真理姫の分かりやすい解説~武田信玄の3娘で木曾義昌の正室

真理姫とは

真理姫(まりひめ) は前述したとおり木曾義昌の正室になった武田信玄の娘で戦国時代の1550年に生まれた。(母は不詳)
法名は真竜院(眞龍院) しんりゅういん と言う。

武田信玄には5人の娘がいる。

長女・黄梅院は北条氏政の正室となり、北条氏直を産んだが、武田信玄が駿河の今川氏真を攻撃すると離縁され27歳で死去したと言う。
次女・見性院は筆頭重臣である穴山信君穴山梅雪)の正室となった。徳川家康の5男・武田信吉が名跡を継いだため江戸城北の丸で余生を送っている。
3女(4女・5女とも)とされるのが真理姫で1555年に木曽・上之段城の木曾義康が武田に降伏すると、子である木曾義昌の正室となった。
4女・松姫織田信長の嫡男・織田信忠と婚約も決まっていたとするが手切れとなり、結婚しないまま新府城落城の際に八王子に逃れて心源院に入り武田勝頼の娘・貞姫などを養育した。
5女・菊姫は1579年に上杉景勝の正室となり春日山城に赴いたのち、1604年に上杉家の京都・伏見屋敷にて死去。





このように姉妹らは有力な武将にそれぞれ嫁いだわけだが、真理姫が木曾に輿入れした際には、千村備前守、山村新左衛門、上村宮内などがつけられ、当時、真理姫はまだ6歳前後だったとも考えられる。
また、武田の阿部宗貞(阿部加賀守宗貞)が妻籠城を改修したともある。
ちなみに、木曾義康も人質として妻と娘・岩姫を人質として甲府に差し出している。

1582年、織田信長の命を受けた遠山友忠の調略にて木曽義昌が武田勝頼を裏切った。
このとき、真理姫に仕えて木曽にいた武田家臣の茅村備前守、山村新五郎左衛門が木曽義昌謀反の急報を新府城に伝えたと言う。
<注釈> 真理姫が夫・木曾義昌の離反を武田勝頼に知らせたともある。

木曽氏の人質は武田家臣の上野豊後守が預かっていたが、木曽義昌の母(70歳)、嫡男・木曽仙太郎(木曽千太郎)(13歳)、妹又は長女・岩姫(17歳)の3名を踊原(おどりはら)で処刑されたようで、新府城近くに木曽氏の墓がある。
土屋昌恒(土屋惣蔵)が処刑し、のち小幡景憲が供養したと伝わる。
木曽千太郎の母が真理姫だった可能性も考えられるが不明。

このように、夫・木曽義昌は人質を取られているにも関わらず武田勝頼を裏切り、なおかつ武田勢が鳥居峠に迫るなど実家から攻撃も受けることになり、真理姫の悲しみも相当なものであったろう。
結果的に木曽氏は生き延びたが、木曽一族から真理姫は恨まれたりしたかも知れない。
また、実家の武田を裏切ったとあっては、姉妹の松姫らにも会わせる顔もなかったであろう。
戦国のならいとは言え、平和ボケした今の我々では、真理姫の心中を計り知ることはできないと感じる。





なお、1582年に真理姫は夫・木曽義昌と離縁して木曾の山中に隠遁し、まだ幼い3男・木曽義一(よしかづ)を養育したともある。
ただし、離縁はしておらず、1592年頃に木曽義昌が下総・網戸城(阿知戸城)に移った際にも帯同したと言う話もあるので、念のため記載しておく。

下記は千葉県旭市、下総・網戸城の一角にある東漸寺の木曽義昌・真理姫供養塔。

木曽義昌・真理姫供養塔

1595年、夫・木曽義昌が下総・網戸城にて死去した。享年55。
真理姫が真竜院(しんりゅういん)と号したのもこの時だと考えられる。
家督は木曽義利が継いだが、叔父・上松義豊を殺害するなどの乱暴な振る舞いなどがあり、徳川家康によって1600年頃に改易・所領没収となった。

その後、真理姫は木曽に移ったともされるが、旧家臣の上村作右衛門らの保護を受けて木曽・黒沢にて暮している。
浪人した木曽義利は、母・真理姫を頼ったともされるが、木曽を通ったあと1640年に伊予・松山にて死去したともありよくわかっていない。

真理姫(真竜院)は、旧木曽家家臣と図りな木曽義通(木曾義一)を木曽家の当主に据えて再興を目指したが、1647年に死去した。享年98。
真理姫の子である木曽与惣次義一の仕官は叶わなかったようだ。





眞龍院殿仁栄宗眞大姉。
三岳村黒沢に墓とされる真理姫五輪の塔が現存する。

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