「宮本武蔵」対「佐々木小次郎」巌流島の決闘の真実~細川の血脈

第1章

宮本武蔵 

剣術を志す者だけでなく、己が目指す道で一流たらんとする者すべてに崇拝されている剣豪である。剣術において生涯で六十回にも及ぶ真剣勝負を無敗で通した。晩年は書画にも卓越した才能を発揮し、書き著した「五輪書」は時代を超えた名著として現在でも愛読者が多数いる。
宮本武蔵(天正十二年1584年~正保二年1645年享年六十一歳)は、広く宮本武蔵として知られているが、宮本は出生地の美作国(岡山県北東部)宮本村から名付けられた説が有力である。出生地は美作国(岡山県北東部)宮本村、他に播磨国(兵庫県東部)説もある。宮本武蔵は通称で、本名は新免武蔵玄信(しんめん たけぞう はるのぶ)という。
さて、宮本武蔵であるが、なかなか厄介である。小説、歌舞伎、講談、映画、演劇、TVドラマとありとあらゆるエンターテイメントに脚色され実像が分からないといっても過言ではない。小説「宮本武蔵」の著者吉川英治氏をして
「私は一小説家です。歴史学者ではありません。「小説宮本武蔵」は取材・調査はしたけれども、あくまでも私の描写による創作された人物です」と言わしめている。

佐々木小次郎 

剣聖宮本武蔵との対決「巌流島の決闘」で有名な巌流佐々木小次郎だが、彼の生涯については数多くの謎に包まれている。そもそも、彼の実在を疑う向きさえある。世に伝わってきたおよその見解としては、戦国期末から江戸時代初期の剣豪だと見られている。姓名は、「岩龍」「小次郎」「岩流小次郎」の複数の記述が散見できる上、佐々木姓に至っては後世の狂言、文楽、歌舞伎で初出する状態であった。出身地は、越前国浄教寺村出身説、豊前国田川郡出身説がある。富田勢源に中条流を学んだ。十代で諸国を武者修行し、十六歳で秘剣「燕返し」を体得した。長身だったといわれる佐々木小次郎は師匠富田勢源より三尺余りの大太刀を用いた修練を命ぜられた。佐々木小次郎の愛刀といえば、長剣通称「物干竿」といわれた備前長船長光である。この長剣を背負い、肩越しに抜刀し、下段からせり上がるように振り抜く。飛ぶ燕でさえその切先から逃れられなかったことから「燕返し」と名付けられたといわれている。

巌流島の決闘

 まずあらかじめお断りしておく。これからの記述は、読者がお持ちの剣聖宮本武蔵像と若き美青年剣士佐々木小次郎像を打ち砕くかもしれない。成田屋市川海老蔵の宮本武蔵とTOKIO松岡昌宏の佐々木小次郎のイメージは捨てていただきたい。 

宮本武蔵は卑怯者である…。





宮本武蔵 一つ目の卑怯
巌流島(当時は舟島と呼ばれていた。現在も正式名称は舟島)の決闘は、佐々木小次郎側と宮本武蔵側との取り決め・一対一で舟島に出向き、助太刀なしで雌雄を決めるはずであった。がしかし、宮本武蔵は、弟子四人を引き連れ舟島に上陸した。弟子四人は島内に隠れていたという。弟子を引き連れて先に上陸していたとすれば、よくいわれている宮本武蔵の戦術「わざと約束の刻限に遅参し、佐々木小次郎の平常心を削ぐ」は、創作であるといわざるを得ない。一説によれば、宮本武蔵が複数人で舟島に渡った事実を漁師から知った佐々木小次郎であったが、約束を違えるは武士の恥辱とし弟子の制止を聞き入れず単身で舟島に渡ったといわれている。

