「戦国大名」(各地の武家の棟梁)と「国衆」(在地武士団)が彩った戦国期日本

 16世紀全般の戦国期、日本に数多存在した村落その集合体である郡に割拠、独自の一門・譜代・被官から構成される「家中=独自の軍事力」を有し、一円的/排他的に領地支配をしていた領域権力者こと『国衆』
 国衆と呼ばれる「村落貴族(地元の殿様、『戦国小名』的存在)」が、小規模なかがらも自身の支配領域内では、著名な織田信長武田信玄上杉謙信のような各地方の大物武家勢力(いわゆる『戦国大名/御館様』と呼ばれる各地方に拠る「武家の棟梁的存在」)と同様、排他的に支配体制を所持していた、ということは前の「国衆という草莽勢力」でも記述させて頂きました。





 国衆は、他の国衆の諍い、敵対大名家から領地侵害を防ぐために、戦国大名に臣従し、その大勢力から御家(家中)と領地を護ってもらうための軍事支援を受けられる『領地安堵』を画策していました。
 領地安堵のために国衆は、戦国大名に隷属し、それが要求する「軍役(軍事力供出)」や「課役(城普請などへの労働力提供など)」に応えた上、大名家へ従う証として、国衆惣領家は血族者から人質をも差し出したのです。
 大なる戦国大名に御家と領地を護ってもらうために、国衆の惣領家当主は大名家が要求する役を果たし、人質を差し出すなどを展開する国衆の生き残り戦略は、(他の記事でも何度も記述するように)、正しく己の所領を護るために命と労力を懸ける『一所懸命』であります。
 周知の通り、戦国期は大名家・国衆、それらの下の地侍の小規模武士など日本全国に数多な大小の武家勢力が濫立した「武士最盛期」とも言えるのですが、それぞれの武家勢力が時には合し、また或いは相対することで、戦国社会を構成していました。
 これも周知の通りなのですが、本格的に武家社会が勃興したのは、12世紀末~13世紀初期(平安末期から鎌倉初期)であり、流人ながらも軍事貴族出身の源頼朝が東国武士団(坂東武士たち)の推戴により、のちに鎌倉幕府と呼ばれる東国武家政権を樹立してからであります。そして、その数十年後、鎌倉幕府2代執権北条義時が承久の乱(1221年)にて、東国武家政権より遥かに絶大的な権威を有していた京都朝廷(後鳥羽上皇)を降したことにより、武家社会は全国規模に浸透することになったのであります。
 正しく、昨年(2022年)話題となったNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の時代背景であり、源頼朝の武家政権確立・北条義時の承久の乱の勝利は、当時田舎であった鎌倉を拠点とする武家政権(東国政権)が、伝統権力にして日本一の権威であった京都朝廷(西国政権)に対して、一種の下剋上を敢行したようなものであります。
 武家の棟梁(後の鎌倉殿)となる源頼朝が、農場主(開拓農民)であり武装集団である東国武士団(後の鎌倉御家人衆)の「御家(家中)の保全」と領有する「農地農村の保証」をすることにより、武士団は頼朝を武家の棟梁/鎌倉殿として敬い、頼朝が出す出陣命令に従うのであります。この頃から、武家の棟梁と武士団の両者が、互いの存続のために果たす『双務関係(頼み頼まれる関係)』が誕生しているのです。
 武家の棟梁・源頼朝を頂点にして、次いで比企能員北条時政などの各地の有力御家人(宿老)が控え、比企・北条の下には、それらに従う多くの中小武士団が存在する、という「東国ピラミッド」(故・永井路子先生の造語)の仕組みを、武家政権の心臓部となる『封建制』と言われているのは周知の通りです。
 この12世紀末に田舎であった鎌倉で誕生した『武家政権=封建体制』は、次の足利尊氏主導の下、京都に誕生した室町幕府にも引き継がれ、将軍家(武家の棟梁)は麾下の武士団の家中と領地を安堵することが何よりも重要な義務でした。
 15世紀末の応仁の乱などの混乱期を経て、室町幕府(足利将軍家)の棟梁としての権力が大きく後退すると、地方の守護大名や守護代が幕府に取って代るように、各地の「武家の棟梁」的存在に変貌、在地の中小武士団(国衆や地侍など)の家中と領地を安堵し、武士団を傘下に加えることに、大名や守護代は各地方の大勢力となってゆきます。
 上記のように、国衆など中小武士団を従え、自身の軍事力や権力を構築維持に成功した日本各地の武家の棟梁こそが『戦国大名』であり、この勢力が濫立した社会情勢こそが、いわゆる群雄割拠の戦国時代と呼ばれています。
 前掲の武家勃興期と言うべき鎌倉期には、鎌倉殿の源頼朝が唯一無二の武家の棟梁として君臨し、東国武士団の存在意義を保証(安堵)することにより、棟梁に必要な軍事力(東国武士団が提供する兵力)を持ち、権力を保っていましたが、時を経て、16世紀の戦国期になると、武家の棟梁としての鎌倉殿の役割は、「各地の戦国大名(俗に御館様)」が受け持ち、大名家に軍事力を供給する東国武士団の役割は、大名家の安堵されている各村や一郡を有する「国衆」が担うようになったのであります。
 武士という農場主兼大地主、即ち村落貴族を生業して、普段は自身の村落の館で居住しており、有事の際のみ武家の棟梁(鎌倉殿・将軍家)の命令で、武士たちは自身の村落から手勢を引き連れ、棟梁の下へ駆け付けるという鎌倉期および室町初期の武士たちは、『中世的武士団』と評されることがあります。
 『いざ!鎌倉!』という有名な文句は、自身の村落に住まう武士(御家人)たちが、鎌倉殿の命令があり次第、武器や兵力を整えて武家の首都・鎌倉に駆け付けるという中世的武士団の姿を言い表した至言であります。
 この中世的武士団の形態を歴史学者の磯田道史先生は、ご自身の著書で『(中世の武士たちは)呼ばれたら(棟梁の下へ)行くよ』(*括弧内の文は筆者注)と評されておられますが、前掲の戦国期おける「戦国大名(鎌倉殿代役)」「国衆(鎌倉御家人代役)」の双務関係も、同質の中世的武士団の勢力ばかりであります。
 国衆という戦国期に数多存在した村落貴族たちも、原則的に自身の村落に居館や城砦を構え、普段はそこで暮らし、領地の統治に勤しんでいます。国衆は従属先である大名家の本拠地(城下町)にも拠点(屋敷)を持っており、定期的に国衆もそこに出張して大名家に出仕することもありましたが、飽くまでも国衆の活動拠点は自身の農地農村でした。
 鎌倉期から約3世紀の時が経て、農商工などの技術が発展、国内人口や武家の数が増大するなど、鎌倉期より遥かに社会情勢が変革した戦国期でも、日本各地に割拠する戦国大名と国衆の双務関係を母体とする(前掲の)「中世的武士団」によって日本各地の勢力は成り立っていました。
 即ち、その典型的かつ好例が、甲斐武田氏・越後上杉氏・駿河今川氏・安芸毛利氏など各地方の群雄たちがそうであります。
これらの有名戦国大名たちは、大名当主(武家の棟梁/御館様)が勢力の頂点となり、その真下に大名家に連なる「庶家(一門衆)」「譜代」が少数存在し、そして、その下部には各地の村落貴族である「国衆」(外様衆)が多く存在、次いで「地侍」、最下層に国衆や地侍が保有している「武家奉公人(足軽・中間など)」が最多数存在することによって、大名家家中を構成している『ピラミッド型/封建制』であり、鎌倉期から端を発している中世武士団を母体としています。
 甲斐武田氏の場合だと、大名家当主は勿論、武田信玄が該当しますが、その直下の庶家(一門衆)は、信玄実弟の武田信繫、信玄庶子の諏訪勝頼、信玄の娘婿の穴山信君であり、譜代家臣では、父祖の代から武田氏に仕える小山田信有飯富虎昌や甘利虎泰らが当たり、外様となる国衆は、有名な信州の真田幸綱(真田幸隆)はじめ依田信守などであります。
 因みに、甲斐武田氏では、国衆の事を『先方衆』と呼称されていたことは有名であり、上掲の真田や依田など信濃国衆(甲斐武田氏の外様衆)は、信濃先方衆と通称されていました。





