手取川の戦いの解説~織田軍と上杉軍による最初で最後の激戦

信長包囲網

京を追われ中国地方の毛利輝元の庇護を受けていた将軍・足利義昭
毛利輝元に信長包囲網への参加を再三にわたり要請し、第三次信長包囲網を築こうとします。

手取川の戦い

この段階で織田と毛利は敵対関係になかったため、返事を先延ばしにしていた毛利輝元。
しかし、冷静に先を見通すと、西に勢力拡大する織田信長と遅かれ早かれ衝突する事は目に見えていたのです。

そんなことから、織田信長が脅威となる前に潰しておくことが得策であると考え、信長包囲網に参加する事を決意します。

早速、毛利輝元は、参加の証として摂津の石山本願寺に大量の救援物資を送り出したのです。
石山本願寺を包囲していた織田信長は、水路で運ばれてくる救援物資を阻止しようと織田水軍で待ち構えていましたが、毛利水軍の護衛に同行していた村上水軍に大敗してしまいます。

中国地方の大大名・毛利輝元という大きな後ろ盾を得た将軍・足利義昭。
信長包囲網を鉄壁なものにするため、多くの大名に向けて御内書を発行します。

勢力拡大を続ける織田信長に脅威を感じていた近隣の大名たちは、信長包囲網に次々と参加する意思を示し始めたのです。
更に、越後の虎こと『上杉謙信』が足利義昭の要請に応じて、上洛に向けて動き始めたのでした。

それまでの織田信長と上杉謙信は、加賀・越中の一向一揆や武田家の抑えとしての利害関係が一致していたので同盟関係にありました。
しかし、義を重んじる上杉謙信は、将軍・足利義昭からのたび重なる上洛要請を受け入れます。

これにより、織田信長と上杉謙信の同盟関係は破綻となりました。
間もなくして、上杉謙信は上洛を果たすために能登に進軍を開始したのです。

七尾城籠城戦

1576年(天正4年)
上杉謙信は、能登国を手に入れるため、これまで敵対関係だった越中の浄土真宗(一向衆)と同盟を結びます。
そのおかげで、越中を難なく進軍を続けることが出来たのです。
越中を越えると、能登を支配していた畠山氏に降伏を呼びかけたのです。

能登の畠山氏は、1574年(天正2年)に当主の畠山義隆が死去したため、幼児の畠山春王丸が当主となっていました。
そのため、重臣の長続連(ちょうつぐつら)と嫡男の綱連(つなつら)が実権を掌握していたのです。

親上杉派の畠山氏の重臣・遊佐続光、温井景隆らは、上杉に降伏するように長続連父子を説得しましたが聞き入られず、畠山氏は七尾城に領民を入れて籠城戦することを選びます。

七尾城は、堅牢堅固な城だったことと、義を重んじる上杉謙信であれば城内に百姓や町人がいることが分かれば総攻撃は仕掛けてこないだろうと長続連父子が判断したのでした。

この籠城戦は、長続連父子の思惑通り、上杉軍は攻めあぐねて翌年まで膠着状態が続いたのです。
しかし、籠城戦が長引いたことで、七尾城内では予想外の大問題が発生します。
城内が領民で溢れていたため、糞尿の処理が追い付かず劣悪な衛生環境となっていたのです。

これにより疫病が蔓延したため、とても戦えるような状態ではありませんでした。
さらに畠山春王丸が疫病により病死したことで、城内の士気は一気に下がったのです。

このままでは、敗北が決定的となると考えた長続連。
織田信長に援軍要請をするため、三男の長連龍(ちょうつらたつ)を密かに送り出します。

畠山氏(長続連)からの援軍要請を受け入れた織田信長。
加賀一向衆を鎮圧するために越前の北ノ庄城に駐留していた柴田勝家を総大将とした北陸方面軍と羽柴秀吉、滝川一益丹羽長秀の隊が合流して進軍するように命じます。
ただし、対戦相手が上杉謙信なので、多数の兵を失わないためにも大きな衝突を避けるようにと付け加えたのです。

七尾城の落城

1577年(天正5年)8月8日
越前の北ノ庄城に合流した羽柴秀吉たち。
総大将・柴田勝家が率いる織田北陸軍として再編成され、能登・七尾城の畠山氏救援に進軍します。

能登・七尾城

1577年(天正5年)9月15日
上杉軍が包囲を続ける七尾城では、織田信長の援軍を待つ畠山氏の重臣・長続連が指揮をとって籠城戦を続けていましたが、城内は疫病が蔓延、城外は上杉軍が包囲と危機的状況に陥っていたのです。

そんな中、七尾城内では不穏な動きが起きていました。
長続連父子が実権を握っていることに不満を持っていた親上杉派の遊佐続光、温井景隆が上杉重臣の直江兼続に内応していたのです。

反旗を翻した遊佐続光、温井景隆は、長続連だけでなく城内の長一族の首を撥ねると七尾城を開城して上杉謙信に下ったのです。
これにより堅牢堅固な七尾城は落城しました。

七尾城を征圧したことで能登国を手に入れた上杉謙信。
翌々日には、織田の動きを封じるため加賀と能登の境界に位置する末森城の攻略を命じます。

羽柴秀吉の離脱

北ノ庄城を出陣した総勢4万の織田北陸軍は、能登の七尾城へ向けて進軍します。
しかし、道中に加賀一向衆の襲撃が幾度となく繰り返されたため思うように進軍が進まなかったのです。
これにより、柴田勝家に焦りと怒りが鬱積していったのです。