宮本武蔵 二つ目の卑怯
二人は巌流島で相対し死力を尽くして闘った。佐々木小次郎は通称「物干竿」と称された愛刀・備前長船長光で「燕返し」を繰り出す。片や宮本武蔵は舟の櫂から削り出した木刀で応戦する。まさにクライマックスシーンといえる。
ところで、なぜ宮本武蔵の武器が、本身ではなく櫂から削り出した木刀かといえば、佐々木小次郎の長刀「物干竿」に対応するためである。「物干竿」は三尺二寸(およそ96㎝)の長刀、対して当時の日本刀は二尺(60㎝)そこそこが一般的な長さであった。つまり、佐々木小次郎は30㎝以上も外からの間合いで宮本武蔵に襲いかかれるという優位性があった。宮本武蔵側としてはすぐに三尺余りの長刀を入手するのは不可能に近かったであろうし、入手できたとしても真剣勝負の場に使い慣れてない日本刀で立ち会うなど正気の沙汰ではない。スケートボードの金メダリストが人のボードを借りて決勝戦で競うといえば解りやすいだろうか。そこで宮本武蔵は櫂を削り出して木刀を作った。櫂ならば長さ1m以上はあったであろうし、木刀なら日常の鍛錬や門弟との稽古で用いていたであろう。
ちなみに、筆者は、以前、会津若松鶴ヶ城で本身と同じ重さで製作された模造刀を振る機会があった。正直、非常に重かった。時代劇のように縦横無尽に振るなど出来はしないし、まして、狙いを定めて人を斬るなど不可能だと思った。
 話が本題から逸れた。宮本武蔵二つ目の卑怯の話に戻そう。宮本武蔵は長型の木刀で決闘に臨んだ。木刀の最大の長所であり短所とは何であろうか。それは木刀で人は容易く死なないということだ。宮本武蔵は木刀の打撃で佐々木小次郎を気絶させ、勝敗は決した。にもかかわらず、息を吹き返した佐々木小次郎を隠れていた弟子四人が撲殺したといわれている。その所業を知った佐々木小次郎の弟子が宮本武蔵を襲った。宮本武蔵は門司城に逃げ込み、城代沼田延元の助力により落ち延びた。以上は宮本武蔵を助けた当事者沼田延元の一代記「沼田家記」の記述なので宮本武蔵の二つの卑怯は事実と云えよう。

佐々木小次郎は創られた…。

佐々木小次郎の実態は不明である。生年不詳、正確な姓名・出生地も不詳。さらに言えば実在性さえ疑問視されている。巌流島の決闘時年齢も通説では眉目秀麗なる二十歳前後の青年剣士となっている。しかし、もうすでに佐々木小次郎は、巌流の流派を確立し多くの弟子を抱えており、小倉藩の剣術指南役に就任している。二十歳そこそこの若者の経歴とは思えない。また、佐々木小次郎の剣術流派は中条流の流れを汲む。直接の師匠は、盲目の達人・富田勢源といわれている。もし通説通りに直接指導を受けた直弟子とすると、富田勢源は、大永四年(1524年)頃の生まれであるから、仮に富田勢源が四十歳の時に十六歳の佐々木小次郎が入門したとする。となると巌流島の決闘は慶長十七年(1612年)四月十三日といわれているから、
1524(師匠富田勢源の生年西暦)+40(佐々木小次郎入門時の富田勢源の年齢)=1564(佐々木小次郎入門時の西暦)
1612(巌流島の決闘があった西暦)-1564(佐々木小次郎入門時の西暦)+16(佐々木小次郎入門時の仮年齢)=64(巌流島の決闘時の佐々木小次郎の年齢)
 あくまでも仮定の計算であることはおことわりしておくが、経歴や小倉藩での地位を考慮すると中年以上の年齢であったの間違いないであろう。
 
「私見考」
 今回はいつもと変えて物語風の趣向で「巌流島の決闘」を考察してみたい。
題して「巌流島始末記~小次郎を死に追いやった黒幕はだれか?」
この物語は史実を参考に筆者が作り上げたフィクションであることをご承知おきくださいませ