 甲信地方の覇者(甲信における武家の棟梁)である甲斐武田氏当主の武田信玄の本拠地は、甲斐国府中(即ち甲府。更に厳密に言えば躑躅ヶ崎館)であり、一方、国衆の1つである信州真田氏当主・真田幸綱の本拠地は信濃小県郡真田郷(松尾城)であることは、周知の通りです。
 真田幸綱は、本貫地である真田郷に城砦と居館を構え、真田氏独自の家中(庶家や譜代)と軍事力を持ち、信濃小県郡の大半を一円的に領有する国衆でした。その統治権を確固たるものにするために、真田幸綱は甲信に武威を張る名門大名家・甲斐武田氏に従属して、当主・武田信玄から真田郷を含める小県郡領有の安堵を得ていました。
 甲斐武田氏に従属した以上、真田幸綱は、当時の戦国期を生きる国衆の掟(忠誠の証)として、自身の子息たち(後の真田昌幸真田信尹兄弟)を人質として、甲斐武田氏の本拠地の甲斐府中に送り、幸綱も躑躅ヶ崎館の城下町に屋敷を構え、定期的に甲府へ出仕しています。
 しかし、躑躅ヶ崎館にある真田幸綱屋敷は、真田氏の甲斐国内にある活動拠点の1つではありますが、前掲のように、信濃の真田郷を本拠とする国衆当主である幸綱にとって甲府所在の屋敷は、「別邸」兼「駐在所」兼「大使館」のような存在であり、年がら年中、幸綱自身が在住し、(強いて言えば月給取りサラリーマンのように)、大社長である武田信玄の側近くに侍って、信玄主導の合戦に出撃していたわけではありません。
 飽くまでも自己保有の領地と城砦を持つ国衆当主(強いて言えば、名門大企業・武田会社の傘下子会社社長的存在)である真田幸綱本人および真田氏の本拠地は、信濃小県郡一帯であり、幸綱に対して同地の領有を公式上の是認(安堵)している以上、戦国大名・武田信玄も幸綱を甲府の屋敷に強請的に居住させることは不可能であります。
 武田信玄や真田幸綱の活動期(1570年代前半まで)とほぼ同時期および後年となる近世初期の織田信長・豊臣秀吉、そして徳川家康など三英傑のように、大名家自身が強大な権力と大名直轄の軍事力を持つ「近世的戦国大名」の活動期になると、武士たちは全員、武家の棟梁(将軍家・大名家)に絶対的忠誠を誓い、大名家居城の城下町に集住すること、即ち「兵農分離(武士を農地農村から切り離す)」が自然の理となりますが、武田信玄・真田幸綱の戦国群雄割拠・国衆活動最盛期では、それは不可能であります。
 戦国期の地方大名家である武田信玄が、(後世の近世的大名のように)、真田幸綱・依田信守をはじめとする信濃国衆などを一網打尽にするが如く、甲斐武田氏の本拠地である躑躅ヶ崎館の城下町に強権的に居住させ、年がら年中、武田総本社のみへの出社命令を出したりすることになると、間違いなく傘下の国衆から反発や造反者が出ることになります。
 国衆当主たちからすれば、自身の領地と家中の保全のみが目的で、その願望を叶えてくれる武家の棟梁・甲斐武田氏へ従属し、武田軍の出陣要請など様々な命令に応じているにも関わらず、大名家当主である武田信玄が国衆当主たちを本領から永久的に分離し、甲斐武田氏の本拠・甲府に居住させることを強制執行すると、国衆から領地の統治権を剥奪することを意味しており、これは傘下国衆の存在意義を安堵するのを第一義務としている棟梁・武田信玄の明らかなる規約違反であります。
 武家の棟梁/戦国大名である武田信玄からしても、傘下国衆が増加することにより、甲斐武田氏の武威と権威、支配圏が高まる上、また合戦勝利で敵方の領地(闕所(けっしょ))を獲得した際にも、現地の国衆に恩賞として新地を与え統治を委任することにより、国衆の武田氏に対する忠誠心が高まる上、大名自身も、今まで敵方支配であった現地領民や農地などの至極面倒な統治管理から解放される利点がありました。
 以上のように、戦国期全盛に活動した大名家と国衆の関係は、後世の兵農分離・武士城下町集住を旨とする近世的大名とは違い、晩年期の武田信玄は甲信地方の覇者的地位にあり、壮年期の織田信長や徳川家康を大いに苦しめるほどの名将でありながらも、武田軍の中核を成している甲信の国衆たちの立場を尊重し、この存在を信玄直轄の軍事力・子飼い武将のように完全なる甲斐武田氏支配の家臣団するような強権的な武家の棟梁・戦国大名にはなれなかったのです。
 因みに、戦国大名が居城城下町に傘下国衆を集住させ、大名家の権限を異様に高めることは不可能でしたが、それは17世紀初期の近世になってから実現されるようになります。それが江戸幕府であります。
 「江戸幕府(徳川将軍家)=武家の棟梁の総元締的存在」は、「諸藩の藩主たち(各地の国衆当主的存在)」に、定期的に江戸へ出府させる『参勤交代』を武家諸法度で義務付けさせますが、これは諸藩の財政力を削減するのを幕府は第一目的としていましたが、もう1つの別の目的は、各地の藩主たちを幕府のお膝元である江戸(各藩の藩邸)に集住させ、彼らに武家の棟梁の総元締たる江戸幕府=徳川将軍家に対し奉り、臣下の礼を定期的にとらせる一種の政治的儀式の側面もありました。





