松下之綱とは
松下之綱(まつした ゆきつな)は戦国時代の1537年に生まれた武将で遠江・頭陀寺城主として今川義元に仕えた。
父は松下長則で、槍の達人で兵法者として知られる。
母は不詳。
妻は松下連昌の娘。
領地は三河国碧海郡松下郷であり、武士になると尾張・中村を出た14歳頃の木下藤吉郎が最初に仕えたのが松下屋敷の松下之綱(松下加兵衛)であったとされる。
年齢的にも、秀吉と松下之綱は同い年くらいであったと推測される。
しかし、木下藤吉郎は17歳の頃に尾張に戻ると清洲城の織田信長に仕えた。
ちなみに、井伊直政の生母である奥山親朝の娘(奥山朝利の娘とも?)は、松下之綱の兄と考えられる松下清景(松下源太郎、松下源太郎清景、松下源左衛門)に再嫁している。
また、井伊家を助けた松下常慶も、同じ松下一族と考えられる。
1560年、桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、遠江・曳馬城(浜松城)の飯尾連龍が今川氏から離反した。
今川家において松下之綱は飯尾連龍の配下だったようで、1563年、今川勢によって頭陀寺城が落城している。
その後、松下之綱は徳川家康の家臣となったが、1574年、籠城戦となった高天神城の戦いにて武田勝頼に降伏。
そして、近江・長浜城主と出世していた羽柴秀吉が召し抱えたと考えられるが、秀吉は若い頃に世話になった松下氏を忘れていなかったと言えよう。
1575年、長篠の戦いでは、羽柴秀吉の軍勢に兵100として松下之綱(松下加兵衛)が布陣している。
1582年、明智光秀による本能寺の変で織田信長が横死すると、1583年、賤ヶ岳の戦いで武功があったのか?、丹波国・河内国・伊勢国などに3000石の所領を得た。
1587年の九州攻めでも松下之綱(松下加兵衛)は兵150を率いて参陣。
松下之綱(松下加兵衛)は従五位下・石見守となって丹波国内を加増され6000石になっている。
1590年、小田原攻めのあと徳川家康が関東に移封となり江戸城に入ると、松下之綱(松下加兵衛)は遠江・久野城(袋井市)にて合計1万6000石の大名となった。
隣接する掛川城の山内一豊と、軍船を造ったと言う記録もあるようだ。
1598年、松下之綱(松下加兵衛)は死去。享年62。
家督は次男・松下重綱が継いでいる。
松下之綱の娘・おりんは柳生宗矩の正室で、1607年に柳生十兵衞を産んでいる。
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