慶長五年 豊前小倉城
関ヶ原の戦いの功績により、細川忠興が丹後宮津十二万石から豊前中津三九万石に加増され中津城に入城したのは慶長五年(1600年)であった。しかし、中津城拡張普請の最中の慶長七年(1602年)に小倉城築城に着手した。中津から小倉への主城移転の理由は二つ考えられる。一つ目は、経済的利便性である。関門海峡を目下にする小倉は瀬戸内海航路の要衝にあたり海運の一大拠点となっていた。小倉を抑えることは莫大な利益を生んだ。
 二つ目は、徳川幕府(徳川家康)の意向があったのではないかと思われる。小倉は関門海峡を挟んで毛利氏と対峙する地政学的にも重要拠点であった。豊前小倉の細川家、筑前博多(後の福岡)の黒田家の両家で九州及び瀬戸内海の軍事経済を監視させ、薩摩の島津、長州の毛利の軛(くびき)としたのである。
 完成した小倉城の広間で藩主細川忠興、嫡男忠利父子が上座に並んでおり、松井康之、興長父子、米田監物、沼田延元等の細川家重臣が御前に並び思案顔で黙り込んでいた。
「誰か何か良い思案はないのか。宿老(おとな)が揃いもそろうて」
 若い細川忠利が苛立って声を荒げた。父・細川忠興はそんな元服したばかりの嫡男を見て、血は争えぬと思った。忠利の短気は父譲りであった。今は老境に至り気性も穏やかになったが、若かりし頃は、まだ戦国の荒々しい気風もあり、己の短慮で家臣や女中の些細な過ちを怒り任せて手打ちにした。しかし、世は徳川で落ち着いた。もし、忠利が忠興と同じ所業を度重ね、幕府の耳に入れば改易の憂き目にも遇いかねない。
「忠利、そのように声を荒げてもよい知恵は出ぬぞ。ここはゆっくり鷹揚に構えねばな」
「ですが…父上、豊前衆の不満は日々高まっております。このままにしておけば、取り返しのつかぬ仕儀にいたりますぞ」
 細川家の領地はこれまで常に畿内に有り、豊前小倉へと国替えとなってきた。九州の地には縁もゆかりもないよそ者である。まして、九州は、薩摩の島津、豊前の大友、肥前の竜造寺など生え抜きの戦国大名が統治してきた土地柄であり、よそ者に対しては独立不羈(どくりつふき)の姿勢を崩さない。
「殿、一つ考えがございます。申し上げて宜しゅうございましょうか」
 門司城代を務める沼田延元がかしこまった。
「申してみい」
 忠利が顎をしゃくって促した。
「豊前衆の浪人を召し抱えるというのはいかがでしょう。つきまし…」
「延元、そちは何を聴いておったのだ。それが容易くできないからこそこうやって皆が思案に暮れておるのじゃ。豊前衆を召し抱えれば細川家譜代と豊前衆で藩が二つに割れてしまう話はしたではないか」
「これ、忠利、家臣の話の腰を折るでないぞ。延元、続けよ」
 若殿忠利に目礼した後、延元は藩主忠興に向き直った。





「豊前衆の有象無象を召し抱えては御懸念の通りになるは必定。それを避けんが為に豊前衆の中よりこれはという人物を選び出し直臣として召し抱え、その者の推挙した者をその者の家臣として豊前衆を召し抱えるというのはいかがでしょう」
「つまり、陪臣として召し抱えるというわけじゃな。陪臣なれば譜代の反感もそうは大きくならず、扶持もなく困窮している豊前衆も懐柔できるという道理だな」
「さすが大殿、御明察でございます」
「世辞はよい。して当てはあるのか。この場で口に出す限りはもう目算あるのであろう」
 沼田延元は、重臣協議の場で建言を申し述べるのは少ない男であったが、いざ申し述べた建言はよく練られ的を得た建言であった。その手腕を買われて門司城代の要職を任されている。
「藩内の添田郷岩石(がんじゃく)に地侍で佐々木と申す一族おりまする。現当主、佐々木岩流は、あの富田勢源の直弟子にして、長刀・物干竿を駆使し、飛ぶ燕さえも切落とす秘剣燕返しを使う剣豪と聞き及びます。更には剣技のみならず、人品卑しからずして国人地侍は言うに及ばず百姓町人までが岩流を慕い弟子入りし、その数、百は下らぬとの由でございます」
「そのような傑物が我が藩内に…、世間はまだまだ広いものよ。相解った。延元、話を進めよ、話が固まり次第,わしが直々目通りし人物を確かめる」
「承知致しました。早速に佐々木岩流に書状をしたためまする」