 
 傘下国衆が供出する軍事力によって強大を誇った武田信玄を頂点とする甲斐武田氏は、武家政権の開祖である源頼朝(鎌倉殿)が東国武士団(鎌倉御家人)の推戴/ボトムアップにより、武家の棟梁となり、源家による武家政権を創設した例と同様、正しく『中世的武士団の戦国大名』であり、この事は信玄の武田氏のみに限った話ではなく、信玄の宿敵関係にある上杉謙信の越後上杉氏、中国地方の覇者となる毛利元就の安芸毛利氏も各大名家に従属する国衆によるボトムアップによって、各地の覇権を確立していました。
 安芸毛利氏に至っては、同氏が元来、安芸吉田荘を本拠とする国衆から中国地方の武家の棟梁となった身上なので、武田や上杉に比べ、より中世武士団らしい戦国大名と言えるかもしれません。(実際、関ヶ原合戦時の毛利軍の動きの緩慢さが、国衆寄せ集めの軍団であることを象徴しています)
 因みに、中世武士団の大名家体質からの脱皮を図り、大名家による集権体制(後世の近世的大名)を敢行してしまったために、傘下国衆の信用を失墜させたことが、自滅の一因となった悲劇的な名将が、武田勝頼(旧名:諏訪勝頼)、即ち武田信玄の後継者であります。
 在地在郷を原則とする国衆の軍事力に依存していた旧来の甲斐武田氏体制を刷新するために、亡父の跡を継いだ新星・武田勝頼は、側近衆の登用、新府城築城と同地への本拠移転などを敢行しましたが、結局はこれらの事々が父から傘下にある武田譜代家臣や国衆の反感を買ってしまい、勝頼を頂点とした戦国大名・甲斐武田氏は、僅か約9年(1573年~1582年)で滅亡することになります。
 尤も、武田勝頼が滅んでしまったのは、国衆への対応失敗以外にも、勝頼にとって様々な不幸的要素が重なってしまったのも原因ですが、甲斐武田氏を支えていた国衆の離反が抑止できなかったことが、その大きな1つとなっていることは間違いありません。
 NHK大河ドラマ『どうする家康』では、若手実力派俳優の眞栄田郷敦さんが、若き名将・武田勝頼を演じられ、父・武田信玄(演:阿部寛さん)と同様、主人公である徳川家康を散々と苦しめる名将ぶりをドラマ上で発揮していますが、その勝頼が何故どのようにして、国衆や武田譜代に見放され、甲斐天目山で不幸な結末を迎えることになるか、今後の展開が楽しみでもあります。

