大寧寺の変とは「西国随一」戦国大名・大内氏滅亡の原因になった政変

大大名・大内義隆

室町幕府の重臣だった第15代当主・大内義隆(おおうち よしたか)は、覇気に溢れて勢力拡大にも意欲的だったため、大内氏の全盛期を迎えることになる。
周防を本拠地に北九州(豊前・筑前)から中国地方(周防・長門・石見・安芸)にかけて掌握していたため「西国随一」の戦国大名と謳われた。
また、京より多くの公家を周防に呼び寄せ学問や芸術を振興したことで、文化面でも「西の京」と呼ばれるほど大いに栄えていた。
しかし、1542年(天文11年)から翌年にかけての戦い「第一次月山富田城の戦い」の大敗と撤退中に溺愛していた後継者・大内春待の溺死が、大内義隆の運命を大きく狂わせる事となる。
先の戦での大敗で中国統一の夢が途絶え、嫡男(養子)・大内春待の溺死による落胆で、政務から遠ざかるようになったのだ。

武断派と文治派

政務は、これまで武断派・陶隆房を重用していたが、大敗をきっかけに出雲遠征(第一次月山富田城の戦い)を反対していた文治派・相良武任に委ねるようになった。
大内義隆の中では、戦をしなければ大内春待が亡くなることもなかったという思いがあったのかもしれない。
文治派に取って代わられた武断派・陶隆房は、何度も大内義隆に進言するが、聞き入ってもらえなかった。
これにより、武断派と文治派の対立の溝が深まっていく事となる。

一方、大内義隆は、京より多くの公家を招き入れると詩歌や管弦に親しむ贅沢な暮らしを送るようになった。
遊興による莫大な費用は、領民に大きな負担となり不満を持つ家臣の増加にも繋がっていった。

陶隆房と相良武任の対立

1550年(天文19年)
陶隆房は、相良武任の暗殺を計画する。
その計画を事前に察知した相良武任は、大内義隆に密告したことで未遂に終わった。
命の危険を感じた相良武任は、陶隆房を何とか懐柔しようと試みるが失敗に終わると密かに出奔する。

1550年(天文19年)8月24日
陶隆房は、武断派の内藤興盛らと共に大内義隆を廃して嫡子・大内義尊を跡目に継がせようと動き出した。

1550年(天文19年)9月
これを察知した大内義隆は、幽閉されることを怖れて仁壁神社・今八幡宮で行われた例祭に出席しなかった。

1550年(天文19年)11月下旬
陶隆房は、大内義隆を見限ると病気と偽り、周防へ出仕することなく居城・若山城に籠るようになった。
大内義隆は、以前のように関係を改善しようと詰問使を送るなどするが、無視され続けたことで関係は悪化の一途を辿った。

相良武任の讒言

出奔していた相楽武任が筑前守護代・杉興運によって身柄を拘束され、周防に送り返された。
周防に戻ってきた相良武任は、大内義隆に必死に弁明した。
陶隆房に謀反の疑いをかけたのは杉重矩によるもので、大内義隆に聞き入れてもらえないとわかると自分に責任を擦りつけて陶隆房に寝返った。また、陶隆房は内藤興盛らとも何か企んでいるらしいと、他人に罪を擦りつけて保身に走ったのだ。
この件をきっかけに杉重矩は、大内義隆を守る立場から陶隆房に付いたとも言われている。

新たな当主の擁立

陶隆房は、自分に都合の良い新たな当主の擁立に乗り出す。
大内氏と血縁関係のある大友義鎮の異母弟・大友晴英を擁立する密使を大友氏に送ったのだ。
受け入れれば北九州の大内領を割譲するという条件も付け加えたことで、大友義鎮より快諾が得られた。

