奥平貞勝とは
奥平貞勝(おくだいら-さだかつ)は、戦国時代の武将で、三河・久保城主である奥平貞昌の子として1512年に生まれた。
なお、奥平貞勝は、父・奥平貞昌が60歳を過ぎてからの子ともされ、その頃、奥平氏は今川家に従っていた。
奥平貞勝の正室は水野忠政の妹で、後室は菅沼定継の妹。
1530年5月、三河・岡崎城の松平清康が、宇利城を攻めた際に、父・奥平貞昌と奥平貞勝は松平勢として戦っている。
しかし、森山崩れで松平清康が死去し、松平氏が衰退すると三河は今川氏の領国となったため再び今川氏に従った。
1535年、父・奥平貞昌が死去すると嫡男である奥平貞勝が宗家を継いだ。
しかし、順風満帆ではなかったようで、1537年、同じ一族のである石橋繁昌が謀反を起こした。
そのため、奥平定雄(奥平土佐定雄、和田貞盛の次男)を三河・石橋城に派遣し郎党42人と石橋弾正繁昌を討ち取っている。
また、石橋弾正繁昌の子・石橋太郎次郎は鳳来寺へ逃れたようだが、黒谷重氏・黒谷重吉の兄弟を送って処刑したともある。
また、1548年、奥平貞勝の弟ともされる日近城主・奥平貞友が今川氏から離反すると、その所領は奥平貞勝に与えられたとされる。
このように、奥平一族の行動も統一されていないため、宗家を継いでも苦労が絶えなかったものと考えられる。
更には今川家からも信用されておらず、同1548年、今川家への人質として嫡男・奥平定能(奥平貞能)を三河・吉田城に差し出されたとある。
1556年、子の奥平定能(奥平貞能)が中心になって蜂起し秦梨城の粟生永信を攻撃したようで、同じ奥平一族の奥平久兵衛尉・奥平彦九郎・奥平与十郎らと今川家から離反して織田信長に転じた。
縁戚にあたる田峯城の菅沼氏も織田家に転じている。
また、織田家へ従属した水野信元の誘いもあったようだが、どうやら奥平貞勝は今川義元への忠節を貫いていたようである。
松平忠茂・松井忠次が反撃に出ると奥平定能(奥平貞能)は日近城まで退却。
ところが、奥平貞能の弟・奥平貞直らの活躍もあり松平勢は苦戦し、天野源太郎の屋敷に宿泊した松平元康も奥平勢から夜襲を受けるもなんとか無事と言う状況だった。
この反乱に対して今川義元は菅沼定村や本多忠俊らを派遣。
奥山氏の喉元とも言える雨山城が今川勢に攻略されるなど、約6ヶ月で三河忩劇(みかわそうげき)は鎮圧された。
反逆した奥平定能(奥平貞能)は高野山へ送ることで今川家の許しを得たようで、1558年までに奥平定能は赦免されている。
1560年、桶狭間の戦いで、奥平貞勝は松平元康(徳川家康)の与力となって、大高城への兵糧を運んでいる。
今川義元が討死すると戦線を離脱して三河・久保城に帰還したようで。
ただし、その後も奥平貞勝と奥平定能(奥平貞能)の親子は今川氏真に従っていた。
三河の武士らが次々に徳川家康に転じても最後まで今川家への忠節を誓っていたが、1568年12月、徳川家康が遠江へ侵攻した際に、奥平定能は徳川勢として参じている。
その頃には、家督も奥平定能(奥平貞能)に移り、奥平貞勝は隠居。
1571年頃、隠居の奥平貞勝が武田信玄への服属を決断すると奥平家は武田臣従となった。
しかし1573年、武田信玄が死去した可能性が高まると、奥平定能(奥平貞能)は孫の奥平信昌や末子・奥平貞治ら大半の一族を連れて武田氏を離反し、三河・亀山城から三河・滝山城に移って徳川家に再属した。
奥平貞勝が武田勝頼に通報し、奥平定能の次男・仙千代、3男・虎之介、奥平貞友の娘・おうふなど人質3人が、鳳来寺の麓で串刺し刑になっている。
武田勢は、亀穴城(三河・滝山城)を攻撃するも難攻不落であったため撤退し、以後、奥平家は徳川家康のもと生き残って行くことになる。
奥平貞勝は次子の奥平常勝や菅沼氏らと、武田勝頼を頼って甲斐に逃亡したようだが、武田滅亡後に子の奥平貞能を頼り三河額田郡に戻って隠棲。
かなりの長寿であり1595年に没した。享年84。
墓所は亀穴城(三河・滝山城)の登城口にある。
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