大永鎌倉合戦(1526年)の解説~北条包囲網の瓦解と北条氏綱の躍進

板東(関東地方)の戦国時代

戦国時代とは、始期を「応仁の乱」、豊臣秀吉による「小田原征伐」または「奥州仕置」の完成をもって終期とされたのが多いようですが、複数の見解も提唱されています。

また、戦国時代の始期と終期は地域ごとにも異なり、かつて坂東と呼ばれていた関東地方は以下のように提唱されています。

1454年(享徳3年)第5代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺したことで、鎌倉公方が室町幕府・足利将軍および関東管領の上杉家と争うことになった「享徳の乱」が板東(関東地方)戦国時代の始期とされています。

そして、1590年(天正18年)豊臣秀吉による小田原征伐によって北条氏(後北条氏)が滅亡したのが終期とされます。

享徳の乱は、応仁の乱(1467年・応人元年)に先駆けて起こった内乱で、11年間続いた応仁の乱よりも長く28年間も続き、利根川を境界として東西に分かれ関東一円へと拡大していったのです。

この対立で鎌倉公方・足利成氏は、鎌倉を追われてしまいます。
1455年(享徳4年)本拠を下総国・古河に移して初代古河公方となり勢力を保ちます。

古河公方を認めない室町幕府・足利将軍が、新たな鎌倉公方・足利政知を送り込んできます。
しかし、軍事命令権などの実権は幕府が握っていたため、何をすることもできませんでした。
関東の諸将から協力を得られない鎌倉公方・足利正知は、伊豆国に留まり本拠を置いたことで、(伊豆)堀越公方と呼ばれるようになりました。

初代古河公方・足利成氏の死後、古河公方家で内紛が頻発します。
第2代古河公方・足利政氏と第3代古河公方・足利高基の父子が対立(永正の乱)します。それだけでなく、関東制圧の野心を持った足利高基の家臣・真里谷(武田)信清が、僧侶となっていた足利高基の弟の空然(こうねん)を還俗させて小弓公方・足利義明として擁立したことで混乱を拡大させていったのです。

真里谷(武田)信清は、小弓公方・足利義明を擁立すると傀儡として利用することで、勢力を拡大していったのです。

1482(文明14年)
享徳の乱から28年後、初代古河公方・足利成氏と関東管領・上杉顕定の間で和睦が成立しますが、上杉家でも内紛が勃発します。
関東管領・山内上杉顕定は、本家に迫る勢いの庶流・扇谷上杉氏に危機感を感じ、1487年(長享元年)に扇谷上杉を討伐(長享の乱)しようとしたのです。
そして、18年間という長い戦いが続いていきます。

このように板東(関東地方)には、複数の公方が存在、関東管領上杉家の分裂、関東制圧を狙う武将などの群雄割拠によって争いが絶え間なく続き、関東は酷く荒廃していくことになるのです。

一方、伊勢宗瑞(北条早雲)は、堀越公方・足利茶々丸を後継者(潤童子)と継母(円満院)殺しの反逆者として攻め込むと伊豆から追放します。
足利茶々丸は、各地を転々としながら伊豆奪回を狙っていましたが、甲斐で捕捉され自害したことで堀越公方は滅亡しました。

やがて、伊豆国主となった伊勢(北条)家の台頭は、坂東(関東地方)において勢力圏を大きく変えていくことになります。

2代目当主・伊勢氏綱(北条氏綱
伊勢宗瑞(北条早雲)の遺志を継いだ第2代・伊勢氏綱(北条氏綱)。
1523年(大永3年)
伊勢宗瑞(北条早雲)が亡くなって4年後に関東制覇に向けて動きだします。

伊勢氏綱(北条氏綱)は、名門・山内上杉氏と扇谷上杉氏を本格的に相手にするためには、それ相応の家格や大義名分が必要であると考えていました。
そこで、伊勢氏綱(北条氏綱)の正妻が執権北条氏の末裔ということを利用することにします。

公家や朝廷などに多額の献金や贈り物などをして働きかけることで北条姓を名乗ることを認めてもらったのです。
これは、鎌倉幕府の執権として国を動かしてきた北条氏が、板東(関東地方)に蘇ったことを意味するものでした。

ここに北条氏綱が誕生したのです。
北条家は、鎌倉幕府・執権の北条家と区別するため後北条家とも呼ばれるようになります。

名門・北条氏が再び誕生したことは、関東一円の諸将にも衝撃と緊張が走り抜けました。
伊勢から北条へと改めた北条氏綱は、北相模や多摩川南の土豪たちを自分たちのほうへ次々と寝返らせていきます。

江戸城侵攻

1524年(大永4年)1月
北条氏綱は、東へ勢力拡大していくために扇谷上杉氏の居城「江戸城」に向けて進軍します。
扇谷上杉の当主・上杉朝興は、敵対関係にあった山内上杉氏と和睦して、北条氏との戦に備えます。

