堀越御所討ち入りの解説~堀越公方の滅亡と伊勢宗瑞による伊豆国制圧

細川政元の反乱と伊勢宗瑞(北条早雲

伊勢宗瑞(北条早雲)による伊豆侵攻は、伊豆を手に入れるものではなく堀越公方による騒乱を治めるための出陣というのが通説でした。
しかし、管領・細川政元との関わりが深かったことから、京で起こった反乱に乗じて侵攻したというのが有力説とされています。

また、その頃の伊勢宗瑞(北条早雲)は、駿河国の今川氏親の家臣(客将)で東部の富士郡を拠点としていたため、伊豆侵攻は今川氏の総大将として出陣したとも言われています。

いずれにしても、この伊豆侵攻は、伊勢宗瑞(北条早雲)にとって関東制覇の出発点となるのです。





1943年(明応2年)
京の管領・細川政元が幕府に対して反乱を起こして第10代将軍・足利義稙を追放します。
そして、新しい将軍に足利清晃(義澄)を擁立したのです。

11代将軍・足利清晃(義澄)の祖父は6代将軍・足利義教で、父親は初代・堀越公方の足利政知ということもあり、この反乱によって室町幕府内での争乱だけでなく堀越公方との対立も鮮明となっていったのです。

堀越公方

初代堀越公方・足利政知には、3人の子供(男子)がいました。
嫡男・茶々丸、継母・円満院の間に生まれた清晃(義澄)、油童子。

本来であれば、嫡男の茶々丸が第2代堀越公方となるはずですが、幼いころより素行が悪く問題児でした。
また、継母・円満院が足利政元へ讒言したことで、土牢に軟禁されてしまったのです。

この讒言は、茶々丸の素行不良が目に余るものであったというのもありますが、堀越公方を自分の息子に継がせたいという策略もあったと思われます。
これにより、2代目堀越公方は、油童子と定められたのです。

2代目堀越公方に油童子がなることを足利政知の側近・上杉政憲が異を唱えますが、全く受け入れてもらえず自害を命じられてしまいました。
唯一の味方が自害してしまったことで、茶々丸は暫くの間忘れられた存在となっていったのです。

この時の足利政元は、足利清晃(義澄)を第11代足利将軍、油童子を第2代堀越公方の候補にすることで、関東管領・足利成氏を討伐しようとしていたのです。

1491年(延徳3年)
初代堀越公方・足利政知が亡くなったことで、忘れられた存在となっていた茶々丸に大きな転機が訪れます。

土牢に軟禁されていた茶々丸は、味方する家臣によって脱獄に成功します。
その後、継母・円満院と油童子を次々と殺害したことで、茶々丸が堀越公方となったのです。

堀越公方

しかし、長い軟禁で人との関りが殆どなかった茶々丸は、自分以外の誰も信用することができませんでした。
第2代堀越公方になった茶々丸は、次々と側近を意味なく殺害していったのです。
これにより、求心力を徐々に失って孤立していくことになるのです。

堀越御所の攻略

1493年(明応2年)
幕府から堀越御所攻略の命を受けた伊勢宗瑞(北条早雲)。
今川氏の総大将として伊豆に向け出陣します。

側近たちを殺害したことで求心力が落ちていた茶々丸でしたが、御所内は多くの兵によって厳重な警備が布かれていたため、攻城戦に持ち込むため少しでも兵を減らす必要がありました。

そこで、伊勢宗瑞(北条早雲)は、山内上杉と扇谷上杉が対立していることに目を付けました。
京の管領・細川政元を通じて古河公方を山内上杉氏に近づけます。
そして、関東管領として関東で起きている騒乱を早急に鎮めるように細川政元が激を飛ばしたのです。

堀越公方は山内上杉氏に属していたため、騒乱を鎮めるための兵の招集があり、直ぐには戻れない状態となったのです。
これにより、堀越御所の兵を減らすことに成功します。

陣立て

伊勢宗瑞(北条早雲)の弟・伊勢弥二郎は、進軍途中に葛山城に向かうと援軍100を連れ、狩野川手前で伊勢宗瑞(北条早雲)本隊と合流します。

御由緒六家(重臣)の荒木兵庫頭(彦次郎)は、兵150名を乗せた船団で伊豆に向かい江浦湊から上陸。
全員の上陸を確認後、南から堀越御所を目指したのです。
堀越御所の南にある守山に布陣すると、御所内の動きを掌握することにしたのです。





この御由緒六家は、伊勢宗瑞(北条早雲)の駿河下向に従い活躍した聡明期からの家臣で、
荒木兵庫頭(彦次郎)、山中才四郎、多目権兵衛、佐竹兵衛尉、大道寺太郎、荒川又次郎
からなります。

有名な逸話には、「この中の誰か一人が早く大名になったら、他の者はその家臣となろう。」という誓いがあります。
また、黒澤明監督の代表する映画『七人の侍』の創作題材になったとも言われています。

