宍戸隆家の生涯~毛利家を支えた毛利元就の娘婿

宍戸隆家とは

宍戸隆家(ししど たかいえ)は1517年に安芸国(広島県)で誕生しました。父・元家は隆家が誕生した翌年に戦死したため、祖父である元源が父親代わりとして隆家を養育しました。

 宍戸氏の先祖は「鎌倉殿の13人」で度々登場した八田知家です。八田氏は常陸国(茨城県)にある宍戸郷に居住していたことから、宍戸氏を称していました。南北朝時代には足利尊氏に従って各地を転戦し、のちに尊氏の命令によって安芸国に移り住むことになり、以降は安芸国の国人領主となりました。

 隆家の居城である五龍城は毛利氏の吉田郡山城から約5~6㎞程度の目と鼻の先に位置しており、祖父・元源と元就の父・弘元は度々刃を交えていました。当時の安芸国は国人領主が乱立しており、一国としてのまとまりに欠けていた安芸国は隣国の守護大名である周防国(山口県)の大内氏や出雲国(島根県)の尼子氏の標的になっていました。当時の宍戸氏は尼子氏の陣営についていたこともあり、大内氏に従属していた毛利氏と戦闘を繰り広げていたと伝えられています。

 しかし次第に尼子氏による安芸国への侵略が激しくなると、毛利家の当主となった元就は国人領主の結束を固めるべく元源との和睦を模索しました。元源は和睦に応じ、隆家は元就の娘を娶ることになりました。やがて1538年には老齢の元源が隠居し、隆家が家督を継ぎました。家臣の讒言を信じて後見役の叔父を殺害し、一時期は失明するという事態に見舞われたようです。





 1540年に尼子晴久が元就の吉田郡山城攻めを決定すると、元源・隆家は備後路を南下してくる尼子軍に備え、備後国(広島県東部)国境の守りを固めました。やがて元源の弟・深瀬隆兼が守る祝屋城に尼子軍の精鋭部隊である新宮党が押し寄せると、元源・隆家も援軍に駆けつけ、地の利を生かして新宮党を撃退しました。新宮党は当時としては非常に強い武闘派集団で兵力も約3,000人と言われていますので、この勝利は吉田郡山城の毛利軍を大いに勇気づけたと推察します。

 大内軍の援軍もあって吉田郡山城の籠城戦で勝利した元就は安芸国の支配を確立し、大内義隆を自刃に追い込んだ陶晴賢厳島の戦いで破った後は名実ともに中国地方の覇者として君臨します。娘婿である隆家は元就に重用され、隆元・元春・隆景の三人の息子と同様に一門衆として遇せられることになりました。吉田郡山城を毛利一族が留守にする際は隆家が留守居役になるなど、毛利一族の信頼は相当高かったようです。

 隆家の毛利家一門としての活躍は四国の伊予国(愛媛県)に及び、隆家はやがて伊予国の河野氏に娘を嫁がせます。豊臣秀吉の四国攻めによって河野氏は降伏しますが、関ヶ原の戦いを起因とした三津浜の戦いでは、隆家の孫である河野道軌が総大将として担ぎ上げられます。この戦いは東軍である加藤嘉明藤堂高虎の留守を狙った伊予国での河野家再興の戦いです。

 時間軸を1560年代に戻すと、隆家は元就から孫の輝元に娘を嫁がせるよう依頼を受けます。家臣からは一家臣の娘を将来の当主に嫁がせることに強い反対意見が出ていたようですが、元就はその意見を押し切ってこの婚姻を実現させています。元就の隆家に対する一門衆としての信頼感、他の家臣とは別格の扱いをしていることがこの動きで推察することができますし、毛利家における隆家の位置づけは「毛利元就御座備図」において、元就の次男・吉川元春と三男・小早川隆景と同列に描かれていることに如実に現れています。

 その後も隆家の毛利家への忠誠は揺るぎないものであり、宍戸家は毛利家一門衆の筆頭格として位置付けられました。隆家は1592年に74歳で死去し、孫の元続が跡を継ぎました。隆家には元秀という息子がいましたが、病弱のため廃嫡されていました。

 関ケ原の戦いの敗戦によって毛利家は周防国・長門国(山口県)の二か国に減封となり、宍戸家も父祖代々の五龍城を去って萩に移り住むことになりました。以降も毛利家を支え続けました。

 五龍城は山城ですが、標高はそんなに高くなく、国道沿いに位置するため城めぐりとしては見つけやすいところにあると思います。
 城跡付近には「千貫水」という水汲み場があり、自由に汲むことができます。





水不足に陥りやすい同地にあって隆家が「値千貫も換え難し」と言って名付けられたと言われています。毛利家の吉田郡山城とセットで訪問すると、毛利家と宍戸家のつながりをより実感できるのではないでしょうか。

(寄稿)ぐんしげ

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