黒田忠之の解説~黒田騒動を起こした張本人

黒田忠之とは

黒田忠之(くろだ-ただゆき)は、慶長7年(1602)に黒田長政の嫡男として生まれます。母は継室の栄姫徳川家康の養女にあたります。
慶長19年(1614)には、蟄居中だった長政に代わって大坂冬の陣に出陣。その際、忠之は関ヶ原の戦いで家康から配された長政の金羊歯前立南蛮鉢兜を与えられ、1万の兵を率いました。

父の長政は、嫡男でありながら忠之の器が小さく粗暴な性格に悩まされていました。そのため、家督を3男の黒田長興に譲る旨の書状を忠之に送ります。それだけでなく、書状には百姓になるか、商人になるか、僧侶になるかといった忠之に進路を決めさせる酷なことも記載されていました。

この内容に黒田家家臣の栗山利章は忠之に切腹を薦めます。そして、600石以上2千石未満の藩士の嫡子を集め、忠之に家督を継承させなれば全員切腹する旨の血判状を長政に送りました。長政は、事態の重さを把握し、利章を忠之の後見役に任命。元和9年(1623)に、長政の病死と共に忠之が福岡藩2代目藩主となりました。

黒田騒動勃発

忠之が家督を継いだことで、利章は諫める内容の書状を忠之に送りました。しかし、飲酒や早寝早起きの心得といった当たり前の内容だったことが、忠之を怒らせます。書状を機に忠之と利章の関係を悪化させ、忠之の側近と利章たち家老たちにも亀裂が生じます。これが三大御家騒動の1つである黒田騒動の始まりでした。

忠之は奔放でわがままさを前面に出し、筆頭側近の倉八正俊を他の家老の相談なしに家老としました。また、正俊を寵愛した忠之は、反対する長政時代の家老たちを減封や改易処分を下し、側近が牛耳る政治を体現しました。
さらに忠之は、幕府から建造を禁止されていた大型船を建造。鳳凰丸と名付けられた大型船は正俊が指揮を執りました。しかし、禁止事項を犯したことから幕府から咎められます。

黒田騒動収束

そして寛永9年(1632)、利章は忠之が幕府を転覆するつもりであると幕府に訴えます。これに福岡藩は利章が狂ったと主張。しまいには、寛永10年(1633)に江戸幕府3代将軍・徳川家光が判決を下し、藩側の主張が認められました。長きに渡った黒田騒動で利章は、盛岡藩にお預けとなり、正俊は高野山に追放となります。そして、側近中心の政治だった体制が重臣を中心とした合議制を取り、元来の政治体制に戻りました。

その後、寛永14年(1637)の島原の乱に参加し、武功を挙げています。寛永18年(1641)には、長崎が幕府直轄地に定められると、鍋島家と交代で長崎警護の任を受けました。そして、承応3年(1654)53歳で病死しました。

寄稿(拾丸)

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