慶長五年 豊前添田郷岩石(がんじゃく)
岩流は、居館・岩石館の道場で沼田延元からの書状を目前に置き、黙考し続けていた。眼前では門弟筆頭を務める甥の佐々木多門を始めとする高弟五名と多くの弟子達が師の決断を待って控えていた。
「此度の話、受ける受けないは後の事として、子細を伺いに明日の午後参上すると沼田殿に知らせの書状を頼む」
「叔父…いえ、先生、よくぞご決断を。おめでとうございます」 
 弟子末席にいた多門の弟・佐々木辰之助がそう云うなり駆け出して行った。
「辰之助、待て待て…、まだ承諾はしておらぬぞ…。あやつ一人では心許ないな。多門よ、検分してくれ」
「承知致しました」
 多門は岩流に軽く一礼した後、道場を出て行った。
「他の者も帰ってよいぞ。本日はよく集まってくれたな。礼を言う」
 師の行先、ひいては己の行先に期待と不安を感じつつ弟子たちは道場を後にしていった。
全ての弟子が居なくなった道場に座ったまま、岩流はさらに黙考を続けた。十六歳で師・富田勢源に入門し修行を積み、皆伝の後は諸国修行で行脚した。備前長船長光作の「物干竿」を手に入れ、安芸岩国では「燕返し」も会得した。故地の豊前国添田に帰り道場を開き弟子も大勢育てた。以来二十有余年、岩流はもう齢六十を過ぎていた。今更、仕官など御免こうむりたいと思った。
岩流の脳裏には一人の男が浮かんでいた。豊前国小倉藩藩主・細川忠興である。その父、細川幽斎と共に、足利、織田、豊臣、徳川と時の権力者を大過なく渡り歩き「細川家」を守り続けてきた。その手腕、ただ者ではない、
「先生、書状に御目をお通し下さい。不備が無ければ御花押のほどを」
 差し出された書状に目を通し、花押を入れた。
「左門、お前はどういう見立てだ?」
「悪いお話ではないかと存じます・ただ…」
師の書状を丁寧に奉書に包む手を止めて左門が岩流に向き直って言った。
「ただ… なんだ?」
「話の相手があの忠興公という所に…」
 岩流には妻も子もいない。自らが創始した巌流の継嗣には甥の多門をと考え始めた。その多門が自分と同じ考えであったのが嬉しくもあり心強かった。
「藩主のお指図となれば、いかに家臣でないとはいえ黙殺もできまい。多門、明日はお前独りでよい。供をしてくれ。多勢では余計な詮索を生むでな」
「承知いたしました。ではこの書状を沼田殿にお届けの手配をして参ります。では明日、御免」





