三好吉房と妻・日秀尼(とも)の簡潔解説~豊臣秀吉のもとで出世する

三好吉房日秀尼

三好吉房(みよし-よしふさ)は、戦国時代の武将で1534年生まれ。
父・母ともに不詳で出自は不明といったところだが、尾張国海東郡乙子村の百姓、馬曳き(鷹匠の下働き)をしていたともされるが、はじめは弥助(やすけ) / 木下弥助と称したともある。
別名はたくさん見受けられ、木下弥助、長尾武蔵守吉房、三好武蔵守、三好一路、一路法印常閑、犬山殿など。
妻は木下藤吉郎豊臣秀吉)の姉・とも(日秀尼)であったため、秀吉が出世すると自身の実力とは関係なく武士に変わり豊臣一門として出世していくことになる。
桶狭間の戦いから4年後の1564年頃に、木下弥助は馬の口取りとして木下藤吉郎に仕えたようだ。

妻である木下とも・日秀尼(にっしゅうに) の父は木下弥右衛門で母は大政所
前述したとおり豊臣秀吉は弟にあたるが、豊臣秀長朝日姫は父が違うようだ。





三好吉房と日秀尼(とも)の子供下記の通り。

1568年生まれの治兵衛(豊臣秀次)は、宮部継潤の養子になったあと池田輝政の娘・若政所を妻にした。
この長男・豊臣秀次は本能寺の変のあと、若江城主・三好康長の養子になると吉房も三好姓を称した。
三好吉房の妹も、三好一族である大島親崇に嫁いでいる。
宿老として田中吉政中村一氏、一柳直末が補佐した。
そして、1591年、豊臣秀吉から関白を譲られている。

1569年生まれの小吉(豊臣秀勝)は、1590年の小田原攻めの際に山中城の戦いで武功があり、甲斐国・信濃国の2ヶ国を得て甲斐・躑躅ヶ崎館に入った。
しかし、母・日秀尼が甲斐は遠いと嘆願したため、美濃・岐阜城13万石に転封となっている。
豊臣秀勝の妻は、浅井長政お市の方の3娘・江姫。
なお、秀勝と言う武将は豊臣家に複数いたため、便宜上「小吉秀勝」と記載することがある。

1579年生まれの辰千代(豊臣秀保)は、1591年13歳のときに豊臣秀長の娘・三八女(5歳くらい)と結婚。
豊臣秀長が死去すると跡を継いで大和・郡山城主になった。
藤堂高虎桑山重晴が後見役を務めている。





1582年6月8日、明智光秀の謀反の知らせが入り、豊臣秀吉が中国大返しを行った歳には、三好吉房と小出秀政の豊臣一族が姫路城に残って留守を守った。

1590年、織田信雄の旧領である尾張と伊勢北部を長男・豊臣秀次に与えられると、三好吉房は尾張・犬山城にて10万石となった。

1591年、犬山城は次男・豊臣秀勝に渡したようで、三好吉房は尾張・清洲城に入っている。
1592年、豊臣秀次が関白に就任すると祝して、三好吉房は貴船社を造営。

しかし、朝鮮攻めの頃から暗雲が漂い始める。
1592年9月、細川忠興らと朝鮮に渡った豊臣秀勝は、巨済島にて病気になり死去。享年24。
1595年4月、豊臣秀保は十津川での溺死したともされるが急死。享年17。
1595年7月、関白になっていた豊臣秀次は高野山で切腹。
このとき、三好吉房も連座して所領没収・改易となり讃岐国へ流罪となり軟禁された。
妻・智子は難を逃れたが、嵯峨野に善正寺を建立してて豊臣秀次一族の菩提を弔っている。

1598年、豊臣秀吉が死去すると赦免され京都に戻る。
1600年、本圀寺に一音院を建立すると子供・孫らの菩提を弔った。
1612年、立派な髭を自慢したという逸話がある三好吉房(三位法印常閑)は下野国足利で死去。享年79。





1615年、大坂の夏の陣の際に豊臣家が滅亡すると、日秀尼は真田信繁(真田幸村)の5娘(母は豊臣秀次の娘・隆清院)である御田姫を匿った。
1625年、妻・日秀尼が死去。享年92。

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