また、扇谷・上杉朝興奮は、山内上杉と甲斐武田からの援軍が来るまで時間稼ぎの和睦交渉を進めますが失敗に終わります。
この和睦交渉は、援軍が来ていないための時間稼ぎであることを相手に分からせるものだったのです。

相手の備えが不十分であることが分かった北条氏綱率いる北条本隊は、勢いのまま多摩川、目黒川を渡河して品川湊近くの高輪原まで進軍していきます。
北条水軍が品川湊に上陸したことを知ると、援軍を待たずに江戸城を南下して単独で決戦に挑んだのです。

北条本隊には、扇谷・上杉軍の曽我神四郎隊が突撃して侵攻を食い止めました。
兵数で圧倒する北条軍と衝突した扇谷上杉軍でしたが、応戦して何とか踏みとどまります。
しかし、時間が経つにつれて劣勢に追い込まれて総崩れになると撤退を余儀なくされたのです。

北条氏綱は、扇谷・上杉朝興の撤退により勝利は決定的でしたが、大将首・足利朝興を取るまたは江戸城攻略が目的であったため、更に軍を進めたのです。

北条軍の追撃もあり、扇谷・上杉軍で江戸城に戻れたものは、500も満たなかったとも言われています。
江戸城を北条軍に包囲された扇谷・上杉朝興。
籠城して援軍がくるまで応戦しようと試みますが、不満を抱き反旗を翻した江戸城の留守居・太田資高によって追い込まれることになります。

扇谷・上杉朝興は、北条軍による総攻めで手薄なところを見つけると、僅かな供回りを連れて命からがら河越城に落ち延びたのです。

北条氏綱は、江戸城を占領すると江戸湾や周辺地域を掌握します。
ここを掌握したことは、江戸湾の東部を支配していた真里谷(武田)氏や里見氏にとっても脅威となり、小弓公方にとっても容認できるものではありませんでした。

北条包囲網

再び江戸城を奪還するために動きだした扇谷・上杉朝興。
山内上杉憲房の力を借りて甲斐の武田氏、房総の小弓公方、真里谷(武田)氏、里見氏に働きかけて「北条包囲網」を形成します。

北条包囲網が完成したことで、北条氏綱を討つための画策をしていた扇谷・上杉朝興でしたが、そこに包囲網の一角である山内・上杉憲房が亡くなったとの報せが入ります。

家督を継いだのは古河公方の縁者・上杉憲寛。
2代目古河公方・足利政氏の四男で、上杉憲房の実子・五郎丸(後の上杉憲政)が幼少であったため、先に養子として入っていたのです。
そのため上杉憲寛は、家督と関東管領職を継承することになったのです。
これで山内・上杉氏は、古河公方色が強くなるだろうと思われましたが、上杉憲房の実子・五郎丸(後の上杉憲政)を擁立する家臣もいるため、何かしらの内訌が起きることも十分予想されました。

もし、山内上杉家内で家督争いが起きれば、北条包囲網が大きく後退することになります。
北条氏綱は、山内上杉家内で家督争いが起きるように上杉憲寛の家督相続に反対する者たちにけしかけたのです。

さらに、甲斐・武田信虎が諏訪氏と交戦する可能性があるとして扇谷上杉の相談なく北条氏と和睦してしまったのです。
完璧と思えた北条包囲網は、次々と思惑が外れて瓦解しかかっていたのです。

扇谷・上杉朝興は、山内上杉家が家督問題で兵を動かせないことがわかると、房総の真里谷(武田)氏と里見氏を動かす策へと切り替えます。

真里谷(武田)氏と里見氏は、表向きは小弓公方に従っていましたが、両家の争いが絶えないことから軍船の数、兵数、戦術などで揉めて進軍できないでいたのです。

1526年(大永6年)4月
扇谷・上杉朝興による北条包囲網から1年が経過しましたが、一枚岩の団結には程遠く進展は殆ど見られませんでした。
北条氏綱は、その隙を狙って同盟相手である駿河国・今川氏親を見舞うために今川館へと向かったのです。
しかし、2か月後の6月23日に駿河今川館で亡くなります。
今川氏親 享年52
今川氏親が亡くなったことは、後に両家の同盟関係に大きな影響を与えることになっていきます。

1526年(大永6年)5月
真里谷(武田)氏が江戸城近郊の石浜城を攻め、里見氏重臣・正木道綱率いる水軍も品川湊へ攻撃を仕掛けて江戸城へ圧力をかけてきたのです。

北条氏綱は、小弓公方に対抗すべく3代目古河公方の足利高基との連携を図ろうとします。しかし、扇谷・上杉朝興に足利高基の実子で関東管領の大内・上杉憲寛を取り入れられてしまいます。

大永鎌倉合戦

北条に対して圧力をかけるものの大きな進展や成果が見られないことに業を煮やした里見義豊
1526年(大永6年)8月
単独での北条攻めを決心。
安房水軍を岡本湊に集めるように命令を下し、重臣・正木通綱を先鋒に約200隻の船団を形成します。
そして、出陣準備が整うと三浦半島から鎌倉へと出撃したのです。