慶長五年 小倉 沼田屋敷
 手入れの行き届いた屋敷であった。庭松の枝振りも張りがあり実に見事であった。到着後、すぐ上客間に通され茶菓の接待(もてなし)を受けた。訪家の主人の許しが出るまで食さぬが武家の習いである。書院の軸は雪舟等楊、違い棚の高麗青磁には一枝の万両が指してあった。さすがに有職故実に長けた風流大名として名高い細川家の重臣であると岩流は観た。
「ご城代のお出ましでございます」
 背後で声がして襖が開いた。岩流と多門が平伏した。
「岩流殿、寒中よくぞお越しくださった。延元、痛み入りますぞ。早速であるが御返答はいかがでござろうか」
 聡明な面立ちは、いかにも大藩を支える能吏と見えるが、関ヶ原の戦いでは主君細川忠興配下で活躍した歴戦の武将である。
「返事を致す前に、不躾とは存ずるが、二、三の御伺いいたしたきことがございます」
 延元は脇侍の火鉢を遠ざけてかしこまった。
「何なりとお尋ねください。これからは共に細川家の御為に尽力しあう朋輩になる同志。」包み隠すことなどあり筈もない」
「細川家と縁も所縁の無い拙者がなぜに細川家剣術指南役の大役を仰せつかったのかがまず第一。第二に禄高千石とは高禄に過ぎる、そのわけを御伺いたい。第三に豊前の国人地侍でこれはという人物を推挙せよとはどういった経緯でありましょうや」
 傍らに座る多門が、岩流の羽織の袖を軽く引いた。多門としてはあまりに不躾な問いに沼田延元が怒り、師の立場が悪くなるのを慮っての所作であった。多門の心配は嬉しかったが、この三点には明確な返答を貰わぬことには色よい返答など以ての外であった。
 多門の所作を見た延元は微笑んで言った。
「岩流殿は良い弟子をお持ちじゃの、師弟というより親子のようじゃ。さて、岩流殿のご疑念に御答え申そう。まず、第一の疑念じゃが、岩流殿の兵法者としての名声は九州のみならず諸国に知れ渡っておる。剣の道を志す者で佐々木岩流の燕返しを知らぬ者はいないはず。第二は、当家は丹後十二万石から豊前三十九万石に加増となった。石高が倍以上になったが人員は旧態じゃ。藩士を増やせねばならぬは必定。新規召し抱えに高禄を以って遇するとなれば諸国の人材が当家に集まるではないか。貴公には当て馬のようで申し訳ないがの、許してくれ」
 ざっくばらんに当て馬と言われてしまうと怒るわけにもいかず、岩流は苦笑いを浮かべるしかなかった。
「第三の理由…」
「第三の理由はわしから話そう」
 縁の障子が開けられ男がそう言った。延元の顔に驚愕が表れ、今いる上座から陪席の座へ這うように引き移った。岩流は、延元の態度でこの男の正体を推察できた。多門共々すぐさま平伏して迎え入れた。
「我が殿少将様じゃ。御控えあれ」
 延元が我に返り威厳を込めて言った。忠興は悠々と上座に着座し、同道したの小姓に茶を申し付けた。
「忠興である。岩流、よう参ったの」
「ご尊顔を拝し奉り甥多門共々恐悦至極でございます」
「苦しゅうない表を上げよ」





 細川九曜の入った羽織に袴、帯刀はせず脇差を佩しているのみだった。小倉城下の重臣宅とはいえ不用心であった。戦国の幾多の修羅場を潜り抜けて来たとは思えない貴公子然とした面容であった。傍系とはいえ細川京兆家の流れを汲む武家貴族の血脈であろうか。ただ、口元に噂通りの勘の強さが窺えた。
「第三の理由はこうじゃ、わしは譜代の臣がかわいい、頼りにもしている。共に戦国の世をくぐり抜けて来た仲だからの。だがな、戦いに明け暮れる世は変わる。新しき政事の時代になる。わしは家中に新しい風を吹かせて刷新したい。広く人材を求め募りたい。その手始めに豊前衆の中から武芸に優れた者、経綸に長けた者を我が家中としたい。どうじゃ、岩流、わしに力を貸してくれ」
 岩流は、唯々平伏するのみであった。

