戦国期における水路の要衝『港』(湊)という一大経済源

 筆者が、今まで執筆させて頂いた記事群で、しばしば「有力戦国武将の戦力」と「港(湊)の存在」という経済的関係性を記述させて頂いております。その数例を挙げさせて頂くと、以下の通りです。

戦国期における水路の要衝『港』

1.「織田信長は、伊勢湾交易の2台拠点である津島・熱田を有しており、その後の信長勢力伸長の基盤になっただけでなく、信長自身の徹底した合理的思考法に大きな影響を与えたこと」

2.「越後の上杉謙信長尾景虎)も、(上記の織田信長と同様に)、古代から日本国内の最大海上ルートであった日本海航路の流通拠点であった越後の直江津や柏崎の良港を有しており、そこから産出される莫大な貿易利潤を元手に、朝廷幕府外交や川中島合戦や関東への大遠征を複数回に渡って敢行することが可能であったこと」

3.「中国地方の覇者となる毛利元就の一大決戦である厳島合戦の起因は、名門戦国大名・大内氏(陶晴賢)と、中国大陸および西洋諸国(南蛮貿易)との大動脈であった瀬戸内海航路の要衝・厳島=宮島の領有を巡るものであったこと」

 以上の3点は、今まで公表させて頂いた記事に記述した要点です。自分が言うのも滑稽でありますが、馬鹿の一つ覚えの如く、シツコイくらい港と戦国武将たちの関係性を書いたものであります。
 筆者が、これほどまでに戦国武将と港の関係性に強い関心を持つ嚆矢となったのが、2014年に刊行された武田知弘先生の名著『「桶狭間」は経済戦争だった』(青春出版社)を読んだことであります。この武田知弘先生の名著を読んだことによって、筆者は戦国期の港(交易)の重要性を知り、大仰に言えば戦国経済史への知的好奇心が大いに刺激されたのであります。
 無論、武田知弘先生が戦国経済史の先駆けでないことは確かであり、武田先生が『桶狭間は経済戦争だった』を書かれる以前に数々の偉大な諸先生方も戦国経済史や当時の港の研究をされておられます。
 例えば戦国社会史研究の大学者であられた故・永原慶二先生、現在の戦国史研究の泰斗というべき静岡大学名誉教授であられる小和田哲男先生も、戦国期における港や海上交通の重要性について、論文や書籍などでご発表されおられます。しかしながら、筆者が戦国経済史(特に海上交通=港)について興味を持つ切っ掛けとなったのは、先述のように武田知弘先生の『桶狭間は経済戦争だった』を読んでからであり、その後に永原慶二先生や小和田哲男先生の書籍を読ませて頂いた形であります。
 筆者如きの長過ぎた前置きはこれぐらいにしておきまして、今回は戦国期における水上流通および、その拠点たる「港=湊」について徒然に書き進めてゆきたいと思います。
 
 一言で、『港』あるいは『湊』と言っても、現在における港の種類は様々であることが気が付きます。「漁港」「軍港」「工業港」「フェリー港」「ヨット港(マリーナ)」、そして「商港(貿易港)」等々が挙げられます。
 漁港と商港と工業港の役目を持つ有名港として九州の長崎港があり、江戸幕末期に開港され、当時の日本政情(開国派と攘夷派の対立)に大きな影響を与えた存在である関東の横浜港や関西の神戸港は、現在でも国内有数の商工業港であります。また明治期に興った旧帝国海軍の重要拠点であった横須賀(神奈川)、舞鶴(京都)、呉(広島)、佐世保(長崎)は各地方に軍艦や人員を配備するために開かれ発展してきた軍港であります。
 現在のように鉄道・自動車、道路など整備され更に進化している陸の移動輸送手段の方が我々に馴染みが深いですが、四方を海に囲まれている日本国では、現在でも上記のように、日本各地には商港や軍港(海上自衛隊の拠点)、漁港など色々な役割を持つ港が各地に存在しています。そういう意味では現在の日本も海洋国家と言っても過言ではないです。
 多くの港湾を国内に持つ海洋国家としての日本は、古来より不変なものであり、寧ろ明治期以前の日本の方が、現代よりも遥かに海・河・湖の水上運送が活発であった正真正銘の海洋国家でありました。

 『陸運が水運に取って代わったのは、明治時代に鉄道が敷かれ、陸(おか)蒸気が走るようになって以後のことです。戦後になると、今度は自動車が鉄道に取って代わるようになりました。』(祥伝社『徳川家康の江戸プロジェクト』文中より)

