武田信吉を短く解説「どうする家康」武田家を再興させた徳川家康の五男

武田信吉とは

武田信吉(たけだ-のぶよし)は戦国時代の武将で天正11年(1583)に誕生します。父は徳川家康、母は武田家家臣秋山虎泰の娘で穴山梅雪の養女・下山殿。家康の五男でありますが、松平姓を名乗る時期は短く、武田姓を名乗っていました。

武田家の再興

信吉がこのようになった背景には、武田家の再興があります。天目山の戦いの敗北で平安時代から続く甲斐武田家が滅亡しました。その後、家康の与力となった梅雪の子・穴山勝千代が穴山武田家として再興します。穴山勝千代は武田信治と名を改めますが、天正15年(1587)に天然痘で病死。信治の死で武田家は断絶しました。家康は武田の名跡を残すため、信治の母で信玄の次女・見性院を信吉の後見人とし武田家を再興しました。





信吉は、天正18年(1590)の小田原征伐後、家康の関東移封に従って下総国小金城(千葉県松戸市)3万石の領主となります。しかし、小金城は家康の直轄地であったことから、信吉は江戸に滞在していました。翌年には母の下山殿の死により、見性院が養母となりました。そして、文禄元年(1592年)には、下総国佐倉城(千葉県佐倉市)主となります。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いには参戦せず、江戸城西の丸の留守役を務めていました。慶長7年(1602)には佐竹家に替わって、常陸国水戸藩25万石に移封となります。信吉の移封に従い、旧穴山家臣も付き従いました。しかし、元来病弱だった信吉は、翌年の慶長8年(1603)に湿瘡で病死。21歳の若さでした。

信吉には木下勝俊の娘・天祥院が正室にいました。しかし、子に恵まれることがなかったので、武田家は再び断絶しました。その後の水戸藩には、家康の十男で異母弟の徳川頼宣が入り、頼宣移封後に家康の十一男で異母弟の徳川頼房が入ります。頼房は水戸徳川家の祖となり、信吉の家臣たちは頼房に従いました。

その後の武田家

信吉の死で武田家は断絶しましたが、信玄の次男・海野信親の子である武田信道が天目山の戦い後の織田家の残党狩りで生き残っていました。その後、武田家遺臣で徳川家家臣の大久保長安に匿われました。

しかし、慶長18年(1613年)の大久保長安事件で連帯責任を取られ、伊豆へ流されます。寛文3年(1663)には信道の子・信正の代で江戸に帰還。そして、信興(信正の子)が元禄14年(1701年)、江戸幕府5代将軍徳川綱吉に御目見したことを機に武田家は高家に列せられました。





以後武田家は、信玄の次男・海野信親から続く「高家武田家」と信玄の七男・武田信清が興した分家「米沢武田家」の2家が、現代まで続いています。

寄稿(拾丸)

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