第2章

細川の血脈

細川忠興(ほそかわ ただおき 永禄六年1563年~正保二年1646年 享年八三歳)は、父・細川幽斎(ほそかわ ゆうさい 諱は藤孝〈ふじたか〉天文三年1534年~慶長十五年 1610年 享年76歳)と共に足利氏、織田氏、豊臣氏、そして、徳川氏と主(あるじ)を巧みに渡り歩き、生き残った戦国大名の一人である。徳川幕藩体制下では、肥後(現熊本県)一国熊本藩五十四万石もの国持ち大名として居城熊本城で君臨した。しかも、戦国・徳川期のみならず、明治、大正、昭和、平成と子孫と家名を絶やすことなく継承し、平成五年(1992年)、8党(日本新党、新生党、新党さきがけ、社会党、公明党。民社党、社会民主連合、民主改革連合)の大連立により忠興から数えて第十八代当主・細川護熙(ほそかわ もりひろ 昭和十三年 1938年~)が第七十九代内閣総理大臣として遂にトップに昇りつめた。細川幽斎、細川忠興父子といい細川護熙といい優れたバランス感覚と機を見るに敏な政治感覚を持った世渡り上手だったのだろう。また、第一線を退いたのちは、風流人となるのも同一といえる。傍流ながらも室町幕府管領・細川京兆(けいちょう)家(注1)の流れを汲む武家貴族の血の為せる業であろう。ただ、トップになるのは細川の血脈の本意ではなかったかもしれない…。
(注1) 室町幕府管領・細川京兆家: 室町幕府の役職である管領職を代々世襲した細川氏の宗家嫡流の家柄。「京兆」とは、朝廷の官位「右京大夫」を指し、細川氏宗家嫡流が「右京大夫」を代々世襲するのが習わしであった。「右京大夫」の唐名が「京兆伊(けいちょういん)」である。(唐名とは、中国風の呼び方。ちなみに、水戸黄門の黄門は、水戸徳川家の藩主が代々世襲した官位が中納言であり、中納言の唐名が黄門であったことに由来する)

