服部半蔵とは【どうする家康】伊賀忍者を率いた鉄砲奉行~わかりやすく3分で要点解説

服部半蔵とは

服部半蔵 (はっとり-はんぞう) は戦国時代の伊賀出身の武将で忍者の頭領を務めた一族であったとされる。
服部氏は古代に伊豆国を支配した伊豆国造の一族で、伊賀国阿拝郡服部郷(伊賀市)にある小宮神社の神主だったとされる。
のちに三河へ移って松平清康松平広忠に仕えたのが初代の服部半蔵保長(服部保長)という事になる。
その服部保長の子が服部正成 (はっとり-まさなり) と言う事になるのだが、通称の名である「半蔵」を代々継いだ。(半三と書く場合もある)
この記事では服部半蔵として一番有名な2代・服部半蔵(服部正成)に関してご紹介する。

2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」では俳優の山田孝之さんが服部半蔵を演じられる。
しかし、ちょっとドジな設定になっているようで、いつも失敗していた言うドラマ上での創作となっているようだ。

服部半蔵(服部正成)は、1542年に三河国伊賀にて服部保長の子として生まれたとされる。
1548年、6歳になると大樹寺に預けられたとされる。
しかし、出家するのを拒否したとして天文20年(1551年)に大樹寺から出ると、兄らの世話を受けたようだ。
初陣とされるのは16歳のとき、1557年、松平勢が三河・宇土城(上ノ郷城)を攻撃した際となる。

伊賀忍者の上忍三家として有名なのは服部半蔵、百地丹波百地三太夫)、藤林長門守であった。
また「上忍」「中忍」「下忍」と3つの身分制度があり、上忍は総指揮、中忍は部隊指揮、下忍は実行部隊と言えるが、いずれも武士の一種だ。
ただし、伊賀衆の戦術は、夜襲するか、密かに忍び込んで火を放つのが中心だったため「忍び」と呼ばれるようになった。
なお、神谷権六なる忍者が忍びの名人で「大鼠」と呼ばれており、服部半蔵(服部正成)を助けていた節があるようだ。

永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで、服部半蔵(服部正成)は渡辺守綱らと徳川家康(松平元康)の旗本馬廻衆となっている。
永禄6年(1563年)、三河一向一揆になると、一向宗から改宗し服部半蔵(服部正成)は松平勢として戦った。
1569年、掛川城の戦いでは渡辺守綱(槍半蔵)、内藤正成、本多重次、榊原忠政らと参じ、姉川の戦いでは一番槍の功名を挙げている。
敵味方より「鬼半蔵」と呼ばれた槍の使い手であった。

1572年、武田信玄との三方ヶ原の戦いで、服部半蔵(服部正成)は大須賀康高の軍勢にいて一番槍となっている。
しかし、徳川勢は敗走し、服部半蔵(服部正成)は顔と膝を負傷するも、大久保忠隣、菅沼定政らと徳川家康を守りつつ浜松城に帰還した。
徳川家康は褒美として槍を贈り、伊賀衆150人を預けた。

服部半蔵(服部正成)の妻は長坂信政の娘で、1576年頃に長男・服部正就が生まれている。

1579年、松平信康(徳川家康の長男)が織田信長の命にて遠江・二俣城で自刃となった際の検使として服部半蔵(服部正成)が派遣されている。
松平信康の介錯は渋川四郎右衛門の予定であったが、渋川四郎右衛門は介錯できず代わりに服部半蔵(服部正成)が介錯することになった。
しかし、服部半蔵(服部正成)も涙で松平信康の首を打ちかね刀を投げ捨てたので、代わり天方道綱が介錯したとされる。

1580年、高天神城攻めに援軍として駆けつけたいた織田信長の家臣で大垣城主・氏家直昌の家来と、徳川家の家来がケンカとなる。
このとき、浜松城下にいた服部半蔵(服部正成)は、頼まれて徳川家の家来に加勢し、双方に死者が出たと言う。
そのため、織田信長からの咎めを警戒した徳川家康は、服部半蔵(服部正成)を説得して浪人とし一族を逃がせたとされる。

1582年、明智光秀により本能寺の変となると茶屋四郎次郎とともに服部半蔵(服部正成)は伊賀・甲賀の土豪を説得。
徳川家康と酒井忠次石川数正本多忠勝井伊直政榊原康政・石川康通・大久保忠隣・菅沼定政・阿部正勝・牧野康成・高力清長・渡辺守綱・菅沼定利永井直勝・松下光綱らの一行を、栗という場所から伊勢・白子まで導き、三河・岡崎城まで護衛した。
もう少し詳しく記載すると、服部半蔵は甲賀・伊賀の国境にある多羅尾峠を越えて伊賀に入り、忍者たちの救援にて岡崎に戻る策を進言したとされる。。
直ちに甲賀・信楽庄の多羅尾光弘(多羅尾四郎兵衛光弘)を訪ねて保護を頼み、高畑山頂に狼煙を挙げて甲賀・伊賀の忍者300名余りを召集したとも。
この時、徳川家康に従った伊賀衆は伊賀同心・甲賀同心となり300名が隠密として仕えている。
本能寺の変のあと別行動した穴山梅雪は土民の襲撃を受けて殺害された。

こうして徳川家に復帰した服部半蔵(服部正成)は天正壬午の乱の際に、伊賀衆を率いて甲斐・江草城(獅子吼城)を守備している。
また、伊賀衆200人を率いて甲斐・谷村城(山梨県都留市)も守った。

小牧・長久手の戦いでは伊勢・松ヶ島城に伊賀・甲賀100人を率いて入り、豊臣勢を鉄砲にて迎撃。
蟹江城の戦いでも松平康忠と共に鉄砲隊にて攻撃した。
1590年、豊臣秀吉小田原攻めでは大組百人の組頭として根来衆50人の鉄砲隊を率いている。
徳川家康が江戸城に入ると服部半蔵(服部正成)は8000石となり、与力30騎と伊賀同心200人を与えられた。

江戸城の西門付近には服部半蔵の屋敷があり、有事の際には門を半蔵が守ることになっていたため「半蔵門」と呼ばれるようになった。

1592年、朝鮮攻めでも、鉄砲奉行として肥前・名護屋城に従軍。

1596年(慶長元年)11月14日に服部半蔵(服部正成)は死去。
江戸麹町・清水谷の西念寺に墓所がある。
その後、江戸城の拡張工事のため1634年(寛永11年)頃に西念寺は現在地に移転したとされている。
服部半蔵正成の墓は、本堂右手の墓地入口すぐ左手にある。

服部半蔵正成の墓

江戸幕府の体制が整うと忍者は警護・護衛などの職務となり組織の中に包み込まれた。
服部半蔵正成の子・服部正就(服部半蔵正就)は配下を統率できず失脚している。
ただし、服部半蔵家は半蔵の名を世襲し桑名藩の家老として明治まで続いた。

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