甲斐の虎の西上作戦「武田信玄」一世一代の勝負

壮年期の徳川家康がしかめた表情をして足を組んでいる「しかみ像」を目にしたことがあると思います。戦上手であった家康が武田信玄三方ヶ原の戦いで惨敗し、慢心の自戒を込めて描かせたと言われています(諸説あり)。
 一方、この戦いで家康に大勝した武田信玄はどのような思いでこの戦いに臨み、西上作戦で何を目指していたのでしょうか。
 武田家はご存じの通り甲斐国(山梨県)が本拠地です。信玄の時には上野国(群馬県)の一部、信濃国(長野県)、駿河国(静岡県)、遠江国(同)の一部を領地に加えた全国屈指の大名になっていました。しかし領地が広くなれば気にしなければならないエリアが広くなります。





信玄は越後国の上杉謙信、畿内一帯を治める織田信長、遠江・三河国(愛知県)の家康といった敵対勢力に対応するため、義弟(信玄と相婿)である石山本願寺の当主・顕如、越前国(福井県)の朝倉義景、北近江国(滋賀県)の浅井長政と協調して動きが取れないように手を打ちます。
 1572年9月29日、信玄は織田信長と家康の領国である三河国、美濃国(岐阜県)に重臣の山県昌景秋山信友を侵攻させます。各方面との連携、領内への侵攻を同時期に計画・実行した信玄の作戦力には信長、家康も恐れおののいたことでしょう。
 両将が侵攻してから数日後に信玄は2万7,000人の軍勢を率いて甲府を出陣します。軍勢の数には諸説ありますが、軍勢の中の2,000人ほどは同盟国である北条家の援軍と言われています。当主・北条氏政は信玄の義理の息子ですので、舅に援軍を送った形です。出陣時期は10月あたまですが、新暦では11月中旬頃になりますので秋というよりは冬の出陣です。冬の出陣には雪深い越後国の謙信を強く意識していたと考えられます。
 山崎宗鑑の撰集である『犬筑波集』の中にある一句があります。
    都より甲斐の国へは程遠し
      おいそぎあれや日は武田殿
 「京都から甲斐の国は随分遠い。信玄殿、急いで下さい」といったところでしょうか。
 宗鑑は1554年に死去していますので、信玄の西上作戦にあたって読んだものではないことは確かですが、京都の町衆は市中でこの一句を口ずさんでいたと伝わっています。信長を京都から追い払う人物として信玄に大きな期待を寄せていたことをうかがわせます。
 また信玄自身も出陣の際に出した寺社への願文の中で、一年間は謙信と国境を接する上野国や信濃国に干戈を動かさないよう祈願しており、「一年で決着をつける」という強い決意が見えます。足利将軍家や同盟国の要請に早く答えたいという気持ちもあるでしょうが、自身の体調面に不安があることも踏まえて勝負に打って出た姿勢が見られます。
 甲斐国から京都までは確かに距離があります。現在の整備された道でも約400㎞、90時間休みなく歩いてようやくたどり着きます。当時は城を落としながら進軍していくため、休みなく歩くことなど到底できません。当時の進軍ルートとしてはいくつかあり、現在の中央道のルートである甲府→諏訪→伊那→飯田→中津川と行き、岐阜まで進むのが最短ルートです。しかしそのルートは家康の本拠地である遠江・三河両国を放置することになり、信玄としては家康に背後をつかれる可能性を想定していたと考えられます。よって最短ルートより1.5倍ほど長い距離ですが、甲府→諏訪→伊那→飯田→浜松という南進策を採用し、浜松城の家康を徹底的にたたいてから信長に相対する方針を固めています。
 甲府を出陣してから3か月近くが経過した1572年12月22日に三方ヶ原の戦いが発生します。浜松まで3か月の月日が経過していたわけですが、距離的には甲府から京都までの半分程度まで来ています。信玄は「予定通りにここまで進んできた」「思ったより時間がかかってしまった」、どのように考えていたのでしょうか。三方ヶ原の戦い後、信玄は浜松城を攻めずに西に向けて進軍しており、「家康を徹底的にたたく」という方針と矛盾がある動きをしていますが、前述の1年計画で西上を目指していたことを考えると、進軍を急ぐ以外の理由で浜松城を放置したことが想定されます。
 その後、武田軍は三河国の野田城を囲み始めます。年は明けて1573年1月11日になっていました。この野田城が小さい規模のわりに守りが固く、開城まで1か月を要しました。この頃から信玄は体調を崩し、床に伏せる日々を送ることになり長篠城近くの鳳来寺で療養に専念していました。しかし回復の兆しは一向に見られず、甲斐国への帰国を決定します。
 この帰国決定は誰が下したかということになりますが、信玄本人ではなく重臣の強い意向によって最終的に親族衆である信玄の実弟・武田信廉や息子の武田勝頼が判断したと見ています。信玄を神格化していた重臣としては信玄不在の西進作戦に意義を見出すことは難しかったのかもしれません。
 信玄は1573年4月2日に帰国途中の信濃国駒場にて息を引き取りました。死去の報は織田信長、徳川家康にも早く伝わったようで、両者ともに早々に攻勢に転じて信長包囲網は瓦解します。信長包囲網の核は武田家ではなく、信玄という一人の武将であったことを示しています。
 信玄は内外で大きなカリスマ性を持っていたことは確かですが、仮に武田菱の旗を京都に打ち立てた後のことをどのように考えていたのでしょうか。足利将軍家を護持し、同盟を結んでいた大名と継続して良好な関係を保つことができていたのか、天下を掌握するという構想を持っていたか定かではありません。
 もしくは西上作戦として、京都まで進軍するつもりはなかったかもしれません。信玄としてはとりあえず家康を倒しておけば信長政権を自然に崩壊させることができるという予測があったことはなきにしもあらずと考えています。





 西上作戦は信玄の中で様々な思惑があったにしても、これまでの信玄の生涯を賭けた一世一代の勝負でした。存命中に雌雄を決することはできませんでしたが、信長包囲網による西上作戦の遺志は信玄の好敵手であった上杉謙信に引き継がれていきます。

(寄稿)ぐんしげ

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