陶隆房の蜂起

1551年(天文20年)8月
相良武任は、陶隆房を怖れて再び大内家から出奔したことで、陶隆房らによる蜂起の準備も整った。
事ここに至るには、陶隆房が政務の中心から外されたこともあるが、遊興を控えるよう諫めても聞き入れてもらえず、遊興費用の負担を各地の守護代(重臣)が強いたことで財政が疲弊したことなどの不満の増大にある。
大内義隆の治世・政務に対する反発が蜂起へと繋がったのだ。

周南・若山城の陶隆房は、大内義隆を討つべく挙兵すると、武断派の内藤興盛、杉重矩らも参戦した。
陶軍は、山陽道の要衝を次々と抑えながら、大内義隆の本拠地・周防にある大内氏館に迫っていった。
周防・山口に侵攻を開始したときの陶軍は、参陣した兵で5千~1万の大軍に膨れ上がっていた。

一方、陶隆房らの挙兵の報せを聞いた大内義隆だったが、豊後・大友氏からの使者らを接待して酒宴や能に興じていた。
側近・冷泉隆豊が、直ぐにでも戦の準備をするように進言するが聞く耳を持つことはなかった。
挙兵を楽観視していたのか、現実を避けたかったのか分からないが、もはや当主から程遠いものとなっていた。

それでも、大内氏館の直ぐ近くまで迫っていることを知ると、家臣や公家を連れて近くの法泉寺に陣を構えた。
しかし、逃亡者が相次ぎ従う兵が殆ど残っていなかったため、ここで側室らと別れて長門に逃げることとした。
公家・二条尹房は、内藤盛興に和睦交渉を試みるが断られて失敗に終わった。
空となった大内義隆の本拠地・大内氏館や周辺の館は、陶軍によって宝物の略奪や館に火をかけられ「西の京」周防は崩壊した。

大寧寺の変

長門に辿り着いた大内義隆は、海路で石見の吉見正頼を頼ろうとしたが、悪天候で船を出すことが出来なかった。
行き場を失い大寧寺で身を隠していた大内義隆。
追手の陶軍によって寺を包囲されたため、冷泉隆豊の介錯による自害を決意した。

介錯後の冷泉隆豊は、陶の軍勢に突撃して討死してしまうが、その最期は壮絶なものだった。
敵との激しい斬り合いで、敵が恐れた隙に火をかけた経堂に入り辞世詠んだあと、立ったまま切腹して出てきた内臓を天井に投げつけて亡くなったと言われている。
主君を裏切った怒りを死に様で見せつけたことは、後世まで語り継がれることとなった。

大内義隆の嫡男・大内義尊は、従者と逃亡していたが、陶軍に捕らえられ殺害された。
また、二条尹房、三条公頼ら公家たちも殺害され、大寧寺の変(たいねいじのへん)は終結した。
この政変により大内氏は事実上の滅亡となった。
「西国随一」と謳われ全盛期を迎えた大内義隆だったが、陶隆房の謀反により呆気ない大内氏の滅亡を迎えることとなった。

その後

出奔していた相良武任は、陶隆房が送り込んだ軍勢によって捕らえられると殺害され、持ち帰った首は周防・山口に晒された。

1552年(天文21年)3月
陶隆房は、大友晴英を大内家の新たな当主として迎え入れた。
そして、名を晴英から義長と改名させると、自分も主君に忠誠を誓う証として隆房から晴賢へ改名した。
大内家の新当主・大内義長は、傀儡だったため実権は陶晴賢が掌握していた。
新政権は、財政を立て直すのに国人や守護代に賊役を増大させたため、領国内の反発が強くなり情勢が不安定となった。
また、陶晴賢(隆房)が蜂起した際に協力的だった重臣・杉重矩と対立。
目障りであると殺害してしまったことで、周囲との信頼関係が薄れて情勢が悪化の一途を辿っていった。

1554年(天文23年)
石見・吉見正頼、安芸・毛利元就など守護代の離反も相次ぐようになり、新政権は家臣を纏められないでいた。
これを好機と捉えた毛利元就は、1558年(永禄元年)に厳島で陶晴賢が率いる大内軍と対戦することとなる。

(寄稿)まさざね君

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