伊勢宗瑞(北条早雲)の本隊が堀越御所に夜襲をかけた際、茶々丸が逃亡するとすれば、守山に通じる南門が最も有力だといえました。
そのため、夜襲が始まった段階で荒木兵庫頭(彦次郎)らは南門で待ち構え、逃げる者たち全員を縄でとらえることにしたのです。

また、伊勢宗瑞(北条早雲)の主力は、堀越御所の北と南から同時に攻撃して、御所内への侵入に成功したら直ちに屋敷に火を放ち破却することにしたのです。

夜襲

伊勢宗瑞(北条早雲)らは、夜襲をかけるべく万全を期して堀越御所に向かっていましたが、周囲を巡回中の堀越兵に見つかってしまいます。

伊勢宗瑞(北条早雲)が堀越御所に向かっていることを知った茶々丸。
直ぐに守兵を御所内の主要部に着かせると臨戦態勢に入ったのです。

御所への進軍が見つかったことに気が付いていない伊勢宗瑞(北条早雲)。
予定通りに堀越御所の北と南の門に総攻撃を仕掛けます。
しかし、強固な門を破ることは非常に困難で守備隊の激しい抵抗もあり、徐々に伊勢隊の士気が下がりかけてきました。





そこで、伊勢宗瑞(北条早雲)は、干し草が大量に蓄えられた小屋があるという密告に従い、そこに向けて集中的に火矢を放つように命じます。

やがて、干し草に引火した炎が周囲に燃え広がり、簡単に消火できない状態となったのです。
一方の御所内では、消火活動に守備兵を廻さざる得ないため、手薄な場所が必然的に発生してしまったのです。

伊勢宗瑞(北条早雲)は、手薄になった所を見計らうと再び一斉攻撃を開始します。
遂に城門を突破することに成功すると、堀越御所内に勢いよく突入していったのです。

その様子を物見櫓から見ていた堀越公方・茶々丸。
堀越御所からの脱出を決断すると、僅かな供回りを連れて南門からの脱出を試みます。
南門を開けさせると堀越御所に突入してきた敵兵になりすまして守山方面へ逃げたのです。
脱出策は成功して逃げ延びることが出来ましたが、堀越御所は次々と屋敷などに火が放たれて全焼となりました。

茶々丸の最後

堀越御所を制圧後、駿河国・興国寺城から伊豆国・韮山城へ拠点を移した伊勢宗瑞(北条早雲)。
伊豆で大きな勢力を持っていた伊東氏を味方につけることに成功します。
しかし、伊豆国中部の国衆の抵抗が激しかったため、伊豆国制圧には時間を要することになります。

一方、堀越御所から逃亡した茶々丸は、山内上杉氏や甲斐国・武田氏を頼って転々としていました。
そして、伊豆での権力奪還も諦めず狙い続けていたのです。





1496年(明応5年)
武蔵国から甲斐国の吉田へ移り、駿河国・御厨へ向かった茶々丸。
御厨の国衆・大森氏を扇谷上杉氏から山内上杉氏に寝返らせると扇谷上杉氏へ局地戦を繰り返したのです。

当時、伊勢宗瑞(北条早雲)は扇谷上杉氏と友好関係にあったため、局地戦があるたびに援軍を派遣する必要がありました。
これは、伊勢氏にとって負担となっていたのです。

1498年(明応7年)
甲斐国に潜伏していた茶々丸は、密告によって伊勢氏の兵に捕縛されます。
この頃の甲斐国は、武田信縄と武田信昌の間で内訌中でしたが和睦が成立したことで、茶々丸を匿っていた武田信縄が用済みと判断して伊勢宗瑞(北条早雲)に引き渡したとも言われています。

遂に捕らえられて自害となった茶々丸。
これにより堀越公方は滅亡したのです。

伊豆国制圧

茶々丸を自害させ伊豆国中部も治めることで伊豆国を制圧した伊勢宗瑞(北条早雲)。
今川氏の家臣(客将)から伊豆国・国主となり、本格的な国造りを実施していきます。

そして、ここでの国造りが北条氏による関東支配への基盤となっていくのです
国造りでは、最初に農民が保有している農地を把握するために戦国大名として初めて検地を実施します。

この検地によって正確な農地を把握することができ、「四公六民」という農民にとって有益な減税が行われたのです。
ただ、この「四公六民」は、規模は小さいですが駿河国でも実施されていました。

また、自然災害などにより年貢を納めることが困難な農民に対しては、一時的に年貢を免除する「徳政令」も行いました。

このような善政により、荒廃していた伊豆国の土地は蘇り、農民の暮らしも以前よりも豊かになっていったのです。





農民が豊かになることで、伊勢家(北条家)の財政も豊かになり、これまで坂東(関東)で力を持っていた者たちを脅かすこととなるのです。

(寄稿)まさざね君

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