本多重次「一筆啓上」良薬は口に苦し~鬼作左の怒りは主と徳川のために
皆様、こんにちは。まずは、こちらの文章、皆様はご存知でしょうか。一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ この文章、実は日本一短い手紙とされています。これは戦国武将の本多重次が戦場から妻に宛てた書状...
皆様、こんにちは。まずは、こちらの文章、皆様はご存知でしょうか。一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ この文章、実は日本一短い手紙とされています。これは戦国武将の本多重次が戦場から妻に宛てた書状...
5歳の時に疱瘡に掛かり、一命は取り留めるものの右目を失った梵天丸。米沢にて虎哉和尚や片倉景綱に鍛えられた伊達政宗は、1579年、13歳の時に三春城主・田村清顕の娘である愛姫(12歳)を正室に迎え、父・...
上杉景勝と最上義光の確執戦国時代の1598年(慶長3年)上杉景勝は、豊臣秀吉の命令で越後から会津へ移封します。これにより、会津、安達、信夫、伊達、置賜及び庄内が上杉領となり、120万石を治める日本有数...
戸田勝成とは戸田勝成は、戦国時代の武将です。慶長5年(1600)、徳川家康と石田三成が今後の世を担う天下分け目の戦い・関ヶ原の戦いが起こります。結果は西軍の敗北で幕を閉じ、多くの石田三成や大谷吉継とい...
藤原惺窩とは江戸時代の我が国では儒教、とりわけ朱子学が重んじられた事で有名ですが、その基礎が築かれたのは戦国時代の後半を生きた、ある学者によるものでした。その学者こそが、本稿で紹介する藤原惺窩(ふじわ...
徳川光圀徳川光圀(とくがわ みつくに)は、江戸時代初期、1628年に水戸藩主・徳川頼房の3男として、水戸城下で生まれました。母は、側室・久子 / 高瀬局 (佐野城主・佐野信吉の家臣である谷重則の長女・...
天正壬午の乱1582年(天正10年)3月に織田信長・徳川家康・北条氏政の侵攻を受けて、真田家の主君・武田氏は滅亡。3ケ月後の1582年(天正10年)6月に明智光秀の謀反による本能寺の変で織田信長と嫡男...
卑賎の身分から全国初の天下人となった豊臣秀吉が、覇者・織田信長の衣鉢を継いで、「地方大名統制の強化」・「茶道絵画の保護」・「近世城郭建築・城下町設計の推進」・「全国の鉱山開発」など、政治文化など多方...
日明貿易と寧波の乱日明貿易は室町幕府第3代将軍・足利義満と明の間で1401年(応永8年)から始まった朝貢貿易で、貿易船の身分を勘合符で証明したことから、勘合貿易とも呼ばれています。そもそも日明貿易は歴...
信長包囲網京を追われ中国地方の毛利輝元の庇護を受けていた将軍・足利義昭。毛利輝元に信長包囲網への参加を再三にわたり要請し、第三次信長包囲網を築こうとします。この段階で織田と毛利は敵対関係になかったため...