里見義豊が船団を率いて鎌倉方面に向かっているという報せは、鶴岡八幡宮の僧官・北条長綱の元にも入ります。
北条長綱は、北条氏綱の弟で箱根権現別当職と鶴岡八幡宮再建の責任者も担っていました。

北条氏綱は、小弓公方に従っていた真里谷(武田)氏と里見氏が、鎌倉を目指して攻めてくることは想定範囲内であったため、北条長綱を鎌倉に配置していたのです。

そして、里見軍が鎌倉にせめて来た時、防ぎきることは困難であったため、鎌倉の民を近くの玉縄城まで避難させます。
また、鎌倉内の仏像、仏具、経典などに関しても別の寺に移動させたのです。

避難が完了したことを見届けた北条長綱は、玉縄城主の北条氏時(北条長綱の兄)に主力を鎌倉に送るように申し入れます。

一方、鎌倉近くの住吉湊に着眼した里見軍は、休む間もなく住吉城へ向けて総攻めを開始します。
住吉城は、攻め落とされることを前提として僅かな北条兵で守っていたため、直ぐに攻略されてしまいます。

住吉城落城の報せが北条長綱の元に届くと、北条兵に里見軍が金銀や戦利品を目当てに鎌倉市中に押し寄せても抵抗しないようにと、鶴岡八幡宮の灯篭などに火を灯して明るくしておくように伝えたのです。

予想通り鎌倉市中の占拠と金銀財宝を略奪するために侵入してきた里見軍。
北条からの反撃もなかったため、ここも難なく占拠できるものと誰もが捉えていました。
その里見軍が、鶴岡八幡宮にも押し寄せてきます。

北条長綱は、里見軍が鶴岡八幡宮の目前まで迫ってきたとことを知ると、戦わずに玉縄城に向けて撤退を開始したのです。

鶴岡八幡宮になだれ込んできた里見軍は、北条の兵がいないことがわかると、金目の物を次々と漁りだしました。
その時、火の灯されていた蠟燭などが倒れたことで社殿が一気に炎に包まれてしまったのです。

鶴岡八幡宮とは、源頼朝が勧請して武家の守護神が宿り祟敬を集めている神聖な場所とされています。

そこに火をかけたとなれば末代まで云い伝わると里見義豊は動揺しますが、火を消せるような状態にはありませんでした。
手をこまねいているうちに社殿は全焼となったのです。

諸説ありますが、北条長綱が鶴岡八幡宮再建の手間を省くために、里見の兵が火をかけるように仕向けた策ともいわれています。
里見義豊は、本来の目的であった玉縄城攻略に切り替えると失意のまま鎌倉を離れました。

しかし、戸部川で待ち構えていた玉縄城主・北条氏時に撃退されてしまいます。
さらに、撤退する里見義豊の元に住吉湊に泊めておいた船が北条水軍によって次々と沈められているという報せが届いたのです。

里見軍は、急ぎ住吉湊へ戻りますが、背後からは北条綱高(北条氏綱の嫡子)と北条長綱の北条軍1千5百が迫ってきていたのです。
住吉湊に辿り着いた里見義豊は、北条水軍に沈められていない船を確保すると、安房国へ命からがら撤退したのです。

大永鎌倉合戦と言われる戦いは、里見義豊が鶴岡八幡宮に火をかけただけでなく、北条軍にも大敗するという結果となりました。

この合戦の裏では、鎌倉侵攻に合わせて、扇谷・上杉朝興も兵を率いて玉縄城攻略に向けて出陣、真里谷(武田)氏も遅れて出陣しましたが、里見軍の撤退を知ると戦わずに兵を退いたのです。

鶴岡八幡宮の全焼という失態が里見義豊に重くのしかかります。
鶴岡八幡宮は、(武家)源氏および鎌倉武士の守護神であり、源義重の孫・里見義俊から続く里見氏にとっても当然ながら祟敬の対象でした。

また、里見氏の盟主である小弓公方・足利義明は、鶴岡八幡宮を統括する「雪下殿」だったのです。

北条氏綱は、鶴岡八幡宮が全焼してしまった責任問題について朝廷と幕府に働きかけ、鶴岡八幡宮再建の協力を足利義明と里見義豊に求めたのです。

里見家内では、この敗戦によって里見義豊の権威が衰えることとなり、叔父の里見実尭が新たな当主となると思われました。
しかし、里見実尭が暗殺されたことで里見義豊は追い込まれていったのです。
この内乱後、里見実尭の嫡男・里見義尭が5代目当主となります。

里見義尭は、北条氏綱との関係も良く鶴岡八幡宮の再建にも積極的に関わっていたが、真里谷(武田)氏の家督争いでの見解の不一致から房総の材木輸送を突然取り止めて断交してしまいます。

また、小弓公方・足利義明も北条氏綱と古河公方・足利高基の連携を断つように試みるが上手くいきませんでした。
やがて、葛西城下が北条氏の支配下になったことで、後の国武台合戦へと繋がっていくのです。

(寄稿)まさざね君

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