北の関ヶ原の戦い【慶長出羽合戦】徳川家康と上杉景勝の確執

上杉景勝最上義光の確執

戦国時代の1598年(慶長3年)
上杉景勝は、豊臣秀吉の命令で越後から会津へ移封します。
これにより、会津、安達、信夫、伊達、置賜及び庄内が上杉領となり、120万石を治める日本有数の大大名となったのです。





上杉領の飛び地である庄内は、越後が上杉領だった頃に上杉景勝が庄内・十五里ヶ原の戦いで最上義光に大勝利したことで上杉氏の配下・本庄繁長が治める事となります。
その後も豊臣秀吉の奥州仕置により、継続して庄内を上杉氏の領地として治めることになります。

ただ、十五里ヶ原の戦いは、豊臣秀吉による惣無事令後の戦いであったため、上杉氏と最上氏の間に禍根を残すことになったのです。

庄内が上杉領になったことで、最上義光は南と西から挟撃される危険性がありましたが、上杉側も会津を中心とする新しい領地と庄内を最上領が遮断していたため庄内が孤立してしまう危険性があったのです。

この微妙な関係が、後の戦に繋がっていきます。

徳川家康と上杉景勝の確執

慶長出羽合戦は、豊臣秀吉が亡くなった後の徳川家康と上杉景勝との対立が、事の発端と言えます。

徳川家康と上杉景勝は、豊臣政権では五大老の一人でしたが、豊臣秀吉が亡き後、徳川家康は天下取りに向けて大胆な行動を起こしていくのです。
一方の上杉景勝は、豊臣秀吉の葬式後、会津に戻って新たな城の建築を直江兼続に命じました。

この築城(神指城)は、豊臣秀吉が存命中に許可を貰っていたもので正当なものでした。
しかし、徳川家康が新たな築城は戦の準備のためで豊臣政権に謀反を企てようとしているとして、上杉景勝に真意を確かめるための上洛を命じたのです。





同じ五大老からの上洛命令を拒絶した上杉景勝は、自分たちの潔白を証明するための手紙「直江状」を徳川家康に送ります。
これを読んだ徳川家康は、直江状を慇懃無礼すぎる果たし状と怒りを露にして会津征伐を決定したのです。

◆会津征伐と西上

徳川家康を中心とした討伐軍が上杉領の会津に向かっている途中、関東・東北の諸将に対しても出撃命令をだして敵味方を見極めようとします。
これには、自分の権威を明らかにするとともに、敵対が明らかであれば会津征伐のついでに潰してしまおうという考えがあったのかもしれません。

1600年(慶長5年)7月24日
徳川家康が下野の小山で滞陣している時、石田三成毛利輝元を大将として挙兵したという火急の報せが入ります。

徳川家康は、同行していた諸将を集めて評定を開き、一旦会津征伐を中止して石田三成らの征伐に切り替えることを伝えます。
黒田長政福島正則加藤清正など多くの諸将は、準備が整うと次々と西上していったのです。

また、徳川家康に賛同した東北の諸大名(南部氏、秋田氏、戸沢氏、滝沢氏など)は、最上氏の山形城に集結して米沢口から会津に侵入して挟撃することになっていましたが、会津征伐が中止となったため自領に戻ってもらいました。
一方の徳川家康は、西上することなく江戸に留まると、石田三成らと共に挙兵した諸将の切り崩し工作を行ったのです。

徳川家康を中心とした大軍への迎撃準備を行っていた上杉景勝の元にも、石田三成らが挙兵したとの報せが入ります。
そして、徳川家康らの大軍が西上したことを知った上杉景勝は、とりあえず大軍が攻めてくるという危機を回避することが出来ました。

1600年(慶長5年)9月1日
準備の整った徳川家康は、3万の兵を率いて江戸を出陣しました。
この出陣は、徳川家康の動向を警戒していた上杉景勝のもとにも直ぐに届きました。

北方の脅威

徳川家康が西上したことで、南からの脅威が無くなった事を確信した上杉景勝。
これを好機と捉え、再び徳川家康らが攻めてくる前に敵対する北方の脅威を無力化することを決意します。

その攻撃対象は、上杉の領地に挟まれた最上義光でした。
上杉景勝に狙われた最上義光は、嫡子を人質として出すことで山形へ侵攻してこないように使者を送ります。

しかし、一方で最上義光は、出羽の秋田実季と共謀して庄内を攻めようとしていました。
それを知った上杉景勝は、義に反するとして激怒します。
そして、最上領に侵攻して短期間で殲滅する事を決定します。

