尼子経久の生涯~深慮遠謀で山陰を席捲した名将

尼子経久(あまご つねひさ)は1458年に尼子清定の嫡男として出雲国(島根県)で誕生しました。当時の尼子氏は出雲守護代であり、出雲守護の京極氏に仕える身分でした。
 経久は幼年期に京極氏の人質として京都に送られ、5年間京都で滞在生活を送りました。主君・京極政経の「経」をもって偏諱して経久となった後に出雲国に帰国、1477年には老齢の身となった父・清定の後を継いで尼子氏の当主になりました。





尼子経久は出雲国、隠岐国(島根県)の段銭、つまり本来は朝廷や幕府に納めるべきお金を横領したことから出雲守護代を罷免され、居城である月山富田城を一度は追放されます。しかし軍略に長けていた経久はすぐに月山富田城を奪還し、周辺の国人領主を調略しながら出雲国での地盤を着々と固めます。
 経久が常に重視したのは社寺対策でした。出雲国は「神国」と言われ、神との縁が深い土地です。経久は出雲国を統治する上で出雲大社の存在を重く見ており、出雲国の二大宗教勢力である出雲大社と鰐淵寺(がくえんじ)に対して神仏習合策を講じていました。具体的には出雲大社の社殿造営、鰐淵寺には三箇条の掟書を発出することで鰐淵寺内部への介入を宣言しました。こうして出雲国の宗教勢力と結びつきを強くしながら、国内の統制を図っていきました。
 出雲国を地盤として勢力拡大に向けて活発な行動を続けていく中、経久に不幸が訪れます。嫡男・政久が出雲国で叛旗を翻した大東阿用城攻めの際に戦死しました。政久は武勇に優れて教養のある武将と言われており、61歳にして後継者を失った経久は絶望に打ちひしがれました。その後、経久は次男・国久、三男・興久とともに大東阿用城を猛攻撃して落城させています。
 1510年代の中国地方は大内義興が大きな勢力を誇り、安芸国(広島県)や石見国(島根県)にまで勢力を伸ばしていました。経久にとって義興は”目の上のたん瘤”であり、山陰地方制覇には邪魔な存在でした。中央では室町幕府の10代将軍である足利義稙が細川政元によって将軍の座を追われて義興の元に身を寄せると、義興は周辺国の国人領主に出陣の命令を発し、京都に向けて出陣しました。まだ勢力として義興には遠く及ばない経久もこれに従って出陣したと言われていますが、山陰地方制覇に向けて早々に帰国して隣国に攻め入り、着々と勢力を拡大します。この時、経久の年齢は既に64歳となっていますが、このすさまじいエネルギーはどこから来るのか驚きを隠しきれません。
 1528年にライバルである義興が死去し、嫡男の義隆が後を継ぎました。この頃から経久は頻繁に隣国を攻略し、次々と国人領主を傘下に組み入れます。なかでも安芸国の毛利元就は国人領主の一人として経久側についていた時期がありましたが、ほどなく大内氏に与したことで安芸国の攻略が容易に進まなくなる事態に陥りました。また三男の興久が経久の処遇に不満を持ち反乱を起こすなど、75歳の老齢に達していた経久にとっては激動の時期となりました。
 その後、経久は80歳で孫の詮久(のちの晴久)に家督を譲ります。次男である国久は新宮党と呼ばれる尼子氏最強の武力集団を率い、周辺国への軍事行動を活発に行いました。尼子氏の勢力は播磨国(兵庫県)にまで達しており、大内氏と肩を並べるまでの勢力となっていますし、詮久が23歳という家督を継ぐ年齢に達していたこともあり、経久としてはここが引き際と感じての家督譲渡であったと考えられます。
 詮久の代になると、尼子氏のターゲットは安芸国の国人領主で頭一つ抜けていた毛利氏になりました。経久は毛利元就を智謀の士として警戒していたらしく、詮久の毛利攻めを何度となく諫めていましたが、詮久は聞く耳を持たずに毛利氏の拠点である吉田郡山城攻めに強硬に討って出て敗戦します。この敗戦は安芸国における尼子氏の勢力を著しく低下させるものとなりました。
 敗戦を知った経久は失望からでしょうか。敗戦の年の1541年に月山富田城で84歳の生涯を閉じました。尼子氏は詮久による新宮党粛清を機に、徐々に毛利元就の勢力に対抗できるだけの力は失われていきました。
 





尼子経久の魅力は何といっても年齢を感じさせないエネルギッシュな活動に尽きます。大河ドラマ『毛利元就』では故・緒形拳さんが経久役を演じていましたが、セリフの中で「わしは太く長く生きる」と言い切っていたのが非常に印象的でした。各地を転々として様々な世界を目に焼き付けてきた経久だからこそ、どのような困難にあっても年齢をもろともせず何事も乗り越えられる強さがあったのではないでしょうか。

(寄稿)ぐんしげ

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