車斯忠とは
車斯忠(くるま-つなただ)は、車義秀の子として生まれます。斯忠の名前は、佐竹北家4代当主・佐竹義斯から偏諱を受け、名乗り始めました。別名に猛虎があります。
車氏の歴史
驚くことに、斯忠以前のいる車家は、文明17年に岩城常隆によって滅亡していました。このときに滅亡したのは二階堂氏系の車氏。その後、常隆の弟・隆景が佐竹家の侵攻に際して車城を拠点とします。そして、隆景は車氏を称しました。この車氏は、岩城氏系車氏ということになり、斯忠は隆景のひ孫にあたります。
斯忠は、父の義秀が佐竹家に降伏したことで佐竹義重に仕えます。人質同然のような形で義重に仕えるも、重用されていました。やがて、義重の側近となり、力をつけていきました。そして元亀2年(1571)、斯忠は同じく側近だった和田昭為を虚偽の内容で陥れ、白川結城家に追放。その後は、外交官として智謀を武器に外交工作を担います。
智勇兼備であるが、内政面では優れなかった
武勇にも優れ、智勇兼備の将でしたが、民政面ではいい成果を残せませんでした。そのため、治めていた吉田城の城主を外され、追放されたこともありました。一時期的に岩城家に属し、伊達家との戦いに赴いた記録が残っています。
ちなみに、追放された昭為は、白河結城家で起きた政変での功績を称えられ、佐竹家に戻りました。昭為は政変時に侵攻してきた佐竹家と事前に内通しており、現当主だった白河義親を孤立させます。そして、義親を捕らえたことで戦はあっという間に終了。昭為のおかげで、白河結城家を佐竹家に従属させることを果たしています。s
慶長5年(1600)に起きた関ヶ原の戦いでは、佐竹家の元を離れ、上杉景勝の元にいました。これには、中立の立場を取った佐竹家が上杉家に力を貸すため、反徳川を主張した斯忠を送ったと言われています。
水戸城奪還作戦
斯忠は、関ヶ原の戦い後には佐竹家に戻りました。そして、戦後の出羽国秋田18万石への移封に反発。斯忠は徹底抗戦を訴え、妹婿の大窪久光や馬場政直と共に水戸城奪還を企てます。しかし、捕らえられてしまい、慶長7年(1602)に磔刑に処され、その生涯を終えました。
咳の神様・車斯忠
斯忠は水戸城奪還の際、咳をしたことにより見つかったと伝わっています。そのため、斯忠が捕まった場所である車塚を「咳の神様」として祀られています。また、吉田松陰は水戸に訪れた時に車塚とその言い伝えを聞き、深く感動しました。
さらに、斯忠の嫡男である善七郎は父の死後に浪人となり、徳川家康の暗殺を企てて捕らえられるが、許されて非人頭となったという説があります。
寄稿(拾丸)
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