石川数正とは
石川数正 (いしかわ-かずまさ) は、戦国時代の武将で土呂城主・石川康正の子として1533年に生まれた。
母は松平重吉の娘。
叔父に石川家成、石川康通は従弟となる。
徳川家康より10歳年上で、竹千代が人質となって駿府にいた頃から近習として仕えた。
2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」では俳優の松重豊さんが石川数正を演じられる。
1560年、桶狭間の戦いで今川義元が横死して、松平元康(徳川家康)が三河・岡崎城に復帰すると、石川数正は今川氏真と交渉。
人質として駿府に残っていた築山殿(瀬名姫)と松平信康(徳川家康の長男)の開放に尽力した。
1562年、織田信長との清洲同盟の成立にも交渉で貢献し、徳川家は今川氏真と戦う事になった。
永禄6年(1563年)、三河一向一揆となると、石川家は三河・本證寺(野寺本證寺)の信徒総代であった一向一揆に加担。
ただし、叔父・石川家成と石川数正は浄土宗に改宗して徳川家康に忠義を示した。
そのため、松平元康(徳川家康)は、石川宗家の家督を叔父・石川家成に命じている。
こうして酒井忠次、石川家成らが徳川家の重臣となり、松平信康が元服すると石川数正が後見人となった。
1569年、叔父・石川家成が遠江・掛川城主となってい移動すると、石川数正が西三河の旗頭となっている。(東三河の旗頭は酒井忠次)
1579年、松平信康が二俣城で切腹すると、石川数正が三河・岡崎城に入り周辺を統治した。
岡崎城と岡崎衆を任されたのが石川数正と言う事になる。
1582年、本能寺の変のあとに羽柴秀吉が台頭してくると、石川数正が徳川家の担当者として豊臣秀吉との交渉を担った。
徳川家の中では、どちらかと言うと争いを避ける穏健派・和睦派と言う考えだったともされる。
1584年、小牧・長久手の戦いの和睦条件として、結城秀康(徳川家康の次男)が大坂に送られた際に、子の本多成重(仙千代)や石川和正の2子・石川康長と石川康勝(勝千代)も従い、事実上、豊臣秀吉の人質となった。
1585年11月13日、石川数正は家族や家来を連れて岡崎城を出て出奔すると豊臣秀吉を頼った。
なぜ、徳川家康を見限り豊臣秀吉を頼ったのか?と言う理由はわかっていない。(諸説ある)
石川数正は河内国にて8万石となり、豊臣秀吉の家臣に加わった。
なお、徳川家の作戦や合戦時の合図や軍略などにも詳しい石川数正の出奔だったため、徳川家康は軍制を武田流に改めたと言う。
1590年、小田原攻めのあと石川数正は信濃・松本城10万石に加増移封となり、現在の松本城へと大改修を行った。
1593年に石川数正は死去。享年61。
肥前・名護屋城の陣にて病没したともされる。
なぜ石川和正は徳川家から離反したのか?
ここからはオマケ情報とさせて頂きます。
石川数正はなぜ徳川家の重臣と言う立場を捨てて豊臣秀吉のもとに赴いたのか?
前述したとおりその理由は不明といったところで諸説あります。
豊臣秀吉のもとを頼ったことから、少なくとも豊臣秀吉から声を掛けられていた可能性はあるでしょう。
ただ、豊臣秀吉は優秀な武将に手あたり次第「家臣になって」と言っている節もありますので、半分冗談を真に受けたのか?とも感じてしまいます。
なお、石川数正は徳川家中では穏健派であり、周りの敵とは和睦して合戦を避けると言う考えの持ち主だったようです。
当然、敵対した豊臣秀吉とも和睦を勧めた訳でした。
ただし、将来、徳川家の家督を継ぐであろう松平信康が切腹させられたことで、石川数正を筆頭とした岡崎衆よりも、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政などの浜松衆(主戦派)のほうが存在感を強めました。
更に、石川家の宗家は叔父・石川家成となっており、本来であれば嫡流である石川数正が石川家の本家という事にもなっていませんでした。
1585年9月、豊臣秀吉は徳川家康に対して、結城秀康以外に新たな人質を大坂城に送るように要求しています。
徳川家康は諸将を集めて評定を行いましたが、10月に新たな人質は出さないという結論に至っています。
その直後の11月13日に石川数正は出奔しています。
このように様々な要因が重なって、石川数正は徳川家を出奔したものと考えられます。
なお、豊臣秀吉の家臣に鞍替えしていながら、寝返りであったり、内通・謀反と言う言葉ではなく、単純に徳川家から姿を消したと言う表現の「出奔」(しゅっぽん)と言う言葉が使われていることが多いです。
石川数正が「出奔した」とあるのは松平忠明(徳川家康の孫)が著した当代記(とうだいき)と、江戸時代の兵法家・大道寺友山(だいどうじゆうざん)著した駿河土産(するがみやげ)に記述されています。
松平忠明の当代記によると、石川数正の子が豊臣秀吉の人質となっていたことが出奔の要因ではないかと感想が記載されているようです。
となると、豊臣家重視の石川数正ですので、徳川家康が完全に豊臣秀吉の従おうとせず家中で立場を悪くしたのと、子が豊臣家にいたことなどが出奔に至った要因と考えて良いでしょう。
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