この蓄積したのもが、道中の軍評定で内輪揉めへと発展していったのです。
原因は、犬猿の仲である柴田勝家と羽柴秀吉です。

軍評定で、羽柴秀吉は以下について進言します。
・何人もの斥候が戻らないため七尾城が落城した可能性がある。
・既に加賀と接する末森城も上杉軍によって落城している可能性もある。
・多数の犠牲者を出さないためにも確認ができるまで無理な進軍は避けた方がよい。

しかし、柴田勝家は、これらについて協議しなかっただけでなく、羽柴秀吉を臆病者扱いしたのです。
そんな総大将・柴田勝家に自分の命を預けることに嫌気がさした羽柴秀吉。
丹羽長秀たちの必死な説得も聞くことなく、羽柴隊4千を率いて織田北陸軍から離脱したのです。

手取川の戦い

1577年(天正5年)9月23日
その後も七尾城に向かって進軍を続ける織田北陸軍は、道中の浄土真宗の寺を破壊するだけでなく一向衆門徒を根絶やしにすべく女・子供関係なく斬っていったのです。

上杉軍の斥候から織田北陸軍が後詰の丹羽長秀、滝川一益を残して手取川を渡り終えたとの報せが入ります。
この段階で、柴田勝家は七尾城が落城したことを知りませんでした。

これを好機と見た上杉謙信は、同盟を結んでいた浄土真宗(一向宗)の寺に直江兼続と河田長親の部隊を忍ばせ総攻撃の準備に入ります。
そして、上杉謙信本隊も松任城に進軍すると早朝の総攻撃の準備に取り掛かったのです。

一方の織田軍は、手取川の渡河を終えるまで多くの時間と労力を要していました。
普段でも流れが速いといわれる手取川が、数日前の大雨による増水で濁流となっていたのです。

ようやく渡河を終えた柴田勝家のもとに悪い報せが次々と届きます。
・畠山氏の重臣・遊佐続光らの裏切りによって長一族が抹殺され、七尾城はすでに落城していた。
・加賀と能登の境界にある末森城も上杉軍によって攻略された。
まさに軍評定で羽柴秀吉が進言していたことが的中していたのです。

さらに悪いことに手取川近くの松任城で上杉謙信本隊がいつでも突撃できる状態にいるということでした。

次々と舞い込んでくる悪い報せに動揺と混乱を隠せずにいた柴田勝家。
しかし、側近と最善の策を講じているうちに冷静さを徐々に取り戻していきます。

そして、急ぎ各隊の隊長を集めて軍評定を開きます。
織田北陸軍が置かれている状況を伝えると、翌日に準備が出来た段階で全軍に退却するように命じたのです。

空が白みはじめた頃、織田軍の周囲から地響きと鬨の声が響き渡ります。
早朝の突然の出来事に飛び起きた織田軍。
状況を判断できずに長い沈黙のあと、陣内は混乱状態となったのです。

この地響きと鬨の声が上杉軍という最悪の状態を知った柴田勝家。
全軍に急ぎ退却を命じます。

総攻撃を仕掛けてきた総勢1万2千の上杉軍。
上杉軍の総攻撃は、柴田勝家の予想を上回るほど早いものでした。
それは、上杉の味方となった土地に詳しい一向宗門徒の案内があったからとも言われています。

兵数では3万6千と圧倒していた織田軍でしたが、各隊は隊列を組めないまま無防備に近い状態で迎え撃つこととなったのです。

上杉軍の総攻撃は、正面から上杉謙信本隊、左右から直江隊、河田隊が挟むようにぶつかり手取川へと織田軍を追い込んでいきます。
ものすごい勢いで上杉軍が攻め込んでくるため、織田軍の逃げ道は手取川を渡るしか残されていませんでした。

上杉軍の追い討ちは、上杉謙信の作戦どおり徹底的に行われます。
再び手取川を渡って戻ろうとする織田軍ですが、混乱の中の退却により織田の兵士は次々と濁流に流されていったのです。
結果的に織田軍は、約4千人という大量の死傷者と溺死者を出したのでした。

織田軍が上杉軍に大敗したのは、柴田勝家が七尾城の落城や上杉謙信と浄土真宗(一向宗)が同盟関係にあったことを把握できていなかった、羽柴秀吉の進言を無視して進軍を強行したなど幾つもの敗因が重なったものと考えます。

この手取川の戦いは、織田と上杉の最初で最後の大きな戦いとなります。
上杉謙信による周到な準備と奇襲攻撃ともいえる総攻撃によって、織田軍は何もできないまま大敗することになったのです。

合戦のあと、上杉軍は越前北部まで一気に進攻したと言われています。
しかし、翌年の1578年(天正6年)3月に春日山城で脳溢血に倒れて帰らぬ人となったのです。

戦国時代を代表する上杉謙信と武田信玄は、上洛するために織田信長を追い詰めました。
しかし、2人は偶然にも道半ばでこの世を去ってしまったのです。
織田信長は、強運を持ち合わせていたのかもしれません。

上杉謙信が亡くなったことで、東からの脅威が消えた織田信長。
石山本願寺を中心とする畿内の敵対勢力の一掃に取りかかるのでした。

(寄稿)まさざね君

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