慶長出羽合戦

◆上杉軍の出陣

1600年(慶長5年)9月8日
米沢と庄内から挟み撃ち攻撃するため出陣した上杉軍。
米沢から総大将として直江兼続率いる2万5千、庄内から3千という大軍でした。

これを迎え撃つ最上軍の総兵力は7千程でしたので、明らかな数的不利といえました。
また、領内の支城に兵力を分散していたため、最上義光の拠る山形城には4千程の兵しかいなかったのです。

直江兼続率いる上杉軍本隊は、最上領内に入ると5方面(狐越街道、小滝口、大瀬口、栃窪口、掛入石仲山口)に兵力を分散して最上領侵攻を開始します。

1600年(慶長5年)9月13日
上杉軍は支城の畑谷城を包囲します。
この時、城内には城将の江口光清と5百人ほどの兵しかいませんでした。

最上義光は、上杉軍が最上領に侵攻を開始した時点で江口光清に山形城への撤退命令を出していましたが、その命令を無視します。
江口らは玉砕を覚悟して上杉軍と戦う事を決めていたのです。

兵力で圧倒する上杉軍の総攻撃によって、畑谷城はその日のうちに落城します。
この戦いで江口光清と多くの城兵が亡くなりますが、対する上杉軍も1千人近くの死傷者が出たと言われています。

1600年(慶長5年)9月15日
各方面から合流して菅沢山に対陣していた直江兼次の本隊は、大軍で力攻めによる長谷堂城攻撃を開始します。

長谷堂城には1千人ほどの最上軍が籠城しており、上杉軍の攻撃を必死に防戦しました。
力攻めをしていた上杉軍は、予想以上の防戦より苦戦を強いられたのです。

同日、長谷堂城を攻撃されていることを知った最上義光は、嫡男・最上義康を伊達政宗のところに派遣して援軍を依頼します。

9月16日
長谷堂城主の志村光安は、2百名の決死隊を結成します。
この決死隊は、夜闇にまみれ城を向けだすと上杉軍の春日元忠隊に向けて夜襲を開始したのです。
この攻撃により、上杉軍は同士討ちなどの混乱に陥ったのです。

9月18日
この戦いで苦戦を強いられた上杉軍は、長谷堂城周辺の稲を刈り取る刈畑狼藉を行なって最上軍を挑発しますが、思う通りにはなりませんでした。

9月21日
保春院(伊達正宗の母・最上義光の妹)による催促などもあって援軍の依頼を聞き入れた伊達政宗。
留守政景を大将とした3千の軍勢が山形に向けて出陣しました。

9月29日
苦戦続きの上杉軍は、長谷堂城を落城させるために総攻撃を敢行します。
しかし、寡兵の長谷堂城の志村光安らは、決死の覚悟で防戦するだけでなく、上杉軍の上泉泰綱を討ち取るという戦果も挙げたのです。

この戦いの最中、直江兼続のもとに「石田三成らの西軍が、徳川家康を中心とした東軍に大敗したと」という報せが届きます。
また、翌日には最上義光もこの結果を知ることとなり一気に形勢が逆転することとなったのです。

10月1日
西軍(石田三成ら)が敗北したことで、上杉景勝が次の標的となることは明らかでした。
そのため、直江兼続が率いる上杉軍は即時撤退を開始します。

上杉軍の撤退を知った最上義光は、上杉軍を殲滅するために徹底的な追い討ちをかけていきます。
この撤退により、両軍は槍や銃による激突をくりかえしたことで、多数の死傷者がでることになります。

慶長出羽合戦は、上杉軍の撤退によって幕を閉じることになります。
ただ、この戦いで双方に多数の犠牲者を出ましたが、勝敗についてはハッキリしていません。
上杉軍は、最上領に進攻して支城を落城させるなど痛手を与えるだけでなく撤退にも成功、一方の最上軍は本拠・山形城の手前・長谷堂城での防衛に成功したのです。

その後

徳川家康と直接戦うことのなかった上杉景勝。
しかし、関ケ原での西軍(石田三成ら)大敗により、勝ち目がないと判断して徳川家康に降伏します。

これにより、石田三成らの西軍側だった、慶長出羽合戦を引き起こしたことで、庄内と会津が没収され120万石から米沢30万石への厳しい減封処分を言い渡されます。
唯一の救いは、宇喜多秀家など西軍側の諸将が改易されたのにもかかわらず、それを免れることが出来た事でした。

一方の最上義光は、慶長出羽合戦での奮戦を称賛されて、新たに庄内の領土を加増されたのです。
これにより最上義光の出羽山形藩は57万石となり、東北において仙台藩(伊達家)・会津藩(蒲生家)に次ぐ大藩となったのです。

(寄稿)まさざね君

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