独眼竜・伊達政宗「小手森城の撫で切り」

伊達政宗の家督継承

1582年(天正10年)6月2日  
京の都では、「本能寺の変」が起こり、天下統一に最も近いと思われた織田信長が亡くなります。

その頃、伊達輝宗から家督を相続し、南奥州の覇権確立に向けて積極的な領土拡大を画策していた伊達政宗。
この強引ともいえる勢力拡大が裏目となり、周囲の諸大名を敵として迎えることになるのです。

小手森城の撫で切り

1582年(天正10年)
伊達政宗の岳父・田村清顕との対立を深めていた塩松領・小浜城主の大内定綱。
かつて田村清顕に従っていましたが、独立志向が強くなり戦いに勝利したことで田村氏から独立を図ります。

1584年(天正12年)  
しかし、伊達政宗が家督相続したことで大内定綱の立場は微妙になっていったのです。
それは、伊達政宗の正室・愛姫が田村清顕の娘ということだけでなく、勢力拡大に燃える伊達政宗にとって同盟関係にある田村氏のほうが重宝されたのです。

大内定綱は、少しでも立場を改善するべく家督相続を祝うために米沢へ来訪します。
そして、米沢に屋敷を賜れば妻子を人質として住まわせたいと申し入れて臣従の意を示したのです。





改めて米沢に戻るとして小浜城に退去しますが、伊達から催促の使者を何度も送っても米沢に戻ってくることはありませんでした。
大内定綱は、伊達政宗を寝返って会津の蘆名氏と誼を通じていたのです。
それを知った伊達政宗は激昂し、塩松領・小手森城を殲滅するために出撃します。

1585年(天正13年)
伊達政宗は、岳父・田村清顕と小手森城近くの蕨平(わらびだいら)に合流すると、城を完全に包囲しました。

同年8月24日
伊達軍は小手森城の北口、田村軍は東口から一斉攻撃を開始します。
伊達政宗は、城内の大内定綱を何としても捕らえようと考えていたのです。

しかし、既に城内に大内定綱の姿はありませんでした。
伊達政宗が小手森城に迫っていること知ると、密かに城を脱出して小浜城に戻っていたのです。

また、小手森城を包囲している伊達軍と田村軍を挟み撃ちにすべく、蘆名氏と二本松(畠山)氏に向けて援軍も要請していたのです。
小手森城は、周囲を湿地と池に囲まれていたため、大内定綱と小手森城城主・菊池顕綱は蘆名氏と二本松(畠山)氏の援軍が到着するまで充分に時間を稼げるだろうと考えていました。

思惑通りに伊達政宗が小手森城の攻略に苦戦していると、蘆名勢と二本松(畠山)勢の援軍が背後から攻めかかってきました。
それに対して伊達政宗らは、挟み撃ちを回避するために即座に軍勢を三手に分けると、数百の鉄砲隊で援軍を撃退したのです。
  
城攻めから3日後、挟み撃ちが失敗したことで敗戦が濃厚になると、小手森城からの使者が伊達の陣所にやってきます。
そして、城を明け渡す代わりに城内の者を小浜城へ逃して欲しいと申し出たのです。

伊達政宗は、それを拒否すると総攻撃によって小手森城を殲滅することを選択します。
ここまで小手森城攻略に苦戦していたことから、通常の総攻撃ではなく周囲に火を放ち火攻めにして追い込むことにしたのです。

火は風に乗ると、たちまち燃え広がっていきます。
城の周囲が炎に包まれただけでなく、城内にも飛び火して激しい煙に包まれると城内からは怒号や悲鳴が鳴り響き地獄の様相を呈したのです。
伊達軍は、更に追い込みをかけるべく、何百丁もの鉄砲を城内に向けて撃ち込んでいくと数時間で小手森城は落城しました。

そして、伊達政宗の命令によって城内の兵だけでなく、女、子供、そして馬、牛、犬、猫などを含めた大量殺戮「小手森城の撫で切り」がおこなわれたのです。
斬り殺された数は、800~1000人とも言われ、現場に監査役もつけて確認させていたのです。
この稀に見る残酷な処分は、大内定綱だけでなく伊達政宗と敵対する周囲の大名にも大きな衝撃を与えるものでした。
伊達政宗が、このような蛮行に至ったのは、裏切り行為や逆らえば徹底的に処分するという見せしめの意味があったのかもしれません。

また、奥州地方は、長きにわたって各勢力同士で婚姻、養子縁組などを結んでいたことから、争いが起きても繁栄衰退を繰り返しているような感じでしたので、伊達政宗のように攻め滅ぼすようなことはありませんでした。
これまでの概念を変える行為は、伊達家の新当主としての強烈な印象と新しい時代を周囲に宣言することなども含まれていたのではないかと考えます。

その後

伊達政宗の勢いは収まらず、大内定綱の抹殺と塩松領制圧に向けて侵攻を開始します。
恐れをなした大内定綱は、僅かな供回りと極秘に二本松(畠山)領、蘆名領へと逃亡していったのです。





この後、二本松城主・二本松(畠山)義継が大内定綱と通じていたとして厳しい処分を受けます。
しかし、それを不満に思った二本松(畠山)義継は、伊達政宗の父・伊達輝宗を拉致しますが、伊達政宗によって二本松(畠山)義継だけでなく伊達輝宗も亡くなってしまう事件が起こります。
これがきっかけとなり、伊達政宗にとって最も大きな戦いと言える「人取り橋の戦い」へと繋がっていくのです。

(寄稿)まさざね君

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