 上記を書いておられるのは、歴史小説『家康江戸を建てる』の作者であられる直木賞作家・門井慶喜先生であります。門井先生がお書きになっておられるように、江戸期までの日本は水運が主流であり、そのための多くの船舶、それらが荷揚げや荷降ろしなどするための留場(泊場)、即ち港、当時は『湊』が重要なトレードセンターでありました。
 昔より日本が水運(水上交通)およびその策源地である港/湊が発展してきた理由には、四方が海に囲まれているという絶対的地理条件に加え、明治期以前、特に古代~戦国期までの日本国の道路事情の劣悪さというインフラの脆弱さにもありました。
 
 古代(6世紀末頃)に律令制度が整えられることによって、畿内(中央政権、大和朝廷および山城朝廷)と地方を結ぶ東海道・山陽道といった古代官道の敷設(陸路整備)が本格的に行われるようになり、民衆宗教や武士政権が勃興した中世(平安末期~鎌倉期)になると、地方と地方を結ぶ街道(参道や軍用路)も敷設され始めました。また戦国期になると、各戦国大名は、迅速な軍事行動および領内の商業物流発展を目的として、自領内での道普請などをに力を入れるようになってゆき、日本国内の各地方は、それぞれに拠る戦国大名によって徐々に陸路は整備させてゆくようになりました。
 しかし、それでも戦国期当時の陸路は、道幅が狭い上、町や集落から遠く離れた場所、山間などに街道が敷かれてあって利便や安全性も良くない上、現代のように輸送機器が発展していない当時では一度に多くの物資を運ぶのが大変であり、馬1頭で最大100キロ位までの荷物しか運搬できない状態であります。現在の大型運搬専用自動車の最大積載量10,000キロ(10トン)と比較すると何とも貧弱な陸路輸送手段であります。
しかも馬は当時でも貴重な家畜動物であったので、多くの庶民、および小規模な商家や行商人たちが多くの馬を運搬(荷駄)に使うということは彼らの経済力では難しいことでした。よって、戦国期では多くの馬を使い物資輸送を請負う「馬借」という輸送業者が経済的に力を持つようになってゆくことになり、その業者から織田信長のパトロン的武家商人であり、信長の側室・生駒吉乃の生家でもある「尾張生駒氏」が台頭したことは有名であります。
 兎に角にも、当時の陸路輸送の馬はとても高価で貴重な輸送手段であり、経済力に乏しい庶民や行商人では馬で物資を運ぶことは難しく、それを利用できない者たちにとって、物資を運ぶには「人力」のみに限るようになってきて、人間1人が運べる荷物量は馬に比べると微々たるものになってきてしまいます。また人が重い荷物を担いで、それを運搬してみても山間に敷かれている街道などを通っている時に、山賊などに襲撃されるリスクが多かったのであります。因みに人間8人分の働きをする(諸説ありますが)と言われた時代劇でもお馴染みの「大八車」は江戸期になって誕生する総木製運搬車であります。
 陸路における1度の最大輸送量が少なく、輸送中におけるリスク(襲撃など)に代わって、多くの荷物を一度に運搬できる「舟」が物流の主力となってゆきます。先程は馬1頭で運搬できる荷は約100kgまでと言いましたが、対して舟では、規模によって運搬重量の差異は出てきますが、小型舟1艘で「馬の約10倍の荷物(1000キロ)が運搬できた」と言われています。
 陸路では馬や人力で限られた少量の荷物しか運べないのに比べて、約10倍以上の荷物を運搬できる利点を持つ舟(水路)ですが、舟輸送で別の利点を挙げさせて頂くと、陸路輸送よりも「早く運搬できた」ことであります。先述のように道幅狭く、交通に不便な山間に多く街道がある陸路、そこを歩いて人力で担いで物を運ぶ、これでは陸路輸送は多くの労力と時間が費やされてしまいます。対して、舟による水路輸送は、操作方法を覚えれば多くの労力を要さず、強風(悪天候など)や潮流によって要する時間を左右されることを除けば、殆ど障害なく迅速に目的地まで物を運べます。

