石田正澄を短く解説~豊臣秀頼の奏者番になった石田三成の兄

石田正澄とは

石田正澄(いしだ-まさずみ)は、石田正継の次男として近江国坂田郡石田村で生まれます。実弟には関ヶ原の戦いで西軍を率いた石田三成がいます。

天正2年(1574)頃、羽柴秀吉が近江長浜城の城主になった時から父と三成と共に秀吉に仕官しました。ただ、三成は小姓として秀吉に仕えます。そして、天正5年(1577)に秀吉が中国攻めの総司令官として中国地方に向かった際に、三成と共に従軍しました。

天正11年(1583)には、近江国高島郡(滋賀県高島市)で代官になります。また、河内国(大阪府東部)の蔵入地の代官としても活躍しました。その頃には、秀吉から北近江に1万5000石の土地も与えられました。





天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、近江長浜へ奉行として派遣されます。そこでは、鋤や鍬の農具を尾張犬山へ輸送する町衆を監視しました。そして、天正17年(1589)には、検知奉行として美濃国(岐阜県南部)の検地に携わりました。

秀吉の取次ぎ役として

天正20年(1593)から勃発した文禄の役では、いち早く九州に到着。秀吉のために肥前名護屋城に茶室を建設しました。戦時中は物資を朝鮮半島に輸送する任務で活躍します。また、三成や増田長盛たちの奉行衆の報告を秀吉に取り次ぐ役目でも活躍しました。
翌年には従五位下木工頭に任官され、豊臣姓を賜ります。以後、正澄は通称として木工頭と呼ばれるようになります。文禄3年(1594)に堺奉行に就任し、慶長4年(1599)までの年間、堺奉行を務めました。

十人衆の1人に任命

文禄4年(1595)、秀吉の養子だった豊臣秀次が謀反の疑いで切腹し、一族もろとも処刑された秀次事件が起こります。この事件の後、訴訟を受理する十人衆が新設されました。正澄は、その1人として任命されます。また、同年には河内郡に1万石を加増され、2万5000石を有しました。
慶長2年(1597)に起きた慶長の役でも、秀吉に報告を取り次ぐ役目で伏見城に残りました。その頃から、藤原惺窩や大村由己、西笑承兌といった儒学者や教養人と交流を持ち始めました。
正澄は慶長4年(1599)に豊臣秀頼の側近となり、五大老五奉行の連署にて、秀頼の奏者番に任命されます。ちなみに、奏者番には正澄の他に石川頼明や石川貞清片桐且元の3人が選ばれました。

西軍として活躍

慶長5年(1600)に起きた関ヶ原の戦いでは、父の正継や三成と共に西軍に所属します。そして、正継と佐和山城の守備に当たります。正澄は愛知川に関所を設け、西国の武将たちの東軍参戦を阻止し、西軍に参戦させる活躍を見せました。





しかし、関ヶ原の戦いで西軍が敗北した後、小早川秀秋に佐和山城を攻められます。幾度となく敵を退けた正澄でしたが、最終的に正継や長男の朝成と自刃しました。また、次男の主水正も自刃か殺害されました。

寄稿(拾丸)

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