を2分する勢力を持った大友氏が琉球との交易を行なう際に、島津領内の通行許可を島津義久へ求めたり(薩藩旧記雑録)、遠国では越前の朝倉義景が琉球との交易を許した島津義久に礼状(島津家文書)を送ったりしています。

このように琉球を舞台とした貿易において島津氏は大きな影響力を手に入れていました。
島津氏は琉球ルートを使い、領内の鬼界ヶ島(現在の薩摩硫黄島)から取られた硫黄を明に輸出し、利益を上げていたと言われています。
そして明だけでなく、カンボジアやシャム、マラッカ王国(現在のマレーシアの辺りにあった王国)など東南アジアの国々とも琉球を介して貿易を行ない、徳川時代になっても自藩の経済基盤の安定に役立てています。

まとめ

今回、戦国期の対外貿易について簡単ではありますが、振り返り、当時の戦国大名の思惑を垣間見てみました。
戦国時代の日本は、室町幕府の衰退によって群雄割拠状態となり、大名同士が合戦を重ねながら、領土を広げ、天下の統一に向けて邁進した時代と考えられがちですが、当時の書物や最近の研究に触れると、戦国大名たちが目指したものは、天下統一だけでなく、特に京・畿内から離れた大名の中には地方自治の確立、そのために必要な兵力と財力を蓄えることを目的としていた大名も多くいたのではないでしょうか。
ここでは触れませんでしたが、大内氏や尼子氏と石見銀山を巡って争った中国地方の雄・毛利元就は、石見銀山を取得した翌月には対馬氏に使いを出し、朝鮮王朝への取次ぎを依頼しています。





このように、特に九州など西国に位置した大名の多くは、他地方にない地域的な特質の産物として、海外諸国と交易をしていたことが浮き彫りになってきます。
それぞれの大名が日本国内だけでなく、グローバルな視点でアジアを中心とした世界の国々と対等に接し、一個の独立国家として大陸国家、果てはヨーロッパ諸国と相対しながら領国運営を行なっていたのではないかと思われます。

(寄稿)kazuharu

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