*水路輸送の主な2つの利点
1.陸路よりも大量な物資を運べる。
2.悪天候や潮流によって輸送状況は左右されるが、陸路よりも早く物資を運べる。

この水路輸送の利点をフルに活かし、商品経済の根幹地である城下町に網の目の如く水路(運河)を張り巡らせ、町中に多くの物資が迅速に行き渡るような都市設計を大々的にやった人物が豊臣秀吉であります。織田信長亡き後、天下の覇権を掌握した豊臣秀吉は、天下の首都として摂津石山本願寺跡地に壮大な大坂城を築くと同時に、天下の政治・経済都市とするべく大規模な大坂の町割(都市設計)も行い、運河を整備しました。
 秀吉が造った大坂の運河網は、後年、豊臣氏滅亡後の江戸期でも更に新設および改良が加えられて、物流輸送が益々盛んになり経済が活性化され、大坂は名実ともに日本経済の中心地・「天下の台所」となってゆきます。
 因みに、秀吉の都市設計(水路/運河重視)を見本として都市設計されたがのが「江戸」であり、徳川家康が小田原北条氏滅亡後、秀吉によって先祖伝来の領地、三河国をはじめとする東海・甲信の5カ国から、殆ど湿地帯で覆われていた不毛地帯の江戸(関東)に転封させられた後、家康は新たな本拠地・江戸の町割を開始。同じく元は湿地帯であった秀吉の大坂の町割を見本として、湿地の埋立を行う一方、小名木川や道三堀など多くの運河を開削してゆきます。江戸改め、現在の東京都内も多くの堀や運河がありますが(その上を首都高速道路が走る陸路の大動脈となっています)、これは家康が大坂の都市設計を真似たのが始まりとなっているのです。

 閑話休題、余談が長くなってしまいました。

迅速に多くの物資を載せる舟が通る「水路」、つまり『海路・運河・湖上交通』が戦国期を含める中世に大きく発展してゆくことになり、その状況に伴って水路の玄関口(中継点)にあたり人や物資が頻繁に行き交う『港』が交通の要衝および経済産業の発展地として繁栄してゆくことになり、強大な経済力(財力)を生み出すようになってゆきます。

 行商業=流通業が栄え、畿内などの日本中央から地方への物流が活性化した15世紀中頃の室町期(応仁の乱前後)から戦国期かけて、日本各地で水路の玄関口であった港が大きく発展しており、その最大規模を誇っていたのが畿内に在する泉州の『堺』、『大津』(近江)ですが、その他にも各地方では、以下の港(湊)が大きく発展しています。

・瀬戸内の「宮島」(安芸)や「赤間関」(周防)
・日本海側では「美保関」(出雲)、「敦賀と三国」(越前)、「輪島」(能登)、「岩瀬」(越中)、「直江津と柏崎」(越後)、「酒田」(出羽南部)、「土崎と十三」(出羽北部)
・九州では「坊津」(薩摩)、「博多津」(筑前)
・東海から関東では「安濃津」(伊勢)、「津島と熱田」(尾張)、「六浦と神奈川」(相模)、「品川」(武蔵)

 以上では鎌倉~室町末期、戦国期にかけて主に発展した『三津七湊』を含める港町を紹介させて頂きましたが、これは一部であり、他にも繁栄していた港がありました。上記に列挙させて頂きました当時の有力港町を見ると、それらが存在する港を有することができた殆どの権力者たちは、戦国史上における強豪になっていることがわかります。即ち、「宮島」「赤間関」からは大内氏、後に毛利氏、「美保関」からは尼子氏、「敦賀」からは朝倉氏、「坊津」からは島津氏、「直江津と柏崎」からは長尾氏(上杉氏)、「酒田」からは最上氏、「土崎」からは安東氏(秋田氏)、「津島と熱田」からは織田氏、「神奈川」からは小田原北条氏、といったように最終的には滅亡する大名も存在しますが、いずれも戦国期に勢力を誇った大名ばかりであります。

『港(湊)』を抑えるということは、戦国大名たちとっては、港が持つ『水上物流ルートや財力、工業力』を支配下に治めるということなので、正に強大な収入源でありました。この文のくだりを書いていて急に思い出したことなのですが、1997年に放送されたNHK大河ドラマ「毛利元就」の劇中で、故・緒形拳さんが演じられていた山陰の覇者である尼子経久が、高嶋政宏さん演じる孫の詮久(のちの尼子晴久)に対して、『何よりも港を抑えることが肝心じゃ。城は二の次』と打擲し説教するシーンがありました。
 フィクションも含む劇中ではありますが、この尼子経久と尼子詮久との遣り取りは、戦国期当時に港が如何に重要であったかを顕したシーンであったことがわかります。実際、尼子氏が支配下に置いていた美保関などは、当時、尼子氏の本拠であった出雲国の特産で、重要な軍事資源であった「雲州鉄」を輸送する海上交易の一大拠点でした。その日本海側の重要港を抑え、山陰に大きな勢力を誇った尼子氏ですから、大河ドラマでの尼子経久と詮久のやり取りが実際にあっても滑稽ではない、と筆者は思えます。
(創作の世界とは言え)上記のように尼子経久や、他の戦国大名たちが欲した『港』から得られる収入源は具体的にどれくらいあったのか?そのことを前掲の小和田哲男先生が著作(詳細は後述)の中で、推測ではありますが概算を書いて下さってますので、それを参照させて頂いて紹介してゆきたいと思います。