 国衆の存在は戦国大名と比較すると、いかにも国力や兵力が弱い、独立独歩では戦国期に存続できない「小規模な武士/戦国小名たち」ではありますが、大名家の傘下に属することによって、その勢力内における貴重な軍事力と領国統治を担っていたのであります。また、一個一個の国衆は微々たる存在ではありますが、お互いに結束し、大なる大名家と対峙するという『国衆一揆』を結成する場合もありました。
 国衆連合体というべき国衆一揆により戦国大名に成り上がった例として、最も有名なのが、安芸国衆を出自とする毛利氏の毛利元就でありますが、1557年(弘治3年)、元就は他の安芸有力国衆11家と連判状を交わし、安芸国衆一揆として、結束を固めることを誓い合っています。
 1557年と言えば、当時の毛利元就は、本貫地である安芸国・備後の2ヶ国をはじめ、旧主であった名門戦国大名・大内氏を滅ぼし、その本領であった周防・長門の2ヶ国をも併呑した山陽地方の最大戦国大名と成り上がっていたにも関わらず、元就は安芸国衆と円滑な連携を図るために、「毛利氏と安芸国衆は同等の存在である。仲間である。」と強調し、国衆一揆の連判状を交わしているのであります。
 余談ですが、この毛利元就と安芸国衆が交わした連判状が、元就をはじめ他の国衆が円形状に花押(署名)した形式が、有名な『傘連判状(からかされんぱんじょう)』であります。
 傘連判状と言えば、江戸期最大の農民一揆とされる美濃国の郡上一揆(郡上宝暦騒動)を主導した郡上藩内の農民らが署名した傘連判状が有名ですが、本来の傘連判状は、同等の武士領主たち(国衆)が、互いに結束し合うために用いられた物であります。





 小なりと雖も、大名家の軍勢の一翼を担い、御家の領国統治に寄与してくれる国衆は、戦国大名にとっても無視できる存在ではなく、国衆の意向(特に、彼らの領地保全)を尊重することは必須でした。もし大名家が、国衆の意向に沿えない場合は、国衆は敵方の大名家に鞍替えするか、もしくは前掲の毛利元就のように、国衆が連携を強化して、一揆衆となって大名家に立ち向かって来る場合もありました。
 国衆も、その大名家の立場や戦略を踏まえて、自身の領地と家中の存続のため、際どいサバイバル戦略を展開してゆきました。それを具現化し、かつ大成功したのが、中国地方の毛利元就であり、他には、信濃国衆の真田幸綱、その三男であった真田昌幸たちでありますが、彼ら中小勢力であった戦国期の国衆が、如何にして乱世を生き残ったのか?次回、機会があれば、その事についても追ってゆきたいと思います。

(寄稿)鶏肋太郎

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