松平定勝とは
松平定勝(まつだいら-さだかつ)は、戦国時代の武将で永禄3年(1560年)に久松俊勝の四男として尾張・坂部城で生まれます。母は於大の方で、俊勝は再婚相手となります。異父兄に徳川家康がおり、生後まもなくして松平姓と葵紋を賜りました。そして、家康に従い、天正3年(1575)の長篠の戦い、天正10年(1582)の天目山の戦いに従軍しました。
養子を拒否された
天正12年(1584)に起きた小牧・長久手の戦いの所戦・蟹江城合戦では、二番乗りを上げる活躍をみせます。戦後に豊臣秀吉から定勝を養子にするよう要求がきます。しかし、母・於大の方の要望で、養子になりませんでした。
於大の方がそのように言い出したのは、子たちである久松三兄弟の内、長兄の松平康元は本国に留守。次兄の勝俊は今川家と武田家の人質を経た後、三河国へ帰国する際に雪山を下ったため、両足の指を失っていました。
そのため、於大の方は自分の側に子を置いておけないことを寂しく思い、定勝の養子入りを拒みました。それにより、秀吉の養子となったのは、家康の次男である結城秀康。定勝は養子のことがあったため、家康から疎んじられたといわれています。
天正15年(1587)には、父の俊勝が死亡し、三河国の安楽寺に葬りました。天正18年(1590)には家康の関東移封に伴い、下総国小南(千葉県東庄町)3000石を賜ります。慶長5年(1600)には4000石加増され、伊勢・長島城(三重県桑名市長島町)主となります。さらに2万石加増され、2万7000石の領主となりました。
翌年の慶長6年(1601)には、3000石加増され、3万石有します。また、山内一豊に代わり、遠江国掛川藩(静岡県掛川市)の藩主に就任。慶長7年(1603)の徳川頼宣誕生に伴い、家康より定勝の幼名である長福丸を譲るよういわれます。これにより、長福丸は紀州徳川家の嫡男になる者がつける幼名となりました。また、同年には母の於大の方が病死しました。
秀忠の相談役に
慶長10年(1605)に、娘の阿姫(くまひめ)が家康の養女となり、山内忠義と結婚します。その際に、化粧料として豊後国(大分県)山田郷1000石を阿姫にあてがわれました。
元和3年(1617)には伊勢桑名藩の藩主となりました。翌年には家康が病死しますが、死の間際に徳川秀忠の相談役になるよう遺言を残したといわれています。後に江戸幕府3代将軍になる徳川家光の代で、大老職を設置した際も定勝の存在を意識していたといわれています。
家康の死後は、秀忠から敬われ、元和9年(1623)に侍従職をなるよう勧められますが、拒否。同年には左近衛権少将に任命されます。以後は桑名少将殿と称されました。そして、翌年の寛永元年(1624)に桑名城で亡くなりました。
寄稿(拾丸)
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