慶長十二年 豊前小倉城

 沼田延元(ぬまた のぶもと 門司城代)は忸怩(じくじ)たる思いだった。特に松井の小倅(こせがれ)の申し様は腹に据えかねた。松井の小倅とは筆頭家老・松井康之(まつい やすゆき 天文十九年1550年~慶長十七年1612年)の嫡男・松井興長(まつい おきなが 天正十年1582年~寛文元年1661年)である。筆頭家老の嫡男とはいえども、家督相続も終えていない無位無官の分際で重臣の話し合いの場に参加し、発言するなど分に過ぎた振る舞いであった。
「興長殿は、この度の難渋は、すべてこの沼田延元の不手際と申されるか」
 怒りが表情や口調に出ぬよう殊更に努めて延元は問うた。
「そうは申してはおりませぬ。以前、我々譜代の家臣と豊前衆との共存を話し合ったおり、佐々木岩流を推挙されたのは、御城代であったと申したまで。そして、佐々木岩流の器量が御城代の眼力以上であったと申したのです」
 要はお前には人を見抜く目が無いと云われたも同然であった。ただ、佐々木岩流の器量が、延元の予想をはるかに凌駕していたのは紛れもない事実であった。
 佐々木岩流は、細川家重臣達の想定していた以上の切れ者であった。まず手始めに、岩流は与えられた俸禄(ほうろく)千石を召し抱えた家臣等に分け与えた。その上、武士だけに限らず領内の豪農豪商にまで手持金として分配した。豪商の中には筑前国(現福岡県)博多の島井宗室(注2)までもが含まれていた。豊前衆、豪農、豪商の集団は、佐々木岩流の流派から名を採って「巌流党」呼ばれるようになった。
 細川家譜代にすれば、いや、武士階級全体にとって、政治勢力とは、武士階級、広く見ても学者、僧侶階級までであった。藩士以外の地侍、農民や商人を政治勢力として一まとめにした岩流の手腕は、細川家重臣にとって驚愕に値した。
「豊前衆の地侍だけならなんとでもなるが…、豪農豪商となると由々しき問題じゃ」
 筆頭家老・松井康之が弛んだ顎の肉を撫でながら呟いた。
「父上、お言葉を返すようですが、百姓町人こそ何とでもなりましょう。むしろ、厄介なのは武力を背景にできる豊前衆、彼等をなんとかせねば」
 嫡男・松井興長がしたり顔で反駁した。
(でかい面してもまだまだだな。政事が何も解っていない。この豎子〈青二才〉め。筆頭家老亡き後が楽しみだ)
 延元は、内心ほくそ笑みながら知らぬ顔でいた。
「お前が毎日喰っとる米は誰が作っとるのだ。おまえが女を買う金はどこから出ているのだ。なにもわかっとらんな、興長…」
「……」
(この抜け作、まだ解らぬらしい)
 延元は吹き出しそうになるのをじっと堪えた。
「いいか、よく聴け。わし亡き後、家老職に就くのだからな。米は百姓が作り、年貢として藩の御蔵に入る。入った御蔵から扶持米として武士に支給される。支給された扶持米を、門司、小倉、博多の商人に買い取ってもらい現金にする。これが武士の経綸じゃ。我ら侍は何も作らんし売らん。そのかわり政事を行うのじゃ」
「岩流の息がかかった者に入と出を抑えられたというわけですな」
「さすが門司城代、話が早い」
(しまった)
延元は心中で舌打ちをした。
(今まで私が大過なく出世できたのは、決して表に立たず裏方として立ち回ってきたからだ。ここで御家老の目について不味いことになるかもしれぬ)
「はてさて困った次第となった。殿に何と言上すればよいのか…」
松井康之が思案顔しながらチラチラと延元に視線を送ってくる。延元には康之の魂胆は分かっている。このような何の手立てもないままで主君忠興に言上などしようものなら、忠興の気性からすれば手痛い叱責を受けるのは必定だった。その言上をお前がやって叱責を受けてこいと康之は言いたいのだ。だが、こうなれば仕方ない。
「殿には延元が言上いたしましょう」
「ご苦労だが、頼むとしよう。延元殿は殿の御信任が厚いでの。我らはこれで」
「御信任厚いなど畏れ多いことです」
(このタヌキめ)と腹に秘め、延元は平伏した。
(注2) 島井宗室(天文八年1539年~元和元年1615年): 戦国時代中期、江戸時代初期の筑前国(現福岡県)博多を代表する豪商。豊臣秀吉、徳川家康の庇護を受け博多を発展させた。今日の大都市福岡市(博多)の基礎を築いた大商人並びに文化人である。
 