 2011年~2012年までNHK教育テレビ(通称:Eテレ)で毎週火曜日に、『さかのぼり日本史』という面白い歴史教養番組が放送されていましたが、その2011年10月4週分の放送回で、小和田哲男先生がゲスト講師(語り手)としてご出演され、「戦国 富を制する者が天下を制す」というタイトルの下、三英傑を含める戦国大名がどの様な経済政策を行い、勢力を付けていった過程をわかりやすく解説されていたのが印象的でした。
 既に10年以上前に放送された番組ではありますが、NHK出版からも番組解説本としてソフトカバー版と電子書籍版が販売されているので、容易に当時放送されていた番組内容を詳細に知ることができます。
 筆者は電子書籍版『さかのぼり日本史7』を所有しておりますので、そちらを参照しております。その著書の中で、小和田先生は戦国期の港から得られる収入を以下のように計算されておられます。

『(越後の上杉氏は)、直江津と柏崎という大きな湊を押さえており、出入りする船荷に関税をかけていました。彼らはその税を「船道前(ふなどうまえ)」と呼んでおり、2つの湊から徴収される船道前は、年間なんと4万貫(60億円)にのぼりました』(「伊勢湾舟運で巨万の富」の文中より)

 越後の強豪・上杉謙信が直江津と柏崎という湊から毎年得られていた4万貫の収入を戦国後期~江戸幕藩体制期の経済指数となった「石高」に換算すると、「約30万石」の大名の収入に匹敵すると言われています。(参照:武田知広先生 著『「桶狭間」は経済戦争であった』)
 30万石に匹敵する財源とは途方もなく大きな利益であります。上杉謙信と死闘と繰り広げた名将たち、武田信玄は甲斐一国で「約22万石」、北条氏康で相模・伊豆の両国で「約25万石」。いずれも直江津と柏崎から得られたであろう30万石相当の収入には及びません。
 上杉謙信の本貫地は越後39万石であり、その領土から得られる米穀(主な財源)にプラスして、わずか2つの湊から得られる約30万石相当(4万貫)の副収入源があったようなものであり、越後一国で69万石の経済力を有していたことになります。69万石とは大勢力であり、その石高を基にして可能兵力動員数を簡単に計算(1万石につき250人の兵力)してみると、謙信は約1万7千の大軍勢を動員できるほどの実力を持っていると同様になります。(最も謙信が、その全兵力を合戦場に投入することは、領国や城に守備兵配置する諸事情などによって不可能でありますが)

歴史学者・磯田道史先生が司会をされているNHKBSプレミアムで放送されている歴史番組『英雄たちの選択』(毎週水曜 午後8時)で、上杉謙信を取り上げた時(関東から天下へ!~上杉謙信の夢と野望、2017年2月1日放送)、磯田先生は以下のようにご発言されています。

『戦国大名は、「田んぼ税=段銭」と「建物税=棟別銭」を領民から採るんですが、それ以外に『他の財布』を持っている奴は強いですよ。つまり『物産の専売』だとか、『金山』とか、あと『湊』を押さえる』

先述の上杉謙信以外でも、瀬戸内の天然の良港であった厳島、大陸貿易および日本海交易の出入り口となっていた赤間関を有した毛利元就。伊勢湾交易の重要拠点であった津島と熱田の湊を領していた織田信長。湊という一大経済拠点を支配下に置いた勢力は、いずれも戦国期を代表する大勢力となっています。戦国期当時の湊にはそれほどの力があったのであります。
 戦国期は、古代より続いている中国や朝鮮などの大陸貿易に加え、呂宋(ルソン/フィリピン)などの東南アジア諸国、ポルトガル・スペイン・イギリスなどの西洋諸国などの南蛮貿易も盛んに行われた海外貿易の隆盛期であり、日本各地の湊(特に西国)は大いに繁栄しました。
 江戸期になると、江戸幕府の方策、所謂、鎖国によって海外貿易こその規模は縮小されましたが、それでも江戸期では日本国内における海上交通がいよいよ繁栄を極め、有名な「千石船(弁才船)」が誕生し、大坂~下関~北陸~東北~蝦夷(北海道)までを千石船(北前船)で物資を運ぶ「西廻海運」、大坂~紀伊(現:和歌山県)~江戸を物資で運ぶ「菱垣廻船」が各海路を行き交うことになります。戦国期に比べ海外貿易が衰えた江戸期になっても水路交通の隆盛期であることは変わらず、各湊は様々な物流や文化交流で殷賑を極めてゆくことになり、日本全国の都市(江戸・京都・大坂など)と各地方が疎漏なく経済的・文化的に発展する「元祖 オールジャパン化」が開花することになります。

(寄稿)鶏肋太郎

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