諏訪頼重とは
諏訪頼重(すわ よりしげ)は、戦国時代の永正13年(1516)に諏訪頼隆の嫡男として生まれました。永正17年(1520年)から頼重は、神社に奉仕する神職である諏訪大社の大祝を務めます。
享禄3年(1530)に父の頼隆が病死すると、祖父の諏訪頼満が後見人となりました。ちなみに頼隆の死について、諏訪大社の神事をめぐる神官同士の対立を仲裁した際、先例を曲げることをしたため、神罰が下った結果ではないかといわれていました。
諏訪家の当主として
天文7年(1538)になると、頼重は諏訪大社大祝を弟の諏訪頼高に継承。戦国大名諏訪家の当主となるべく準備を始めます。
そして、翌年の天文8年(1539年)に背中にあった腫瘍の悪化で頼満が病死し、頼重は諏訪家19代目当主として家督を継ぎました。
天文9年(1540)には、武田信玄の異母妹で武田信虎の3女・禰々と政略結婚を果たします。
元来、諏訪家は頼満の頃より武田家と敵対関係にありました。
一時期は反武田の国人衆と手を結んで甲斐国に侵攻するくらい勢力を保っていました。しかし、天文4年(1535)に和睦し、2人の政略結婚に至っています。
天文10年になると、同盟を結んだ信虎と村上義清と連携して海野家や真田家と戦います。この戦いは海野平の戦いと呼ばれ、頼重ら同盟軍の勝利に終わります。しかし、戦後に信虎が武田信玄のクーデターによって甲斐国を追放し、家督を継承。この報によって、海野家の要請を受けた上杉憲政が挙兵しました。
武田信玄の侵攻
頼重は憲政の挙兵に先駆けて、独断で憲政と領地分割及び和睦を結びます。これを盟約違反と捉えた信玄は、翌年の天文11年(1542)6月に諏訪領へ侵攻を開始しました。信玄は反諏訪勢力の高遠頼継と共に、諏訪家が治める上原城攻略を目指します。
上原城が落城すると、頼重は同年7月に桑原城で籠城します。しかし、家臣の多くは逃亡してしまったため、戦えないと判断した頼重は降伏。弟の頼高と甲斐国へ連行されました。その後は東光寺に幽閉され、頼重と頼高はその地で自害しました。頼重の死によって、戦国大名家としての諏訪家は滅亡しました。
その後の諏訪家
頼重の死によって、正室の禰々と天文11年(1542年)に生まれていた嫡男の寅王丸、その姉の諏訪御料人は、甲斐国で保護されました。そして禰々は天文12年(1543)に16歳で死去。
寅王丸は、諏訪家の家督が信玄の4男・武田勝頼に継承されることが決まった天文15年(1546年)に、今川義元を頼って亡命を計画します。この時期は大叔父にあたる諏訪満隆が諏訪家の家督継承に納得がいかず、武田家に反乱を企てている時でした。そのため、寅王丸も混乱に乗じて便乗しますが、計画が露見し殺害されました。
諏訪御料人は、隠れなき美人と称され、天文14年(1545年)に信玄の側室となります。そして、翌年には武田勝頼を出産しました。そのことから、勝頼は頼重の外祖父に当たります。そして、弘治元年(1555)に諏訪御料人は病死しました。
寄稿(拾丸)
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