関ヶ原の戦い後のこの時期、小倉藩細川家と同様の問題を抱えた大名は全国に多数あった。西軍に属した大名の没落に伴い、東軍諸将の論功行賞が実施され関ヶ原敗軍の大名の後に東軍の諸将が入封した。例を挙げるならば、山陰山陽の太守であった毛利輝元(天文二十二年1553年~寛永二年1625年)が長門国(現山口県西部)周防国(現山口県東部)の二か国に逼塞させられ、それまで藩都だった安芸国(現広島県)広島には福島正則(永禄四年1561年~寛永元年1624年)が入った。また、土佐国(現高知県)の生粋の戦国大名・長曾我部元親(天文八年1539年~慶長四年1599年)の嗣子・長曾我部盛親(天正三年1575年~慶長二十年1615年に)も西軍に属したため領地を召上げられ浪人となった。空白となった土佐一国二十万石には、遠江国(現静岡県西部)掛川藩(石高五万石)山内一豊が入封して大出世となった。ただし、卓越した武名を誇り、行政手腕で藩内を大過なく統治した福島正則と違って、ほぼ無名の小領主であり、大した武功を無いまま小山評定(注3)での一言で土佐一国を手にした山内一豊にとって土佐は難治の土地であった。長曾我部侍・別名で一領具足(注4)がまだまだ健在で山内藩政の悩みの種であった。山内一豊と藩重臣等は、長期的な観点での懐柔策を採らず、性急な方法で事態を打開しようとした。慶長六年(1601年)三月一日、新領主入部の祝賀として、高知桂浜において相撲興行を開催した。見物人が藩内各所から大勢集まった。反抗分子を事前に洗い出してあり、反抗分子七十三人を捕縛し磔(はりつけ)に処した。この騙し討ちのような殺戮劇は後世まで大きな禍根と遺恨を残し、山内侍(上士)と長曾我部侍(下士もしくは郷士)として明確に差別された。ちなみに明治維新に輩出した志士、坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太、岩崎弥太郎等はすべて長曾我部侍の末裔である。 
(注3) 小山評定:慶長五年(1600年)7月25日に下野国小山(現栃木県小山市)で徳川家康が主宰した評定(会議)である。五大老の一人である会津領主・上杉景勝(弘治元年 1556年~元和九年 1623年)討伐のため徳川家康が大軍を率い行軍中、大坂での石田三成の挙兵を知り、今後の方針を配下諸将と軍議した。結果は反転西上し石田三成の討伐を目標に掲げた。席上、遠州掛川領主・山内一豊が皆に率先して掛川の城と領地を徳川家康に差し出す旨を発言した。途中の東海道に領地を持つ武将達がすかさず、我も我もと後に続き東軍の結束が固まった。この一言の功績により山内一豊は、土佐一国の領地を手に入れた。

(注4) 一領具足(いちりょうぐそく):土佐の戦国大名・長曾我部元親が考案・編成した半農半兵の農兵組織である。その名は、平素は農事に従事しており、田畑の畔に一領(一揃い)の具足(武具と武器)を常備していたのに由来する、非常呼集に即応できる有能な農兵軍団として長曾我部氏の四国統一に多大な貢献をしたといわれている。

慶長十二年 豊前門司 沼田延元の館

 (なんというおそろしいお方なのだ…)
 細川忠興という戦国武将の恐ろしさと狡猾さと偉大さを今日ほど思い知らされた日は無かった。沼田延元は、妻に給仕されながら夕餉を摂っていたが、一向に箸が進まなかった。主君の言動が脳裏に焼きつき、繰り返し思い出されてならないからだ。
 今日の夕刻、城内中奥で重臣会議の模様を恐る恐る忠興に言上した。一通り聞き終えた後、気色ばむかと覚悟していた延元の予想に反して、忠興は事も無げに、まるで鶏でも絞めるかのように言った、
「斬るしかあるまい」
「…、しかし…」
 二の句が継げずにいる延元に忠興は、
「総見院様なら何の躊躇もなく成敗されるであろうよ」
総見院とは、亡き織田信長の戒名である。
「藩命による誅殺はあまりにも対面が悪うございますし、豊前衆が黙っておりましょうや…」
「頭を使え、延元。だれが藩命で斬れと言うた」
「ではどうやって」
忠興は、一旦、延元から視線を外しながら言った。
「ところで、京の一条下がり松で京一番の流派である吉岡一門をたった一人で殲滅した宮本武蔵とか云う兵法者がこの九州に参っているらしいぞ」
「……」
 忠興の意図が読み取れずに沈黙をしてしまった延元の肩を扇子でポンポンと叩いた忠興の顔は笑顔であった。
「そちも意外と察しが悪いの。兵法者同士で渡り合う尋常の果し合いで岩流が負けてもどっからも文句は出まいよ。岩流の弟子たちが騒ぐであろうが細川家中はあずかり知らぬこと」
 人間が悪巧みをするときの顔とは、こんなにも無邪気な笑顔なのかと延元は怖気が覚えた。
「至急、宮本武蔵を探し出しまする」
 主君の視線を避けるように延元は御前を下がった。





(寄稿)大松

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